ねえ、先生。ここまで読んでいてこう思いませんでしたか?
一体何を読まされているんだ。前置きが長いのはお前じゃないか。
ええ、おっしゃる通りです。私は自分で書いておきながら、先生が今思ったのと同じことを考えました。でも、どうか許して下さい。女の子というのは感情で動く生き物です。その時自分がどう考え、何故その行動に至ったのかというのを事細かく説明してしまうのです。理解したうえで、相手に共感して貰いたいのです。今年十八歳を迎えた女性なら尚の事。先生はそんな女性と深い関係を築いてらっしゃった経験があるので、その点はご理解して頂けるかなと私は考えています。
それに、穂乃果がどんな女の子だったかという事を先に記さなければ先生はご自身の本当の罪の重さに気づけないと思ったのです。なので、どうかあともう少しだけ、読み進めて頂けたら幸いです。
私と穂乃果は中学を卒業し、私立桜風女学院という高校に入学しました。そうです。今も尚、先生が在職されている高校です。きっかけは穂乃果の一言からでした。
──なんかさ、男の人たちって女子校っていう響きに強い憧れを抱くらしいんだよね。
中学三年の時、当時付き合っていた三十四歳の男性にそう言われたそうです。疑問に思われる前に先に書いておきますが、ついさっき記した穂乃果と付き合えて満足そうに去った男の子とは二週間後には別れ、他人になっていました。友達ではありません。他人です。
──ああ、あいつ? もう別れたし、私の世界から消したよ。
穂乃果はそう言って微笑んでいました。中学の時から過去付き合ってきた歴代の男の人たちは、穂乃果と別れてしまうと友達を通り越して他人になってしまうのです。そんな穂乃果が新たに付き合った男性は、穂乃果のSNSにDMをしてきた会社経営者で、二人で食事をとっていた時「なんか女子校っていいよなあ」とふいに呟いた言葉がずっと心に引っ掛かっていたようでした。他の男性に聞いても反応は同じで、なにか秘密の花園のような、決して踏み入れてはならないような感じがする、と言われたそうです。
結果、私は穂乃果に促され、その高校を受験しました。正直なことを言うと、私はこの高校に行きたくはありませんでした。私の第一志望は別の高校でしたし、穂乃果を女子校に入学させるなんて以ての外だと考えていたからです。穂乃果の心を動かすことが出来ない男ならともかく、もし私のように穂乃果に寄り添うことが出来る女が現れたら。そんな風に考えたらおかしくなりそうでした。穂乃果自身も「女ばっかりって気疲れしそうで嫌だなあ」なんて溢していました。ですが、穂乃果は自分が美しいと自覚しているからこそ、今の自分が人からどうみえるか、更によく魅せるにはどうすれば良いのかというのを常に考えている子でした。純白の美しい羽根を持つ白鳥は、町中でゴミ袋をつついたりしません。白鳥は、静謐な空気が満ちた湖にひっそりといるべきなのです。穂乃果もきっと、自分が生きる場所は女子校であるべきだと考えたのでしょう。
そんな事は中学の時から分かってはいましたが、穂乃果の引力は女子すらも引き付けました。女子校に入学したから当然なのですが、教室にいても、廊下を歩いている時も、周りを見渡せば女子しかいません。それも、お嬢様学校と言われるだけあって市内にある総合病院の院長の娘や、皆が一度は聞いたことがあるような有名企業に勤める父を持つ子、お父さん自体が会社を経営している子などと、女の子のタイプは様々でしたが何となくどこか温室育ちというか、気品のある子が多かったように思います。そんな中、穂乃果は入学した初日からとんでもなく綺麗な子がいると噂になり、皆が穂乃果のことをもっと知りたいと休み時間になれば穂乃果の周りは人で溢れかえっていました。
これは、昔から考えていたことなのですが、私たち学生は、水槽の中で生きる魚のようなものだと思います。教室というひとつのちいさな水槽で、極力自分と同じ大きさの、尚且つその先共存していけるであろう子と群れを作ります。群れから離れてしまうと、迫害され、追い詰められ、水槽の底や隅の方でしか生きられなくなってしまうからです。それを理解しているからこそ、誰が一番力を持っているのかということを、あるいは持ちそうなのかということを、私たちは瞬時に見分けることが出来るのです。
容姿やキャラクター、発言、性格、親の仕事や家庭環境。私が思うに力を持つもの、カーストの中でピラミッドの頂点に立つことが出来るものは、これらひとつ、あるいは複数が誰よりも優れていなければなりません。穂乃果の場合は容姿は勿論のことですが、性格もそうでした。中学の時から一緒にいる私には素をみせてくれていましたが、穂乃果は女子といる時、まっさらで綺麗な仮面をかぶります。いつも周りに笑顔を振りまき、完璧でいい女の子を演じるのです。自分はカーストの頂点の位置にいながらも最下層にいる子にも自ら話しかけ、誰かがその子を馬鹿にするようものなら「良くないよ」と諭しながらも、最終的には笑みを向ける。男子にみせる顔とはまるで違い、だからこそ中学の時は男癖が悪いとあらぬ噂がたったこともありましたが、女の子でそれを信じるものはいませんでした。
