この広い屋敷に、自分と母親しかいない、そんな錯覚を覚える。
「どうしたの?」
 箸が進まない僕を見て母が言った。
「ん?」
 慌ててわからない振りをした。
「なにか悩んでいるの?」
「なにもないよ」
「そう? もしかして、進路を迷っているんじゃない?」
 母は言った。変に鋭いくせに、当たり前だけれど中身まではわからないのだ。いや、自分にだって、自分の問題がわからなかった。なにも気に病むところはないというのに、最近いつだってよるべなかった。
「まあね」
 こういうときは、とりあえず相手の言ったことに同意したほうが楽だ。「なにをどう悩んでいるのかわからない」なんて、誰にも相談できない。されたほうも迷惑だろう。
「あなたは大丈夫よ」
 母が言った。
「太鼓判押してもらっちゃったな」
 僕は笑った。このくらいがちょうどいい、と思った。なのに、うまく取り繕っているというのに、どんどん何もかもから離れていく感覚がある。
「あなたはちゃんと環境に順応できる子よ。いつだってそうだった。お父さん……、あなたのなんていうか、本当の、が死んだとき、あんなに小さかったのにわたしのことを気遣ってくれたし、二人で暮らしていたときも、わがままは言わなかった。いまだって」
 母は口をつぐんだ。「もう、今はなにも気にしなくていいんだから、ね」
「大丈夫だよ。母さんも大丈夫って言ってたのに、急に気にしなくてとか、話が飛んじゃってない?」
 僕は笑ってごまかした。
「そう? もしなにかあるんだったら、パパに相談してみたら」
 母はまだ、僕がなにを考えているのか探ろうとしているのか、目をこらした。
「そうだね。でも、いつも忙しいからね」
 母の再婚相手であるパパ、は美容整形のクリニックを経営していた。自分自身の見た目を変えたいという人々のおかげで、ずいぶん繁盛していおり、全国展開をしている。
 そんな人と、当時知り合いのスナックで働いてた母が再婚することになるなんて驚いた。僕が小学校に上がる前に父が死に、それまでずっと母と二人でやってきたのだ。あのとき住んでいた、布団を並べると畳が歩く場所がなくなるほどの狭い部屋が嘘のようだ。
 いまでは僕と母は、パパの広い屋敷の空間を持て余していた。お手伝いさんまでいるこの家では、主はあまり家に寄りつかない。たぶんどこかに女を囲っているのだろう。一人では足りない人なのだ。パパは三度目の結婚だった。そのすべてが、妻を追い出す形だった。じき僕らも追い出されるのではないか、と思うと、この家と馴染むことはできなかった。
 食事を終えようとしたとき、玄関のほうでどたどたと物音が聞こえてきた。そして乱暴な足音は近づき、部屋のドアが勢いよくひらいた。
「ああ、家族の団欒のおじゃまでしたか」
 顔を覗かせたのは、僕の兄の義仲だった。
「お帰りなさい」
 慌てて母は立ち上がった。血の繋がらない息子に恐縮していた。いつものことだが、その様子を見るとなんだか苦しくなってくる。
「あー、なんかメシがあると思ってたんだけどなあ」
 いやみたらしく義仲が言った。パパが好きな木曽義仲から名前をとったらしいが、粗野なところ以外は似ても似つかわない男だった。いまは大学生になり、遊び呆けている。
「パパは」
 この尊敬できない義兄は、あちこち泊まり歩いていて、金がなくなると家にやってきては小遣いをせびった。僕はいつだって、義仲がパパ、と言うのを聞くと、甘えのようなものを感じて不愉快になる。ずっと幼児のままなんの責任もとることなく成長もせずに生きてきた男の唯一の自慢は、親が金持ち、という自分自身なにも成し遂げてこなかった他人任せの人生の象徴のように思える。
「今日はまだ」
 母がつとめて笑顔でいようとして、ぎこちなく言った。
「だったら麻布の家かな、それとも鵠沼かな」
 義仲が言った。愛人の家のことだろうが、僕と母にはわからない。まるでほのめかすように言うのも気に食わなかった。
 義仲はお手伝いのおばさんを呼び、なにか作るように命じた。僕らの食事の片付けをして帰ろうとしていたらしく、おばさんはため息をついて台所へと去っていった。
 このまま部屋へ退散したかったけれど、母と義仲を二人にすることができなかった。義仲がストレスを母にぶつける。それをただ黙って受ける母の姿を見るのは辛かったが、部屋に逃げたところでその不快感をなかったことにすることはできない。なんなら金の無心をしている現場も見てやろう、と思った。
「そういえば、光太郎、お前金城と仲がいいんだって」
 急にその名前を聞いて、僕は身構えた。
「金城? なんで」
「そんな怖い顔すんなって、最近よく遊びに行ってる店の使いパシリみたいなことしてんだよな、あいつ。ほんでさ、俺が東雲だって言ったら、すげえ顔してたよ。お前、。友達になんか誹謗中傷でもしてくれてんの?」
 にやにやしながら義仲が言った。「まあなにを思ってくれてもいいけどさ、どこからそんな噂が入ってくるかわからないんだから、信用してても人にはあまりでかいことを言うもんじゃないぞー」
 おかしいわけでもないくせに、義仲はふふ、と笑った。
「そんな、光太郎、言わないわよね」
 その話を横で聞いていた母が僕に言った。
「もちろん、思ってもないことなんて言わないですよ」
「そうか? 金城のやつ、お前とは仲がいいとか言ってたぞ。仲良しの友達がママチチと兄貴にいびられてるって勘違いしているみたいだったな」
 そんなことないよな、と義仲が僕の肩を抱いて、胸を叩いた。
「金城とはここしばらく会ってないですよ」
 僕は嘘をついた。さっきの金城のプールを見上げた顔を思い出した。
「ふうん」
 義仲は納得していないらしかったが、話はそこで終わった。