「ためって、どういうこと」
 僕は言った。上原はプールを見ていた。
「俺の兄ちゃんがさ、十離れていたんだけどさ、ずっと前に死んだんだ」
「お兄ちゃん、亡くなったの」
「まあ俺らがすっげえガキの頃だよ。兄ちゃんも健次ほどバカじゃねえけど、泳いでばっかりだった。でも事故であっさり死んじゃって、俺なんてショックでずっとなにも食えないなにもする気が起きないみたいな、鬱? ガキのくせになってさ」

 上原は話しだした。
 兄が死んでからしばらく、上原は学校を休んでいた。そして羽田が家にやってきた。羽田は上原の被っていた布団をひっぺがして、言った。
「俺、クロールでプール一周できるようになったよ」
 それまで羽田は、泳ぐのが苦手だった。だから上原の兄にプールを付き添ってもらっても、ビート板を離さなかったし、腰に浮き輪をしっかりとつけていた。
 羽田は興奮気味に続けた。
「俺は、兄ちゃんのかわりに一番早く泳ぐから。だから俺を見守れ!」

 僕はその話を聞いて、
「見守れ? 見守るんじゃなくて?」
 と言った。
「ああ、あいつ、そういうとこあるから」
 上原が肩を震わせていた。おかしいらしい。「で、ずっと泳ぐことだけがあいつの人生になったんだ」
「すごいな」
 僕は心の底から言った。
 よくわからんが、すごい。
「でも別に、タイムだって伸びていない。どんだけ頑張ったって、生まれ持った才能はあいつにはないんだ。でも、それをなんとか自力で乗り越えようとしている」
 よくわからなかった、そのわからない部分が、わかった気がした。そのひたむきな情熱や、ばかげた挑戦。誰になんと思われようともやりとげようとする意志。僕に持ち合わせてないものだから、わからなかったのだ。
「俺たちは兄貴が死んだことを、きちんと理解しなくちゃいけなかったんだ。いや、いままで理解することから逃げていたのかも」
「理解なんてしなくてもいいんじゃないかな」
 僕は言った。
「他人はなんとでも言えるんだ。お前だって自分のことを言われたらむかつくだろ。放っておけよ」
 上原はプールを眺めたまま言った。「俺、水怖いんだよ。ずっと、怖いんだよ」
 もしかして、上原がいつもプールを見学しているのは、泳ぐことで兄のことを思い出すからなのか。だったら、羽田はどうなんだろう。
 僕は、上原の気持ちも羽田の気持ちも知りたかった。ただ、二人の口から真意を聞くことができないのなら、自分がやるしかなかった。
 僕は制服も靴も脱がず、水に足から飛び込んだ。
「なにやってんだよ!」
 上原が立ち上がった。
 一度頭のてっぺんをプールの底に近づけたら、ぐるりと身体が水のなかで回転して、勢いよく顔を外に出した。
「気持ちいいよ」
 僕は上原に笑いかけた。なにもかもを水が洗い流してくれるような気がした。そしてすぐに、そう簡単に落とせる汚れなんかない、とも思えた。
 それでも、上原にも、味わってほしかった。
「ばかじゃねえのか」
 上原は呆れていた。
「せっかくプールにいるんだよ」
 せっかく生まれたんだよ。
 せっかく生きているんだよ。
 そんな気持ちをこめた。
 僕は上原を見た。
 上原は、綺麗にプールに飛び込んだ。そして力強くキックし、肩から腕をかきながら泳いでいった。タッチしてそして僕のほうに振り返って、なにか言った。
「聞こえないよ!」
 僕が叫ぶと、上原は僕のほうに向かって泳いできて、タッチした。
「ひさしぶりに泳いだけど、意外にいけるもんだな。そもそも俺、健次なんかよりずっと泳げるんだよ」
 息を切らしながら、言った。「あいつ、なんにもないのに、全部あるんだ」