ぼくは、誰かなんかになりたくなかった。
 黒板に書かれたぼくの名前の下に正の字が書かれていくのを見ながら、そんなことを考えていた。
「すげえな、光太郎、ぶっちぎりじゃん」
 後ろの席にいるクラスメートがぼくに耳打ちした。ぼくは聞こえていないふりをしていた。
 教壇で投票箱のなかから紙をとりあげては、係がぼくの名前を読み上げ続けている。
 東雲光太郎
 東雲光太郎
 東雲光太郎……
「最後の一票でーす」
 盛り上げようとしているのか、係が折りたたまれた投票用紙をひらひらさせた。
「どうせ光太郎だろ」
 後ろの席のクラスメートが飽き飽きしたように言うのが聞こえた。
「ま、学年一位だし、だいたいなんでもこなせるチート持ち出しな」
 まるでそれが悪いみたいな物言いだった。だめなやつは、できるやつをけなすことでなんとか引きずり下ろそうとするが、そんなもの、びくともしない。結局そんなことを言って傷つくのは言ったほうなのだ。
「羽田健次~?」
 係がまるで見たこともないものを見た、みたいに読み上げた。
 教室がざわつき、一番後ろの窓際の席のほうに振り向いた。
 その席には、自分の名前が呼ばれ、みんなに驚かれている当の本人が太平楽で机に突っ伏して眠っていた。
「おい、健次、健次」
 隣の席にいた、いつも羽田と行動を共にしている、たしか、上原恭一が羽田の肩を揺すった。
「なんだよ、疲れてんだよ」
 羽田がかったるそうに上原の手を払った。
「クラス委員」
 上原が言うと、
「は? 誰だっていいだろそれ」
「一票入ってるよ」
「誰だよその情けねえやつは」
 羽田が鼻で笑った。
「健次」
 上原が言うと、教室全体でどっと笑いが起きた。「なんだ?」
 はったく事態が飲み込めていないらしい羽田が不思議そうにしていた。そしばらくして笑われているのに気づいて、頭をかいた。
「完封ならずだなあ、誰だあ、羽田にいれた空気読めねえやつは」
 僕の後ろの席にいたクラスメートが言った。
「はい静粛に静粛に!」
 教壇にいた開封係が叫んだ。「とにかく、クラス委員は東雲くんで決定です、副委員長は」
「一票入ったんだから羽田でいいだろー」
 誰かが言った。
「は? パス。俺は忙しい」
 事態をやっとのみこんだらしい羽田が顔をしかめた。
「別にお前なんもやってねえじゃん、いっつも教室で寝てるし」
 さっきとは別の誰かが言った。
「俺はプールにいるときだけ全集中だから」
 羽田は再び机に突っ伏してしまった。
「それじゃあ、副委員の希望者は」
 仕切り直そうとして開封係が言った。
 べつに完封になるから承認欲求が満たされるとか、そんなこすいことは考えていなかったが、教室に一人だけ、羽田に投票するなんてウケ狙いをするやつがいることが不思議だった。
 クラス委員なんて誰もやりたくはない。入学してからずっとぼくはクラス委員をしていたし、みんなそれでいい、と思っている。煩わしいことなどに関わりたくもないのだ。
 そんななかで、一人だけ、羽田がふさわしいと思っているやつがいる。
 いったい誰なんだ、と僕は考えた。軽くクラスを見回してみる。みんな適当だった。
 男子しかいないこの学校では、率先してなにかをやりたがるやつなんて、希少種だ。わりと偏差値の高いこの学校でも、生徒たちはわりと粗野だった。
 羽田健次はすでにやる気がないらしく眠ってしまっている。しょうもないやつ。
 羽田はスポーツ推薦で入ってきたという。水泳部で、わりと成績もいいらしい。だからといって、大会でいい成績を残したとか、オリンピックの候補になんて華やかな実績はない。つまり、どってことないただの水泳バカだ。
 教室にいても、すみの席でずっと眠っている。朝の練習、そして授業が終わってプールに向かうときだけ、まるで間違えて地上にあがってしまった魚がやっとのことで水になかに入ったみたいに生気を取り戻す。
 水泳以外のことは極力体力を消耗しないようにしているらしい。
 隣にいる上原は、羽田と幼なじみで、まわりに興味を示さない羽田の代わって物事を対処したり、羽田に伝える係だった。
 いったい羽田となにが楽しくてつるんでいるんだか。
 そもそもが上原もそこまで愛想がいいわけでもなく、羽田のそばにいることで教室に居場所を作っているのかもしれなかった。
 なにかふと気配のようなものを感じた。羽田の隣にいた上原恭一だ。視線が合うと、じっと僕のことを見て、そして睨み付けた。
 僕はそこで睨み返すなんて面倒なことをせず、そのまま顔を前に向けた。
 副委員長の結果発表が始まった。
 さっきの珍事のせいだろうか、面白がってほとんどの連中が、羽田健次、と書いた。
「それでは副委員長は羽田健次くんです」
 おお~と無意味な歓声が起きたが、当の羽田は一切気にせず、眠っていた。
 隣にいた上原が、羽田のかわりに迷惑そうな顔をした。
 委員が決まったらお役御免とばかりに、開票係があとの進行をぼくにするよう促し、僕は立ち上がった。
「副委員の羽田」
 係が声をかけるのを、ぼくは制した。
「いや、あいついないでもできるし、逆に邪魔だから」
 教室から笑いがまた大盤振る舞いにこぼれた。