それは、僕がまだ小学校に入ってすぐの頃のことだった。
 かなりの悪戯小僧だった僕は、大人にやっちゃいけないと言われることは何でもやりたがったし、入ってはいけないと言われるところほど入りたがったものである。
 学校の屋上なんて、まさにそういう場所だった。子供は入るなと言われたが、入るなと言われると探検したくなるものである。ましてや僕達のボロボロの公立校はお金もなくて、屋上へ続くドアの鍵も壊れっぱなしになっていたから尚更に。

「おじゃましまぁす……!」

 四月には、僕はこっそり屋上に侵入を果たしていたのだった。叱られたら謝ればいいや、くらいの認識である。
 ひょっとしたら、先生達は屋上を何かの目的で使ったりしていたのかもしれない。思ったよりも屋上は綺麗で、緑色の床?地面?にも砂や埃が積もってるとか、フェンスが錆だらけなんてことはなかった。
 これなら、友達と遊ぶこともできそう、なんて思ったのである。うちの小学校は校庭が狭くて、子供が遊べるスペースが非常に少なかったのだ。特に上級生がサッカーやドッジボールで独占してしまうことが多く、下級生はなかなか使わせてもらえなかったのである。
 もちろん、ちょっと考えれば屋上で鬼ごっこやボール遊びなんてやったら危ないに決まっているのだが――生憎、当時の僕は幼稚園を出たばっかりのクソガキだったわけで、そんなことまで考えられる頭なんてない。ボールを地面に落としたらどうなるか、とかそんなこと想像できたわけもない。
 だから遊び場所を確保できたらとか、探検できたらとか、そういうことしか頭になかったのだ。

「あ」

 僕は目を見開いた。
 まさか屋上に、先客がいるとは思わなかったからである。
 その人は長い黒髪をなびかせて、フェンスを掴んでじっと遠くを見つめていた。とてもきれいで、僕はその背中に翼があるように見えたのである。
 だから。

「てんしさま?」
「え?」

 僕はその人が、天国から舞い降りた天使様のように思えたのだ。丁度その頃、天使が主人公を努めるアニメをやっていて、そのヒロインに彼女がそっくりだったというのもある。



 ***



 その女性はスーツを着ていて、多分二十代後半とか、それくらいの年齢であるように思われた。まあ、当時の僕からすると、高校生以上の男女はみんな“大人の人”と同じような括りに見えていたから、実際はもう少し上の年だったのかもしれないが。
 彼女は僕が此処に来たことに、心底驚いているように見えた。が、僕も数秒遅れて慌て始めたのだ。そういえば、ここには入ってはいけないと言われていたのだと。そして、入ったのが見つかったら大人の人に叱られる、と。

「ご、ごごごごごごごごごめんなさい!」
「え、え?なにが?」
「お、屋上に入っちゃいけないって言われてて、で、でも、校庭で遊べないし、お、屋上探検するのも楽しそうだし、みんなで遊べたらいいなとか、とりあえずそういうことを考えていたというかなんというかその、えっと、あの……」

 言い訳しようにも、結局本当のことをべらべら喋ってしまっただけのような気がする。
 相手は美しい天使様だ。きっと、僕がこんなところに入ったのを知ったらきっと怒るだろう。そして。

「あ、あの、その、何か悪いことしようとしたわけじゃなくて。……だから、神様の、かみなり、落とさないでほしいんだけど……」

 アニメでは、天使様が悪い子だと判断した子には、容赦なく神様に頼んで雷を落として貰っていた。真っ黒にコゲコゲにされるのはとても痛そうだし、真っ黒こげにされてしまったら叱られたのがバレてしまう。さらにお母さんや、先生に叱られるのは必死だ。できればそれは避けたいと僕は必死だったのである。

「……ああ、そういえば、ここ立ち入り禁止だったわね」

 やっと話が繋がったらしい。天使様は呆れたように笑った。

「私もこっそり入ってたから、忘れてたわ」
「え?天使様も、入っちゃいけなかったの?」
「誰も基本的には、許可がないと誰も入ってはいけないの。私も許可は貰ってないから、入っちゃいけないのは同じね」

 ていうか、と彼女は眉をひそめる。

「その『天使様』っていうの、ナニ?」
「え、違うの?お姉さん、僕が見てるアニメの天使様そっくりなんだけど……。天使様は、地上に降りてくると翼をしまっちゃうから、翼がなくてもおかしくないんでしょ?」