そんな穂乃果はたった一年で私たちの学年の頂点にたちました。教室を飛び越え、学年のカーストのトップにすら立ってしまったのです。廊下を歩いているだけで「穂乃果ちゃん、おはよ」と至るところから声が飛び、美しい笑みを向けられた女の子たちからの「めちゃくちゃかわいい」という黄色い歓声が鼓膜に触れます。いつも隣を歩いていた私でさえ、「穂乃果ちゃんが綺麗過ぎるから目立ってないだけで、あの明日美って子もふつうにかわいくない?」と声が聴こえてくる程でした。私と穂乃果のことを知らない子は同じ学年にいなかったように思います。
「ねえ、明日美。私って綺麗だと思う?」
ふいに穂乃果が言いました。放課後、この学校の同学年では天下をとった私たちは学校の屋上で、二人横並びになって芝生が張られた校庭を見おろしていました。陸上部の女の子たちがあひるの子どもみたいに一列になって走っています。
「綺麗だよ。穂乃果は凄く綺麗」
私はフェンスにもたれぐにゃりと身体をくねらせる穂乃果をみつめながら言いました。心からそう思っていたからです。
「私はさ、そんな風に思えないんだよ」
下から舞い上がってきた女の子たちの掛け声に溶け合うようにふいに放たれた言葉に、私は思わず目を見開いてしまいました。穂乃果は誰よりも自分が美しいことを理解していると思ったからです。
「なんで、そんな風に思うの」
「うーん、何でだろ。いや、自分のことをブスだとは思ってないよ? むしろ綺麗だと思ってる」
「うん」
「でもさ、今のままじゃ駄目なんだよね。私はまだ満足出来ない。私はさ、愛されたいの。皆からもっともっと愛されたい。その為にはもっと綺麗で、もっとかわいくならないと駄目だと思ってる」
穂乃果の首筋も顔も、スカートから伸びる細く白い足も全てが夕日に染められていて、私はその時の穂乃果の顔をみながら、悲しみの色は橙色なのかもしれないと考えてしまいました。「どうして」と問い掛けたのは、そのすぐ後のことです。
「何でだろ。親から愛情を貰えなかったからかな。母親は私が子どもの頃から旅行ばっかり行ってて家には週に一回しか帰ってこないようなクソ野郎だったし、大好きだったお父さんは莫大な遺産だけ残して私が小一の時に病気で死んだの」
「そう、なんだ」
「でも、私はまだ諦めてないんだよね。お父さんが死んだのは私がまだほんとに小さかった時だし、あれは全て私の思い違いでこの世界のどこかで生きてるんじゃないか、私がもっともっと綺麗になって皆から愛される存在になったら、いつかお父さんが迎えにきてくれるんじゃないかって考えちゃうんだよね」
中学の時から穂乃果とは一緒にいましたが、私は初めて穂乃果の中をみた気がしました。風の噂で穂乃果の家庭環境は耳にしていましたが、自分の口から話してくれたのは初めてのことだったのです。人には誰だって触れられたくない部分があります。どす黒いものや、弱くて脆くてもの。それらは普段、自尊心や羞恥心によって、かさぶたのような蓋をされています。穂乃果はそれをぺりりと剥がし、私に傷口をみせてくれたのです。嬉しかった。ほんとに嬉しかった。尊くて、愛しくて、今すぐにでも穂乃果を抱きしめたくなりました。
「穂乃果は、だから年上の人が好きなの」
これは、私にとっての最後の確認でした。穂乃果は「うん」とちいさく頷きました。
「綺麗にならなくちゃ愛されない。いつかお父さんが迎えにきてくれる。そんな風に思ってるせいなのかもしれないけど、私はいつも記憶の中で生きるお父さんの亡霊を追いかけ続けてるんだよ。だから付き合うのはおじさんばかりなんだけど、いくら年が近くたって中身は勿論私のお父さんじゃないし、っていうかそもそも私は好きじゃないから結局最後はあーやっぱり違うなって私が飽きて終わっちゃうんだけど」
聞きながら、私の湧き上がる想いは、感情は、留めることが出来ないくらいに溢れていきました。
「私じゃ駄目かな?」
だから、こう言ったのです。
「えっ?」
「穂乃果はたぶん満たされてないんだと思う。中も心も全部全部。お父さんの代わりにはなれないけど、私が穂乃果を満たしてあげるのって駄目かな」
穂乃果は「ちょっと何言ってんの? 冗談きついんだけど」とぎごちなく笑みを浮かべました。
けれど、私は本気でした。中学の時から私はずっと、穂乃果のことを心から愛していました。美しく、気品があり、中にどす黒いものを抱えながらも普段は仮面を被っている。けれど、私にだけは素の一面をみせてくれる。きっと穂乃果は跳ね返りがある子を自分の一番近くに置いときたかったのだと思います。穂乃果があまりにも美しく普段は仮面を被っている為、誰も穂乃果の言う事を否定しようとはしませんでした。けれど、私は何となく穂乃果がそれに寂しさを覚えている気がして、言葉を選びながらも自分の意思や意見は伝えてきました。
中学に入るまで、私は自分の容姿に自信がありました。誰よりも私がかわいいに決まってる。そんな風にすら思っていました。けれど、私は穂乃果に出会ってしまった。圧倒的な美しさを目の当たりにし、私はこの子の陰になろうと心に決めました。この子が望む存在になろうと思えたのです。そして、穂乃果のことを知れば知るほど私は穂乃果の魅力に溺れていきました。最初の内は、誰かに告白された、ナンパをされた、どこどこに遊びに行き、キスをされた、そんな話を穂乃果を聞かされる度に私は吐き気を覚え、それと同時に抑えきれない怒りを抱えていました。ですが、ある時に気付いたのです。男には無理だと。穂乃果の中を満たすことが出来るのは、きっとその痛みも、欲も、感情の揺れ動きを全て理解し受け入れることが出来る私だけだと。それから先は楽になりました。私が穂乃果に相応しい。私が穂乃果の中を満たす。そんな風に考え始めたら、もう引き下がる事も気持ちを抑える事も出来なくなってしまったのです。
