翌日、羽田は松葉杖をついて登校した。大丈夫かと、クラスのみんなに心配され囲まれると、
「足、ガンダムみたいじゃね? 武器もあるしさ」
などと笑って、松葉杖をライフルに見立てて、ばーん、などとおどけた。
終礼が終わっても、いつものように羽田はすぐに立ち上がらなかった。急いでプールに向かう必要はないのだ。
「ねー、神さま東雲さま」
僕の後ろの席の生徒が僕の肩をペンでつついた。
「なに?」
「あのさー、さっきの英語の授業なんだけど」
どうやら教えてほしいらしい。僕は後ろを向いて、自分のノートを見せながら説明をはじめた。
「……で、ってなに?」
クラスメートは僕の顔を不思議そうに眺めていた。
「もしかして、東雲、昨日なんかいいことあった?」
「なんで?」
「いや、なんかさ、今日、いつもと雰囲気違うから。なんていうか、いつももちろん聞いたらすぐに教えてくれるけど、早口でさっさとっていうか、わりとぞんざいだったじゃん?」
「そう?」
そんなふうに思われていたのか、と思い僕は驚いた。
「うん、まあ東雲頭いいし、バカはなんでわかんないんだろ、って思ってたろ?」
「思ってないよ!」
驚くを通り越してぶん殴られた気分だ。
「いや、東雲なんでもできるし頼りになるから、イラつかせてるんだろうな、って俺がひねくれてただけかもだけどさ、でも、うん、なんか今日の東雲はやわらかくなった。俺が女子だったら惚れてる」
「あほか」
「意外な一面てキュンとするもんだって、インスタのリールで言ってたからさ」
「やわらかいかな」
「うん、いい感じだよ。いままで悪かったってわけでもないいけどね」
そう言われて、嬉しかった。なんとなく、母が再婚してからずっと被っていた仮面が割れたのではないか、と思った。母のために自分でかけたというのに、外すことができなくなっていた。怖かったし、外してしまったらやっていけない、と思っていた。
そんなことはなかった。
だが、いま自分がやわらかくなっているのを素直に喜ぶことはできなかった。家では義仲があのあと、家にあった金を奪って逃げてしまっていた。
そもそも羽田があんなことになってしまったというのに、自分が笑っているなんて、薄情だしひどい、と言われてもおかしくない。
さっき話したクラスメートは、僕の家族の事情もしらないし、羽田のことを持ち出しもしなかった。そういうものかもしれなかった。
陰口や、他人のネガティブな思惑をはじめから気にしすぎていたのだ。
降りかかってから対処すべきものだったのかもしれない。
だからといって、これまでの自分に後悔したりはしなかった。ああいうふうに自分を守っていたからこそ、いまそう思えるのだ。無駄なことはなにもない。
今の自分が前よりマシであると思えた。
「羽田」
教室を飛びだすこともなく、逆に動くのが面倒そうに、羽田はまだ机にいた。
「おうよ、なんかクラス委員の仕事?」
なにも変わっていなかった。怪我の原因である僕に動揺したりムッとする気配もない。
「なに、こんな身体にしといてまさか仕事しろっていうんじゃないだろうな」
隣の席にいた上原が僕を睨んだ。
こいつのほうは、昨晩プールでなんとなくわかりあった雰囲気があったっていうのに、変わらなかった。昼と夜で性格が違うのかもしれない。ジキルとハイドか。
「いや、昨日のこと、ちゃんと謝ることができなかったから」
僕は頭を下げた。「ごめんなさい」
誠心誠意、僕は謝りたかった。許されやしないからこそ、きちんと。
「俺、便所行こうかな」
上原が立ち上がった。
「なんだよ、こんなときに一人にすんなよ」
羽田が慌てて上原の袖を引っ張った。
「一対一のサシの勝負だろ」
「勝負じゃないけど」
僕が言うと、
「真剣だってこと」
と眉を寄せ、教室から出ていった。
上原のほうも、なにか変わったのかもしれなかった。
あのとき、上原がプールにいたのも、自分が飛沫を感じて吸い寄せられたのも、もしかして、誰かに呼ばれたじゃないか、と非現実的なことを考えた。あまりにもお花畑な発想で、誰にも言えない。
夕方の教室には、僕と羽田だけだった。窓が空いていて、風でカーテンが揺れた。グラウンドのほうからどこかの部活の掛け声や、帰りの学生の笑い声が聞こえてくる。
「全然気にすんなよな」
羽田は言った。「ぶっちゃけさ、びびってたんだ」
