僕が黙って見つめているからだろう。
「あー、キモい?」
 と羽田はおどけて見せたが、どこか傷ついているように見えた。
「なんも」
 僕は首を振った。真剣に打ち明けられたなら真剣に向き合いたかった。その羽田の秘密を知ったとき、自分の知らなかった自分の秘密もわかった。でもまだ、それを言葉にしたくなかった。
 「俺も恭一も湿ってるっていうかさ、クソデカ感情を兄ちゃんに抱えているんだ。ブラコンこじらせてるっていうか、そもそも兄ちゃんが最高だったからなんだけど。俺は兄ちゃんが好き。あいつのほうは兄ちゃんが死んでから誰のことも好きになれない、というかどうせみんな死ぬと思ったら、誰とも深く関われない。怖いから」
 まあそれは俺も似たようなもんで、俺らは似たもの同士でつるんでいるというか、わかんないか、うまく説明できねーや、と羽田が笑った。
「わかるよ」
 僕は言った。
「さすが、東雲は頭いいな」
「ばかにしてるだろ」
「ちげーよ、俺はお前をばかにしたことなんて一度もねえよ。なんでそう考えちゃうかなあ。東雲は頭がいいんだよ。それってすごいことなんだよ。俺ごときに言われたって嬉しくもないけどさ、尊敬してる」
「……ありがとう」
 僕は言った。羽田に謝るために向かい合っているのに、逆に褒められ、慰められているような気がした。そんな心の広い羽田を、自分はねたましいと感じていた。そうやって、隠していた。
 僕は、羽田に伝えなくてはいけないことがあった。でも、言葉が生まれてこなかった。わかっているのに、出てこない。
「とにかく、気にすんなってこと!」
 よっこらしょと羽田が立ち上がった。
 僕が手を差し伸べようとすると、
「いやそこまででないから」
 と羽田は笑った。
「じゃ、明日な」
 と出ていった。
 僕だけが教室に取り残された。
 羽田が自分を曝け出したというのに、自分はなにも腹の底から出せていない。勇気がない。
 そのとき、スマホが鳴った。
 公衆電話、とあった。
 一体誰だろう、と思った。知らない着信は出ないことにしていたが、僕は胸騒ぎがした。
「はい」
 僕が言うと、しばらく無言だった。
「いたずら?」
 僕は言った。電話ボックスからかけているのか、無音だった。そして、ふと、
「金城?」
 と言った。なぜわかったのか、わからなかった。
「うん」
 か細い声がした。
「どうした。なんで公衆電話?」
「なあ、頼みがあるんだ」
 その声はどこか呻いているみたいに聞こえた。
「頼み?」
「お前は大丈夫だ、って言ってほしい」
「どういうこと」
「いいから!」
 金城が怒鳴った。切羽詰まっていた。
「お前は、大丈夫だよ」
 僕は言った。返事がない。だから、僕は続けた。「金城は、大丈夫だよ。お前はほんとうにいいやつなんだよ。ずっと柔道頑張ってたじゃん。すげえなって思ってた。教室にいた同い年で一番早く黒帯になったって。ちゃんとやりたいこと、努力してる。ほんとにすごい」
 僕は、心の底から言った。
 いま励まさないと、金城がいなくなってしまうような気がした。
 僕の元からでなく、この世から、消えてしまいそうな気がした。
 金城は、うん、うん、と相槌を打った。そしてまた声が聞こえなくなった。
「金城?」
「ごめんな、俺がこんなことお願いできる立場じゃないってわかってる。金だって絶対返すし」
「いいよそんなのいつでも」
「俺さ、お前に大丈夫って言ってもらうのが一番元気出るんだよ。ずっと頭よくってさ、小さい時から弁護士になりたいとかぬかしてさ、クソ生意気だったけど、でも絶対なれるって思ってるよ。あー弁護士が友達にいたら、安心だなとか思ってさ」
 情けない声だった。なんとか奮い立たせようとしたらしい、小さく笑っているようだった。
「なに言ってんだ? どうした?」
 弁護士になりたいなんて、忘れてたよ。そうか、そんなことを昔自分はぬかしていたのか。恥ずかしいな、どんな仕事かもろくにわかっていなかったくせに、偉そうに。