「冗談じゃないよ。私は、穂乃果のこと」
「ちょっと待って! それ以上は言わないで」
穂乃果は腕を前に突き出し、瞳は深い悲しみの色に染まっていました。その瞬間、「あっ」とも「えっ」とも聴こえるような、よく分からない声が私の喉から零れ落ち、それと同時に胸が凄く痛くなりました。私は、とんでもないことをしてしまった。その考えが急速に膨れ上がってきたのです。穂乃果が初めて弱いところをみせてくれたから、私はそれに感化され、自分の中もみせようと勢いあまってほとんど気持ちを伝えてしまったのです。事もあろうに穂乃果が一番嫌いだと言っていた前置きまでしたうえで。
「あのさ、私の勘違いとか、だったらほんとにごめんなんだけど」
穂乃果はどうしたらいいのか分からないといった様子でぶつ切りになりながらも言葉を紡いでいました。
「明日美は女の子じゃん? 女の子の気持ちに私は、応えられないよ。ほんとにごめん」
「いや、違うの。私、なんか、ほんとにおかしくなってて」
必死に訂正しながらも、たぶん私の声は潤んでいたように思います。振られたのです。正式な告白をした訳ではないとはいえ、気持ちには応えられないとはっきりと明言されました。痛い。痛い。私は胸の中で叫び声をあげ、唇を引き結び、必死に決壊寸前の涙を抑えました。嘘じゃんか、あの言葉。あまりにもつらくて、ふいにある言葉が頭に浮かびました。それは、私が毎日お守りのように大切にしていた言葉でした。なにかのドラマで、もしかしたら映画だったのかもしれません。男の子を想い続けていたヒロインの女の子のが、中々恋がうまくいかなくて涙を溢した時、傍にいた彼女の友達がこう言うのです。
──想いはいつか届くよ。想い続けてさえいれば、いつか相手にも届くから。
私はその言葉をお守りにし、いつも力を貰っていました。いつか。いつか。不確定な未来ではありましたが、穂乃果と気持ちが通じ合うと信じ四年も待ち続けていたのです。でも、それは叶わなかった。真っ赤な嘘じゃんかあれ。微かに震える私の身体を、穂乃果が抱き締めてくれたのはそんな時でした。
「あのね、それ以上は言わないでって言ったのは、先の言葉を聞いちゃったらなんとなく友達のかたちが変わっちゃう気がしたの」
「か、たち?」
「うん。中学の時からの私と明日美の友達のかたち。私はさ、明日美のこと好きだよ。友達として、人として、ほんとに好き。だから、これからもこのかたちを壊したくないの。私の隣にはずっと明日美にいて欲しいから。分かってくれる?」
私は泣きながら何度も頷きました。なんて美しい子なんだろう。容姿は勿論のこと、中身まで。私の痛みに寄り添ってくれた穂乃果のことを、やっぱり嫌いになんてなれないよ。そして、こう思いました。こんなにも容姿も中身も美しい人を、好きでいられる自分。そんな私を、これから先もずっと守り続けようと。
春の生命の息吹は予め待ち合わせしていたみたいに草木を芽吹かせ、透明な風が翌年の私たちの髪をさわっと揺らしました。高校二年になった私と穂乃果の担任になったのが、先生でした。181cmという高い身長は、この高校にはない圧倒的な男性性と包容感を示し、新学期初日教壇に立った先生は私たちに順に視線を配りました。
「今日から君たちの担任をすることになりました。大沢といいます。えっと、僕は皆と年も近いし出来れば教師と生徒としてというよりは、良き友人のような関係を築けたらいいなと考えています。あだ名は任せます。先生でも勿論良いですけど、砕けたような名前でも構いません。あっでも、さすがに校長先生の前では先生と呼んで欲しいかな。僕が校長に怒られちゃうかもなんで」
教師と生徒の間を隔てていた高い壁を、先生はなんなく乗り越えたのかもしれません。その瞬間、教室には笑いがおき、「えっ待ってめちゃくちゃかっこよくない?」「あんな人が担任とか最高過ぎるんだけど」「彼女とかいるのかな?」などと至るところからそんな声が聴こえてきました。
先生は周りにいる先生方よりも一際若く、おまけに若手俳優のようなくっきりとした顔立ちをしていらっしゃったので、多感な十代の、それも周りには女子しかいない桜風女学院の生徒たちにとっては憧れのような存在でした。
先生の担当は物理でした。小難しい方程式や、物体の運動法則など、女子からしてみれば床に落ちている糸くず程も興味もない授業であったはずなのに、先生の授業を皆が楽しみにしていました。休み時間になれば教壇に立つ先生の元へと女子たちが集まり質問攻めにし、先生が好きだといった香水をつけて登校してくる子もいれば、先生のお昼ご飯にとお弁当を作ってくる子まで現れました。それも、一人や二人では無かったので「とても食べ切れないよ」と先生はあどけなく笑いながらも、恐らく先生は若い女の子が好きで、尚且つ誰にも嫌われたくは無かったのか作ってくれたお弁当のおかずを一つずつ摘み、その子たちの良いところを織り交ぜながら感想を述べていました。