 違うの?と僕は少ししょんぼりしたのがわかったのだろう。彼女は少し考えた後で、そうなの、と言った。

「まあ……そうね。でも、私も、神様に内緒でここにいるの。だから、私が此処にいること、貴方も内緒にしてくれる?」
「そうなの?じゃあ僕と一緒だ!僕もね、こっそりここ入っちゃったから!……でも、天使様って、悪いことしないんだと思ってた。だから、僕が悪いことしたら、雷落として怒るんじゃないかって……」
「天使だっていつもいい子じゃ疲れちゃうのよ。だから、時には入っちゃいけない屋上に入ってみたりとか」
「そうなんだ!」

 なんだか、親近感がわいてしまった。
 僕が見ているアニメの天使様より、ずっとニンゲンっぽい感じがする。いつもいい子でいたら疲れちゃう――というのは、クラス委員の子もこっそり言っていた言葉である。

「じゃあ、僕達どっちも悪い子だから、僕のことも内緒にしてくれるの?」
「ええ、いいわよ」

 彼女はちらり、ともう一度外を見て――なんだか興がそがれたというように、フェンスにもたれて座り込んだのだった。

「ねえ、貴方。名前はなんていうの?さっき、校庭で遊べない、って言ってたけど」
「あ、僕、摩央(まお)朝倉真央(あさくらまお)!」

 天使と知り合いになれる機会なんて滅多にない。僕もなんだか嬉しくなって、天使様の隣に座った。お姉さんは結構背が高かったので、体育座りをして並ぶと彼女の顔を大きく見上げなければならなかった。当時の僕が、小学一年生の中でもかなり小さいほうだったというのもあるが。

「あのね、天使様。校庭がね、せっまいの。みんなで遊びたいんだけど、五年生とか六年生の人達が校庭いっつも使ってて、全然使えないの。本当はドッジボールとかやりたいけど、ボールもみんな使われちゃってて」
「それ、先生には言ったの?」
「言ったけど、何にもしてくれなくて。……槇村(まきむら)先生、なんか、あんまり僕達のこと好きじゃないのかな」
「あー……あの先生か……」

 どうやら天使様は、槇村先生のことを知っているらしい。少し考えた後に、いいわ、と頷いたのだった。

「……私から校長先生にお話しましょうか。ここの校長先生、知り合いなのよ」
「ほ、ほんと!?」
「ええ」
「やったあ!天使様、ありがとう!」

 思わず抱き着いてしまって、やっちゃった!と僕は焦った。小さな頃から、ちょっと好きになった大人の人にはすぐに抱き着いてしまう悪い癖があったのだ。彼女は結構目をまんまるにしていた。ごめんなさい!と慌てて離れる。

「ごごごご、ごめんなさい!お、大人の人はすぐくっついたらだめなんだよね……」
「……いえ、気にしてないわ」

 彼女は一体、何を思っていたのだろう。
 小さな沈黙に、何をこめたのだろう。
 もうすぐ昼休みの時間が終わる。僕は慌てて立ち上がりながら彼女に言ったのだった。

「ねえ、天使様。また会える?」

 僕の呼びかけに、彼女は少し考えた末、言ってくれたのだった。

「ええ。……また、ここでね」



 ***



 彼女は本当に、校長先生に話してくれたようだった。
 槇村頼子(まきむらよりこ)先生が渋々語るに、校庭を何年生が使うか、というローテーションを先生達で決めてくれたらしい。彼女はその皺が多い顔に、明らかに「こんな仕事を増やさないで頂戴」と書いてあったけれど――僕は無視した。これで、一週間に一度くらいは、みんなで校庭で遊ぶことができることだろう。

「天使様、ありがとう!」

 槇村先生からその話があった日の昼、僕は再び屋上に行った。天使様はやっぱりフェンスの前に立って、僕のことを待ってくれていた。

「気にしないで。……貴方も災難だったわね。よりにもよって槇村先生のクラスだなんて」
「よく知ってるんだね」
「槇村先生って事なかれ主義……ようは、やる気がない先生ってことで結構有名だから。生徒からそういう訴えがあったら、ちゃんと職員会議で上げないといけないのに……。まあ、校長先生が鶴の一声を発したから、状況が動いたってこともあるんでしょうけど」
「校長先生にお願いできるなんて、やっぱり天使様はすごいんだね!」
「……何も。凄くなんかないわよ」

 なんだか、今日の天使様は僕に話を聞いてほしそうな気がする。そう思って、僕はこの間と同じようにちょこん、と彼女の隣の地面に座ったのだった。

「天使様!天使様が僕のお願い聞いてくれたから、今度は僕が天使様のお願い聞く番!なんか、相談とかある?僕、できることなんでもするよ!」

 子供なりの正義感。同時に、天使様の友達になりたいという気持ちが先行して、そんなことを言ったのだった。
 すると彼女はちょっとだけ泣きそうな顔をして、それなら、と話を続けたのである。