高校最後の大会で、またもやたいした成績をあげることもできず、三年間のすべてを、いやそれ以前から励んできた水泳の一応のピリオドがしょうもなかったら、なんの自慢もできない、と羽田は困った顔をしながら言った。まるで冗談めかしていたけれど、奥底ではなにか悲痛なものを感じた。
「だからさ、怪我は色々なことを眺めるきっかけになったってわけさ」
「眺めるって」
昨日起こっての今日だっていうのに、なにを結論づけたというのか。
「泳ぎ続けたところで、目標には届かないってことよ。見て見ぬふりをしてたし、頑張りゃなんとかなるって思ってた。最後にゃ夢は叶うみたいな、歌の文句みたいにさ」
「目標って、それは記録とか大会とかじゃないんだろ」
僕は言った。
羽田は目を丸くして、
「なんだ、なに知ってるんだ?」
と言った。
「お兄さん、上原の」
僕は素直に白状した。嘘をつくのはいまの羽田に対してフェアじゃない、と思った。
「ああ、知ってたんだ? うん、まあそうだな」
羽田が頭をかいた。
「昨日、聞いた」
「あいつ、そういやへんなこと言ってたな。俺が病院で診察を受けているとき、ベンチで待っていたんだって。目を瞑って祈ってたって。ばかなやつ。で、そのとき、頭をぽん。と叩かれたっていうんだよ。で、声がしたって」
「なんて」
僕は息を呑んだ。
「迷わずにとびこめ、って。意味わがわかんなかったらしい。あれかも、懸命に祈りすぎて、なんか頭にこびりついている誰かの言葉が急にでてきたんじゃないか。俺マインドフルネスとかやると昼間のどうでもいい会話とかふと出てくることあるし」
「それってきっと」
「ん?」
羽田は僕を見て不思議そうにした。
「いや、わかんない」
けど、多分、その声は上原の兄さんだ、と思った。だから上原は、昨日の夜、プールにやってきた。そして水を前にして、あぐねていた。
あの飛沫は上原の兄さんが飛ばしたのだと、確信した。
「いくら泳いでタイムを縮めたところで、兄ちゃんの足先を触れることもできない」
羽田が言った。
「どういうこと?」
「俺は泳いでいるとき、前で兄ちゃんが泳いでいるんだ、そしてなんとか捕まえようとして懸命に身体を動かしているんだ。そうすることで、タイムは縮むと思ってるし、それに」
いつかマジで触れることができるんじゃないかってさ。
俺は、恭一の兄ちゃんが好きだったんだ。
「足、ガンダムみたいじゃね? 武器もあるしさ」
などと笑って、松葉杖をライフルに見立てて、ばーん、などとおどけた。
終礼が終わっても、いつものように羽田はすぐに立ち上がらなかった。急いでプールに向かう必要はないのだ。
「ねー、神さま東雲さま」
僕の後ろの席の生徒が僕の肩をペンでつついた。
「なに?」
「あのさー、さっきの英語の授業なんだけど」
どうやら教えてほしいらしい。僕は後ろを向いて、自分のノートを見せながら説明をはじめた。
「……で、ってなに?」
クラスメートは僕の顔を不思議そうに眺めていた。
「もしかして、東雲、昨日なんかいいことあった?」
「なんで?」
「いや、なんかさ、今日、いつもと雰囲気違うから。なんていうか、いつももちろん聞いたらすぐに教えてくれるけど、早口でさっさとっていうか、わりとぞんざいだったじゃん?」
「そう?」
そんなふうに思われていたのか、と思い僕は驚いた。
「うん、まあ東雲頭いいし、バカはなんでわかんないんだろ、って思ってたろ?」
「思ってないよ!」
驚くを通り越してぶん殴られた気分だ。
「いや、東雲なんでもできるし頼りになるから、イラつかせてるんだろうな、って俺がひねくれてただけかもだけどさ、でも、うん、なんか今日の東雲はやわらかくなった。俺が女子だったら惚れてる」
「あほか」
「意外な一面てキュンとするもんだって、インスタのリールで言ってたからさ」
「やわらかいかな」
「うん、いい感じだよ。いままで悪かったってわけでもないいけどね」
そう言われて、嬉しかった。なんとなく、母が再婚してからずっと被っていた仮面が割れたのではないか、と思った。母のために自分でかけたというのに、外すことができなくなっていた。怖かったし、外してしまったらやっていけない、と思っていた。
そんなことはなかった。
だが、いま自分がやわらかくなっているのを素直に喜ぶことはできなかった。家では義仲があのあと、家にあった金を奪って逃げてしまっていた。
そもそも羽田があんなことになってしまったというのに、自分が笑っているなんて、薄情だしひどい、と言われてもおかしくない。