「あんなの、どこがいいんだろうね」
周りにいた女の子たちとは違って穂乃果は最初そう言っていました。先生は二十六歳とまだ若く、穂乃果が彼氏にする年齢のボーダーラインからは大きく下回っていたのです。一年前、私は穂乃果に気持ちを伝えました。穂乃果自身は私が理解してくれたと考えていたようで、数週間後にはこれまでと同じように男性にナンパや告白された話を平然と私に話してきました。そこに気まずさのようなものはありませんでした。ですが、私の気持ちはあの日から全く変わっていませんでした。だから穂乃果が先生のことを悪く言った時も私は「分かるよ」と大きく頷きました。先生には申し訳ありませんが、あなたは穂乃果には相応しくない。そう思ったのです。ですが、この時の私は忘れていました。穂乃果という人間は自分が美しいと自覚しているからこそ、どうすれば更に美しく人にみられるかを考えているということを。そして、常に愛に飢えている穂乃果は、愛される為には更に美しさに磨きをかけなければならないと考えているうえ、その為には手段を選ばないということを。
ある日、いつものように先生に群がるクラスメイト達を穂乃果と二人で机に座り眺めていると「ねえ」と肩を叩かれました。穂乃果は大きな目をゆっくりと細めながらこう言いました。
「私さ、好きな人出来たかも」
私はその時、あまりの衝撃に声を発することが出来ませんでした。付き合うならこんな人がいい。これくらいの年齢がいい。穂乃果が男性に求める条件を私は理解していたうえ、告白される姿は何度もみていましたが、穂乃果が自分から人を好きになることなど今まで無かったのです。
「だ、だれ?」
私の声は震えていました。喉から絞り出すのがやっとでした。
「先生」
「えっ、先生?」
「うん。タイプじゃないし全く興味無かったんだけど、かっこよくみえてきたんだよね最近」
穂乃果は美しい眼差しを先生に向けました。その眼差しは、恋をする女の子が相手に向けるそれでした。呆然とそれをみつめていた私に穂乃果がふわりと笑みを向けてきて、それからこう言いました。
「もしさ、私が先生の彼女になったら、もっと輝けそうじゃない?」
それは、私の胸を引き裂くには十分過ぎる言葉でした。輝く。かがやく。脳内で言葉を噛み砕き、私はゆっくりと咀嚼して、その言葉の持つ本当の意味を理解しました。愛されたい。それが穂乃果の持つ一番大きな欲求でした。その為には今よりもっと可愛くならなければならない。綺麗でいなければならない。穂乃果の放ったあの言葉はきっと、先生の隣にいる自分を想像したうえで言ったのだと思います。学年で一番若く人気な男性教師と、学年一の美少女。映画や小説でよくみるようなあまりにもありきたりな組み合わせだとは思いましたが、実際もし二人が付き合えば、先生の彼女という肩書きを手に入れた穂乃果は、更に皆から羨望の眼差しを受けることになるだろうというのは容易に想像出来ました。
ああ、やっぱり私じゃないんだ。私が、女だから? 最初に思ったのはそれでした。それから、考えたくもないのに二人が付き合った先のことまで思い浮かべてしまい、私は吐き気を覚えました。たとえば先生の手のひらが、たとえば先生の唇が、穂乃果の手のひらや穂乃果のぷっくりと膨らんだ唇に触れたなら。嫌だ。嫌だ。私は胸の中で叫び声をあげます。嫌だ。舌を噛みました。口内に血の味が広がるまで、強く、強く。
中学からずっと、五年もの間穂乃果を想い続け私は隣にいたのです。だから、その時の穂乃果の心情が、私には手に取るように分かりました。これまで軽くあしらってきた男性とは違う。穂乃果は心の底から先生を好きになり始めている。愛されたいが為に。皆から綺麗だと思われたいが為に。先生の彼女という名の聖域に住むのは私だ。聴こえるはずのない穂乃果の心の声が、私には確かに聴こえたのです。美しい白鳥は、その湖の水が濁り始めたなら、自分が本来いるべき場所へと飛び立つことを私は知っていたからです。
だから私は心に決めました。奪われるくらいなら、先に奪ってやろうと。先生から穂乃果を奪うのではありません。その当時の私の力では無理だと分かっていたからです。一度は穂乃果に告白し振られている身でもありましたしね。
私が奪おうと考えたのは、先生の彼女というの名の聖域です。私が穂乃果よりも先に先生と付き合ってしまえば、穂乃果はそんな汚れた場所にはよりつかなくなる。それによって、もしかしたら私と穂乃果の関係は一時的に壊れるかもしれないが、穂乃果はきっとまた私の傍に戻ってきてくれる。私はそう考えました。何故なら、穂乃果にとって私は一番の理解者であり、私も穂乃果がいなければ生きていけない。それを口には出さずとも互いに分かっていました。言わば魂の双子だったからです。
先生はご存知ないかもしれませんが、SNSで裏アカウントを開設し、私が呟き始めたのもその辺りからでした。アカウント名は『少女aの戯言』。いちいち言わなくても分かるかと思いますが、少女aというのは勿論私のことです。明日美の頭文字からとりました。