「……少しだけ、私の話を聞いてくれる?」
「いいよ!なあに?」
「私ね。……本当は……天使、じゃなくて。学校の先生になりたかったの」

 ここ数日、良い天気が続いている。空は抜けるような青空だ。彼女はどこか眩しそうに空を見上げた。

「でも、学校の先生になる試験に落ちてしまって。……就職先もなくてね。そしたら……この学校の校長先生が誘ってくれたの。この学校を守る天使のお仕事をやらないかーって。この学校の校長先生、私の遠い親戚だから」
「校長先生すげー!天使様の親戚がいるなんて!」
「ふふふふ、そうね。……でも、天使のお仕事って地味なのよ。パソコンを見て、電話取って、たまに来るお客さんの対応をするくらいなんですもの。……しかもね、嫌なものをたくさん見てしまうわけよ。さっきの槇村先生もそう。やる気がない、生徒のこともちゃんと見ない、イジメっぽい話があっても放置する。そういう先生もたくさんいて……時には、先生同士でいじめをすることもあるのよ」

 だからね、と俯く彼女。

「なんでそんな人が先生をやれているのに、私は先生になれないんだろうって。いっぱい勉強したのに、この人達より何が足らなかったんだろうって。そう思ったら、もう何もかも嫌になっちゃって。……貴方と会った時ね。この屋上から、空へ飛んで逃げちゃおうかと思ってたわけ」
「え、天国に帰っちゃおうとしてたの?」
「そうよ。……そうしたら、この世界の嫌なこと、全部なくせると思って。それじゃあ、根本的には何も解決しないのにね」

 彼女の話の全てが、理解できたわけではなかった。ただ、天使様にとっては、天使であることより、学校の先生になることの方が素晴らしいことだと思っていたらしい。
 確かに、人には向いてること、向いていないことがある。向いていないお仕事をするのは辛いことだと僕も思う。僕だって、体育は大好きだけど算数は嫌いだ。ずっと算数だけやってろって言われたら嫌になって逃げたくなってしまうだろう。

「ねえ、先生になれる試験って、もう受けちゃだめなの?」

 僕は彼女をまっすぐ見つめて言った。

「天使様、先生にすっごく向いてると思う。だって、僕の話ちゃんと聞いてくれたし、校長先生にもお願いしてくれたでしょ?槇村先生に怒ってるのだって、僕達のこと、思ってくれてるからだよね?」
「それは、そうだけど……」
「あとね、今はね、学校だけじゃなくて塾の先生とかもあるって聞いたよ!いろんな先生があるんだって。天使様は、きっと、たくさんの子を助けるお仕事が向いてると思う!」

 言ってから、なんだか天使様相手にかっこつけたことを言ってるなあ、と気づいた。段々恥ずかしくなって俯く僕。すると、彼女は。

「……摩央くん」

 どこか泣き出しそうな声で、言うのだ。

「貴方は、私を天使だと言ったけど。……私にとって、貴方の方が天使みたいだわ」
「え、なんで?」
「だって、私を助けてくれたもの。……そうね。もう何もかもどうでもいいなんて、自分なんて価値なんかないって、全部捨てちゃえばいいなんて……そう思うのは、あまりにも早かった。孝明(たかあき)おじさんだって善意で私にこの仕事を紹介してくれたのに、私はなんてことを……」
「孝明おじさん?」

 尋ねてから、そういえば校長先生の下の名前がそんな名前だったような、と気づいた。
 何で僕が、天使なんてことになるのか。助けたといっても、僕は彼女の話を聞いただけだというのに、いまいちよくわからない。
 首を傾げる僕に、彼女は僕の頭をぽんぽんと撫でて言ったのだった。

「もう一度、頑張ってみる。……頑張れるようになるまで、暫く……お昼休みに時々、私とここでお話してくれる?」
「いいよ、天使様!」
「ふふ。あのね、摩央くん。私の、名前はね……」

 彼女の正体がなんだったのか。僕が理解できるようになるのはもう少し後になってからのことだった。
 彼女との交流は、その後数年続いた。彼女は『天使』とは違う仕事を見つけて、今もそこで働いている。


『摩央くんへ。
 今度久しぶりに、ご飯でも一緒に食べに行きませんか?』



 年賀状に書かれていたメッセージと、メールアドレス。
 高校生になった僕は数年ぶりに、彼女と会う約束をした。
 天使でなくなった彼女はきっと、あの頃よりずっと輝いていることだろう。