「ごめんな、許してくれないよな」
「なにを言ってるんだよ」
「俺、お前の兄ちゃん殺しちゃった」
 時間が止まった気がした。
 あたりが無音に包まれた。
「殺した、誰を?」
 自分に兄なんていない、と思い、そしてしばらくして、義仲? と僕は言った。
「あいつ、金持って店に行こうとしてて、あいつだけ逃げるなんて許せねえって、喧嘩になって、それで」
「うん、いまどこにいるの?」
「けっこう遠く」
 金城は言った。「内緒だ」
「大丈夫なのか?」
「聞かないでくれよ。お願いだから、大丈夫だって言ってくれ」
「うん」
「俺がお前の兄貴の金を奪って、店に渡したからって、このままじゃ何も変わらない。なんならいかれたただの人殺しだよ」
「お願いだから、どこにいるのか教えてよ。行くよ」
 僕は言った。こんなとき、義兄を殺したやつにどう声をかけたらいいのかわからない。だからただ感情のまま考えずに言った。義仲のあの不愉快な顔を思い出した。殺したいくらいににくかったが、死んだとしたら、よくわからなかった。気持ちはどこにももっていけなかった。
「ごめんな。許してくれないよな。俺、お前の兄貴の金でどこまでも逃げる。顔も整形するし名前も変える。お前の義理の親父のとこでやりたいところだけど、さすがにくそすぎるわな」
 自分で無茶なことを言って、自分で情けなく笑っていた。
「いいよ。父さんの金なんて、いくらでも使っていいよ。あんなもの、返さなくていい。だから、会おうよ」
「お前に借りた金だけは絶対に返しに行くから。俺がちゃんと稼いだ金で、渡すから、ごめんな」
「うん」
「俺さ、お前と友達なのが、人生で唯一の自慢なんだ。だから東雲、なんでもいいから偉くなってくれよ。俺、お前みたいになりたかったよ」
 電話が切れた。
 ぼくはしばらくぼうっとしていた。
 自分がどうしたらいいのか、わからなかった。
 電話が再び鳴った。金城かも、と画面を見ると、家からだった。僕は出ることができなかった。衝動的に、スマホを教室の壁に投げつけた。バウンドして、床に叩きつけられても、スマホは鳴っていた。しばらくして、諦めたらしく、鳴り止んだ
「頭なんてよくない。自慢してもらえる資格なんてない」
 僕は言った。
 誰もその声を聞いてはいなかった。
 自分の声を、思いを、誰かに伝えなくては、と思った。大丈夫だ、と僕は誰かに言われたかった。背中を押されたかった。そんな人はいなかった。
 自分で自分を、奮い立たせた。
 僕は教室を飛び出した。
 靴を履き替えることなく、僕は校門を出た。そしてプールのあるほうへと向かった。
 上原がいつも立っていた場所に、羽田がいて、見上げていた。
「あ」
 と言って羽田が恥ずかしそうにはにかんだ。「情けねえよな、ほんと」
 僕は息を切らして、羽田を見ていた。
 僕は羽田をずっと見て、口をぱくぱくさせた。
「なに?」
 羽田が心配そうに声をかけてきた。
「僕は」
 その先が出ない。
「ん?」
 俺ごとき、と羽田はさっき言った。そんなことはない。羽田は、僕の百倍すごい。比べることなんてできないくらいに遥か彼方で輝いている。ごときなんかじゃないんだ、と頭で思っていたからだろう。
「僕は、お前ごときになりたかった」
 なにを言っているのかわからなかった。でも、これが心の底から、ほんとうは頭なんてよくない僕の奥底から出た言葉だった。
「なんだそれ」
 羽田が笑った。僕はその顔を見て泣きそうになった。
 金城、大丈夫なんて言わなくたって、大丈夫なんだよ。ごめんな。僕が羽田みたいだったら、そんなふうに言葉にしないでも、態度で、いるだけで、表現してあげたのに。消えてしまう言葉なんかよりもっと雄弁に、照らしてあげることができたのに。
「俺、ばかだからちょっと意味わかんないんだけど」
「僕は」
 もう一度心から、羽田への気持ちを、ありのまま存在で表現できないぼくは、言葉にしようと口を開いた。


 了