先生のお手間を省く為にも私が呟いた内容を、これから時折この手紙に挟ませて頂きます。まず一つ目ですが、これはその当時の私の心境が記されたものです。
〈戯言。アカウント名にそう名付けた。適当につけたけど、ヘッダーとか自己紹介文とか書いてちゃんと作ってみたら意外としっくりくるっていう不思議。
今日、心に決めたことがある。
いつか、とか、もしも、とか、そんな不確定でも遠い未来を描けている内は、私は幸せものだったんだなって気付いた。待ってたって好きな人が振り向いてくれる訳ないよね。今日は、なんかそれが身に沁みてよく分かったわ。身体を真っ二つに引き裂かれた気分。
こんなに辛くて、こんなに苦しんだ。もういいでしょ。
破壊なくして再生なしって言葉をどっかで聞いた気がしたけど、私がこれからやろうとしている事はまさにそれなのかも。偉人は偉大だ。
あの子は誰にも渡さない。渡すくらいなら辺り一帯全て全部、この私が焼け野原にする〉
午前七時に車で登校。停めるのは教員用の駐車場。それから鍵を外し、鞄や荷物を手にして車を降りるまでに約十秒から三十秒。駐車場は地下にある為、それから階段を登り真っすぐに職員室へ。
これは、数日間先生を観察して分かったことです。何しろ先生は学校にいる時は授業をしているか常に女子に囲まれている為、私が先生に個人的に近付くことは難しかったのです。休み時間に話しかけにくればいいと先生はおっしゃるかもしれませんが、私の隣には常に穂乃果がいます。それに、私は正直先生のことを新学期初日からあまりよくは思っていなかったので、休み時間の度に先生に話しかけにいっていた女の子たちよりもスタートが遅すぎたのです。
「先生」
五月の柔らかなひかりが満ちたある日の朝、私は自然を装って車から降りたばかりの先生に声を掛けました。自然とはいっても登校時間よりも随分早く、それも地下駐車場に生徒がいる事は自然ではありません。ここでいう自然とは、あくまで私と先生は偶然に出会ったという意味での自然です。
「明日美? こんなところで何してるんだ」
黒のズボンの中に青いシャツを中に入れ、くせ毛一つ残さないようしっかりとセットされた髪は清潔感に溢れ、身長が高くスタイルもいいのも相まって先生はどこかの俳優さんのようでした。そして、疑問に思って貰うことも想定内です。いえ、私が疑問を生み出したという方が正しいのかもしれません。目的は、次のステップに繋げる為です。
私はこう言いました。両親が厳し過ぎるあまりに、家のどこにも居場所がないと。だから、学校がある日はこれくらいの時間に毎日登校し、教室が開くまではいつもこの駐車場で時間を潰しているのだと。後半はまるっきり嘘ですが、前半の部分は本当です。この時間に登校することだって両親からはひどく問い詰められましたが、そこは中間が近いから図書室で勉強したいと納得してもらいました。
私の父は弁護士をしており、母は歯科医をしています。二人とも硬い仕事をしているせいか、二人は私のことをまるで着せ替え人形のように操縦してきます。スカートはここまで、髪は二十歳を超えるまで染めないこと、夏の時期は仕方ないがそれでも極力肌をみせる服は着ないこと。あと、男性と付き合うのは二十歳から。両親にそう言われ、じゃあ女性は? と問いかけようかとも思いましたがそれを理解してもらう為には、私はきっと両親と長い時間をかけて話し合わなければならないということは目に見えていたのでやめました。
「そうだったのか。なにか先生に出来ることはないかな? 良かったら三者面談の時にでも」
先生は私が想像以上に親身になって聞いてくれました。駐車場で待つのは何だからと、わざわざ私のクラスの鍵を開け「ここで待ってるといい」と笑みを向けてくれました。両親には言わなくていい、自分で対処出来るから、と私は言うと、先生は「じゃあ俺が登校したらすぐに教室の鍵は開けとくから家に居づらい時は好きなだけでいな」と肩に手を置いてくれました。ずっしりとした重みのある、大きな手のひらでした。
「なあ明日美、学校は楽しいか?」
教室の中で先生と二人きり。私は自分の席に。先生はその一つ前に腰を下ろしていました。私は「はい」とちいさく頷きました。私の視界の左端からは、大きな窓ガラスから差し込む透明なひかりがみえます。
「そっか。いつも穂乃果と一緒にいるみたいだけど、二人はいつから友達なの?」
「中学からです。穂乃果とはずっと、一番の親友で」
そこで先生はふっと笑みを浮かべました。綺麗にならんだ白い歯が、ひかりを弾いています。
「やっぱりな。そうだよな、二人だけ空気が違うもんな。正直さ、僕のこと……あっ俺でもいい?」
「はい」
「二人は俺のことあんまりよく思ってくれてないのかなあ、とか思っちゃっててさ。いや、そりゃ話しかけたら穂乃果も明日美も笑顔で話してくれるんだけど、あんまり自分からは話しかけにきてくれないじゃん? だから、なんとなく、ちょっと気にしててな」
先生はそこで窓の方へと視線を投げました。私も吸い寄せられるようにそちらをみました。綺麗な青い空と千切れた雲。遠くの方にぽつぽつと民家がみえます。先生は私の言葉を待っている様子でした。そんなことないですよ、という自分を掬い上げてくれる慈悲に満ちた言葉を。
「そんなことないですよ」