さっき話したクラスメートは、僕の家族の事情もしらないし、羽田のことを持ち出しもしなかった。そういうものかもしれなかった。
陰口や、他人のネガティブな思惑をはじめから気にしすぎていたのだ。
降りかかってから対処すべきものだったのかもしれない。
だからといって、これまでの自分に後悔したりはしなかった。ああいうふうに自分を守っていたからこそ、いまそう思えるのだ。無駄なことはなにもない。
今の自分が前よりマシであると思えた。
「羽田」
教室を飛びだすこともなく、逆に動くのが面倒そうに、羽田はまだ机にいた。
「おうよ、なんかクラス委員の仕事?」
なにも変わっていなかった。怪我の原因である僕に動揺したりムッとする気配もない。
「なに、こんな身体にしといてまさか仕事しろっていうんじゃないだろうな」
隣の席にいた上原が僕を睨んだ。
こいつのほうは、昨晩プールでなんとなくわかりあった雰囲気があったっていうのに、変わらなかった。昼と夜で性格が違うのかもしれない。ジキルとハイドか。
「いや、昨日のこと、ちゃんと謝ることができなかったから」
僕は頭を下げた。「ごめんなさい」
誠心誠意、僕は謝りたかった。許されやしないからこそ、きちんと。
「俺、便所行こうかな」
上原が立ち上がった。
「なんだよ、こんなときに一人にすんなよ」
羽田が慌てて上原の袖を引っ張った。
「一対一のサシの勝負だろ」
「勝負じゃないけど」
僕が言うと、
「真剣だってこと」
と眉を寄せ、教室から出ていった。
上原のほうも、なにか変わったのかもしれなかった。
あのとき、上原がプールにいたのも、自分が飛沫を感じて吸い寄せられたのも、もしかして、誰かに呼ばれたじゃないか、と非現実的なことを考えた。あまりにもお花畑な発想で、誰にも言えない。
夕方の教室には、僕と羽田だけだった。窓が空いていて、風でカーテンが揺れた。グラウンドのほうからどこかの部活の掛け声や、帰りの学生の笑い声が聞こえてくる。
「全然気にすんなよな」
羽田は言った。「ぶっちゃけさ、びびってたんだ」
高校最後の大会で、またもやたいした成績をあげることもできず、三年間のすべてを、いやそれ以前から励んできた水泳の一応のピリオドがしょうもなかったら、なんの自慢もできない、と羽田は困った顔をしながら言った。まるで冗談めかしていたけれど、奥底ではなにか悲痛なものを感じた。
「だからさ、怪我は色々なことを眺めるきっかけになったってわけさ」
「眺めるって」
昨日起こっての今日だっていうのに、なにを結論づけたというのか。
「泳ぎ続けたところで、目標には届かないってことよ。見て見ぬふりをしてたし、頑張りゃなんとかなるって思ってた。最後にゃ夢は叶うみたいな、歌の文句みたいにさ」
「目標って、それは記録とか大会とかじゃないんだろ」
僕は言った。
羽田は目を丸くして、
「なんだ、なに知ってるんだ?」
と言った。
「お兄さん、上原の」
僕は素直に白状した。嘘をつくのはいまの羽田に対してフェアじゃない、と思った。
「ああ、知ってたんだ? うん、まあそうだな」
羽田が頭をかいた。
「昨日、聞いた」
「あいつ、そういやへんなこと言ってたな。俺が病院で診察を受けているとき、ベンチで待っていたんだって。目を瞑って祈ってたって。ばかなやつ。で、そのとき、頭をぽん。と叩かれたっていうんだよ。で、声がしたって」
「なんて」
僕は息を呑んだ。
「迷わずにとびこめ、って。意味わがわかんなかったらしい。あれかも、懸命に祈りすぎて、なんか頭にこびりついている誰かの言葉が急にでてきたんじゃないか。俺マインドフルネスとかやると昼間のどうでもいい会話とかふと出てくることあるし」
「それってきっと」
「ん?」
羽田は僕を見て不思議そうにした。
「いや、わかんない」
けど、多分、その声は上原の兄さんだ、と思った。だから上原は、昨日の夜、プールにやってきた。そして水を前にして、あぐねていた。
あの飛沫は上原の兄さんが飛ばしたのだと、確信した。
「いくら泳いでタイムを縮めたところで、兄ちゃんの足先を触れることもできない」
羽田が言った。
「どういうこと?」
「俺は泳いでいるとき、前で兄ちゃんが泳いでいるんだ、そしてなんとか捕まえようとして懸命に身体を動かしているんだ。そうすることで、タイムは縮むと思ってるし、それに」
いつかマジで触れることができるんじゃないかってさ。
俺は、恭一の兄ちゃんが好きだったんだ。