だから望み通りにそう言ってあげました。でも、これでは次のステップへは進めません。だから、私は次の言葉へと繋げます。
「先生はかっこいいし、授業も分かりやすい。いつも私たちの目線に合わせてくれるので凄く親しみやすいと思っています。でも、穂乃果は先生がというよりは男の人自体が嫌いで、だから時々つめたい態度をとっていたのだと思います。あと、私はけっこう穂乃果の感情に影響を受けてしまいやすくて、つられて先生につめたく接してしまっていたのかもしれません。ごめんなさい」
ここで頭を下げる。一秒、二秒。長すぎず、短すぎず。ちょうどいい長さで顔をあげ、目を潤ませる。女性らしく、しおらしく、先生のように女性を値踏みするタイプの男性には最も効果的な仕草だと思ったのです。これは五年間、穂乃果と一緒にいて身につけたワザです。
穂乃果。麗華。瑠奈。梓。先生は一部の生徒だけを下の名前で呼びます。この私のこともそうです。恐らくそれは、名字で名前を呼ぶよりも、もっと深い関係を築きたいと思っている生徒を他の生徒たちと線引きする為でしょう。最初は仲が良くなった女の子をそう呼んでいるのかと思いましたが違いました。そもそも私と穂乃果は先生とは親しくなかったですし、先生が下の名前で呼び始めたのは新学期を迎えてからたったの一週間後のことだったからです。それに、下の名前で呼ばれている女の子にはある共通点がありました。それは、皆が等しく容姿が整っているということです。この私も含めて。
絶対的強者。男性としての優位性。この閉ざされた空間で、しかも教室という普段は女の子の声で賑わっているこの場所で、ついさき程私がみせた仕草は、先生のような狡猾で愚かな男性にはそれら二つを胸の中に芽生えさせ、それはそれは気持ちが良かったのではないでしょうか。周りに満ちていた空気が急に湿り気を帯びた時、「二人にも好かれるように俺も頑張らくちゃな」とそさくさと席を立ちました。先生が扉をあけ教室を去ってから、私は自分の手のひらがぐっしょりと汗で湿っていたことに初めて気付きました。
「えっ、もう来てたの? 今日も?」
教室に入ってきた穂乃果は私の姿をみるなり、そう呟きました。壁に設けられた時計の針は、午前八時を指しています。始業は八時半からですし特段早い訳ではなかったのかもしれませんが、この数週間穂乃果が登校した時にはいつも私がいた為不思議に思ったのかもしれません。
穂乃果がそう思うのも無理はありません。〈一緒に学校にいこ〉と穂乃果から時折メッセージが届いていたのですが、私はいつも何かしらの理由をつけて断っていました。にも関わらず、学校に登校すれば私がいました。穂乃果の疑問は至極当然だったのです。
私はこの数週間毎日午前七時には登校していました。目的は、先生との距離を縮める為。先生は私に言ってくれていたように、いつも教室の鍵を開けて待っていてくれました。学校のこと、家での生活、友人関係、趣味、休みの日には何をしているのか。毎日約一時間。教室の中で、先生と二人きり。本当に沢山の、いろんな話をしました。そんな日々を過ごしている内に、一つ気付いたことがありました。先生は想像以上に話しやすかったということです。
正直私は、男性があまり好きではありませんでした。小学校の頃は一目惚れした男子もいたのですが、中学に入ってからはこれまでにも記述した通り、私の目には穂乃果しか映っていませんでした。初めて穂乃果のことを好きかもしれないと気付いた時は、ああ私は女の子が好きなのか、と驚いたのと同時にどこか落胆した気持ちはありました。普通ではない。今の時代、人が人を好きになるのに性別は関係ないというような、多様性が見直されつつある時代だとは言っても、やっぱり、どこか、同性を好きだという事実は皆から敬遠されがちというか、皆から異質な存在と思われ水槽の中から迫害されるかもしれないと思ったので私はずっと胸に秘めていました。
でも、それと同時にどこか腑に落ちた部分もありました。私は両親からそれはそれは厳しく育てられていたので、中学の時は勿論のこと、小学校の時から異性と遊ぶことは禁じられていました。異性と交友するのは二十歳を過ぎてからでいい。余計なトラブルを招くだけだから。両親からは呪いのような言葉を何度も言われていた為、私の頭にはそれがこびりついていました。そのせいもあって、力が強く、身体が大きな男子という存在はどこか異質で、怖い生き物だとも思っていました。それに、これは私の通っていた中学が悪かっただけなのかもしれませんが、男子たちは雑に人の弱い部分に踏み込んでくる人が多かったのです。たとえば胸がちいさい子、たとえば太りやすい子。本人がコンプレックスに抱えている部分を、容赦なく踏みにじる。私は、そんな男子たちがあまり好きではなくて、特に大人の男性は更に身体も大きいですし恐怖の対象でしか無かったのです。
ですが、先生は違いました。勿論男性的というのか、人の容姿で優劣をつけるような女性を値踏みしている点では同じだと思ったのですが、対ひと対ひとという点においてはいつも私の心に寄り添いながらも、目線を落とし共感してくれる。
新学期初日の挨拶で言っていた「教師と生徒というよりは良き友人のような関係を築きたいと思っています」というあの言葉は嘘ではなかったのです。
同じようなことを、穂乃果も言っていました。
──昨日ね、放課後先生とやっと二人きりになれたんだけど、話しやすすぎてびっくりした。悩みとか趣味とか何でも話せちゃうんだよね。ほんと不思議だわ。六時前くらいまで話してたんだけど、一瞬で時間過ぎてたもんね。あっあと、好きなアーティストとかも同じでさ。今度お気に入りのプレイリストを見せ合おうって約束したの。
その日は、いつものように一緒に帰ろうと思っていたら、穂乃果には用があるから先に帰っててと言われていました。後から聞いてみたらそういう事だったのかと分かり、私の胸にはちりりと火花が散りました。翌日、最近穂乃果と仲良いらしいですね、と先生に微笑みかけると、先生はなんてことない表情で「あーそうだな。穂乃果とは最近話す機会が多いかもな。ちゃんと向き合ってみたら穂乃果も愛に溢れたいい子だと分かってさ、やっぱり生徒と向き合わなくちゃ駄目だよなって改めて思ったよ。皆いい子たちばかりだし、先生はお前たちの担任になれて鼻が高いよ」と言われ、私の胸の中で散った火花は更に大きな火をあげました。この時の私の感情はSNSに呟いています。そうです。少女aの戯言です。
〈不愉快だった。凄く凄く。なんかさ、自分の感情が分からない。私じゃない、もう一人の私が中にいるみたい〉
いつからか穂乃果という存在が邪魔に思えてきました。当初の目的を果たす為にもそうでしたが、また違った意味でも邪魔でした。
梅雨が始まろうとする頃には穂乃果は本気で先生のことを好きになっていました。彼氏とする年齢のボーダラインからは下回っているとはいえ、先生と私たちとでは十歳も離れており、その大人独特の包容力と妙な落ち着きが、穂乃果の愛されたいという欲求を強く刺激したようでした。穂乃果はいつもお昼を過ぎた辺りからそわそわとし始め、チャイムが鳴ると同時に先生のところに向かいます。それだけでは話し足りなかったのか、朝の時間もどんどん早く登校するようになってきました。これでは先生との距離を縮められない。そう思った私は、身代わりを用意することにしました。
月日が経つにつれ先生の人気も落ち着き始め、心から好きだと思っている子以外は休み時間の度に先生のところにいくというような愚かな行動をとる子はいなくなりました。それに比例して穂乃果の周りにはまた以前のように人が集まり始めました。容姿も内面も全てが美しい。仮面を被った穂乃果の本当の姿を知らないので、皆が憧れていたのです。ですが、憧れが強すぎるあまりに学校では話しかけても放課後遊びに行こうと誘うような子はいませんでした。だから私は穂乃果が傍に置きたくなるであろう跳ね返りのある子を用意しました。
その二人は麗華と瑠奈といって、二人とも先生から下の名前で呼ばれているだけあって美しい子でした。麗華は色が白く、綺麗に染められた金髪がよく似合う女の子で、瑠奈は口調が強過ぎるのであまり同性から好かれるタイプではないかもしれませんが、腰の辺りで折ったスカートから伸びる足は細いうえに長く、一方で瑠奈のそのスタイルの良さに憧れている女子も多かったです。そして二人とも自分を持っており、やりたくないことはやらない、欲しくないものはいらないとはっきりと明言する子たちでした。女の子同士だと、メイク道具や筆記道具、洋服など、幾つかの自分を彩ってくれるアイテムを仲が良い子とお揃いにすることがよくありますが、二人は必要ではないと思ったことは「なんで? それ意味ある? 私はこれでいい」と突っぱねる為、クラスの中では少しだけ浮いた存在でした。私はその二人に好かれるようなキャラクターを自らの身に纏い、この数週間積極的に話しかけていました。
「ねえ、穂乃果。今日のお昼さ、麗華と瑠奈も一緒に食べていいかな」
携帯を鏡代わりにし手ぐしで髪をといていた穂乃果はすぐに可憐な笑みを浮かべ「うん。いいよ。一緒に食べよ」と頷きました。穂乃果は女の子に対してはいつも仮面を被るので、これは想像通りでした。
「へーじゃあ、穂乃果って先生のこと好きなんだ」
食堂で、一つのテーブルを四人で囲んでいた時、瑠奈がクロワッサンをちいさくちぎりながら言いました。女の子同士で集まると、やっぱり恋愛の話が一番盛り上がります。
「うん。もう何回も二人きりで話してるし、今までの経験からして先生も私のこと好きになり始めてくれてるかなってのは、なんとなく思ってるんだけど。でも、先生のことを狙っている子って多いからね、この恋が実るか分かんない」
「まあでも穂乃果って学年で一番かわいいからいけるんじゃない? その美貌は向かうところ敵無しって感じだもんね」
麗華が答えを求めるように瑠奈をみると、紙パックのカフェオレにストローを差しながら「分かる」とただ一言だけ呟きました。それからストローをくわえ「でも先生かー。瑠奈は無理だな」とぽつりと呟いたのです。私はあまりにも狙い通りの反応をしてくれる二人に感動すら覚えていました。
「だって先生ってさ、二十六でしょ? あと四年で三十じゃん。おじさんじゃん」
「そう? 私は全然許容範囲内だけど」
穂乃果はそう言いながらどこか嬉しそうでした。麗華と瑠奈のように跳ね返りのある子が、穂乃果は大好きなのです。
「ただのジジ専じゃん」
「はあ? ジジ専じゃないし。かっこよくて大人な男性が好きなだけだし」
穂乃果の放った言葉に、麗華がきゃははと笑い声をあげ、それに続くように私たちは髪を揺らしました。その日のうちに四人でカラオケに行き、メッセージアプリでは四人だけのグループを作りました。必然的に四人で過ごす時間が多くなり始めた段階で、私は四人で遊ぶ予定を幾つか立てました。元から行くつもりはありませんでしたが、麗華と瑠奈に穂乃果を任せておけば、私は先生に会いに行ける。そう思ったのです。ですが、それを何度か繰り返している内、私はトイレから出たところで麗華と瑠奈に呼び止められました。
「ねえ明日美ってさ、もしかして先生のこと好き?」
唐突に問いかけられ、私は「えっ、なんで?」と返すだけで精一杯でした。
「穂乃果が先生のことを話してる時の、明日美の顔みてたら分かるよ」
「でさ、もしかして私たちをグループに誘ったのって放課後先生に会いにいくのが目的だったりしてって思ったんだけど」
私の心臓は早鐘のように打ち始めていました。
「前ね、明日美と先生が放課後話してるのをみたって子がいるんだよ。しかもその日は、私たちとの予定をドタキャンした日」
「もし、もしだよ? 私たちのことをだしに使う為にグループに引き入れたならまじでキレるよ」
「違っ、違う。あの日は、忘れものをして偶然先生に」
苦し紛れの嘘でした。どう言葉を返せばいいのか。頭の中を必死にかき回し言葉を紡ごうとしていると、私の肩に瑠奈の手がふわりとのりました。
「そんな焦んなくてもいいじゃん。好きな人がたまたま偶然同じ人だったって事でしょ? それをいちいち穂乃果にチクるつもりはないよ。ただ、それに瑠奈たちを巻き込まないでって言いたかっただけだから」
瑠奈と麗華は「じゃあ話したかった事はそれだけ」と手を蝶のようにひらつかせながら私の前から去っていきました。私は二人の背中が教室に消えていくまで睨見つけ、それからもう一度トイレに戻りました。すぅっと息を吸った時、扉が目に入りました。
「あーーっ、くそ!」
思い切り叩きつけました。何度も。何度も。
「うまくいかない……なんで」
じんじんと脈を打つ手のひらをみつめながら、無意識に溢していました。私はその時まで、自分の立てた計画は全て思い通りになると、どこか慢心していました。でも、違った。うまくいったのは異性である先生だけで、同性の女の子にはまるで通用しなかったのです。
〈少女aの戯言。もう、これで終わるかも。邪魔過ぎる。全員が邪魔。私も学校も、この世界も全部壊れたらいいのに。そしたらこの苛つきだって無くなる。っていうか、私は何でこんなに苛ついてんだろ? 何でこんなに必死になってんだろ? 自分が自分でわかんないや。〉
その日以降、麗華と瑠奈は少しずつ私との距離をとるようになりました。けれど、穂乃果と四人でいる時は普段と何一つ変わらない感じで接してくれたのは、今思い返せば二人なりの優しさだったのかもしれません。
「ねえ、先生。こないだの授業で分からないところがあったんで聞いてもいいですか」
穂乃果が早い時間から登校するようになったせいで、私が先生と過ごせる時間は一日に三十分程になっていました。車から降りたばかりの先生は「今か?」と目を丸くしました。私はちいさく頷いてから先生と一緒に教室に入り、いつものように椅子に腰を下ろしました。
「で、どこ?」
中々教科書を開かない私を不思議に思ったのか、先生はそう問いかけてきます。私は鞄からそれを取り出そうと手を入れて、やっぱりやめました。
「あの」
本当は、昨日の授業で分からないところなど無かったからです。
「私、先生とこうやって二人で過ごす時間好きです」
「俺もだよ」
「落ち着くんです」
「落ち着く」
「はい。ぐるぐる頭が回って普段の私はどうしようもなく苛ついてばかりなんですけど、先生と一緒にいると心が凪いでいくんです」
先生はそこで「そんな風に言ってもらえると嬉しいな」とふわりと笑みを浮かべました。
「でもここだと一緒にいれる時間は限られてるし……だから、学校じゃない別のどこかで二人で会えませんか?」
「ああ、俺はいつでも。明日美がそれを望んでいるなら」
先生はそこで立ち上がり「分からないところなんてないんだろ? 話したかったことってこれ?」と問いかけてきたので私はちいさく頷きました。「じゃあ、またあとでな」と頭に手を置かれ、先生は教室から出ていきました。もしかしたら先生の手のひらからは、糸が伸びていたのかもしれません。私の触れられた場所にそれが結びついているのかもしれないと錯覚する程についさっき先生に触れられたばかりの頭に違和感が残りました。引っ張られているようなふわふわとした感覚は、けれど、決して不快ではありませんでした。
その日のお昼休み、穂乃果がやけにテンションが高く、私はなぜかぞわりとした胸騒ぎがしました。六限のチャイムが鳴ってから教壇に立つ先生のところに穂乃果はお菓子を貰った子供のように駆けていき「せーんせっ」という凄く不愉快な、綿菓子みたいな甘ったるい声をあげました。私の鼓膜は、その声に侵されて腐りそうでした。
〈ついさっき知った。穂乃果は明日、先生とライブをみにいくらしい。前話してた好きなアーティストのやつ。
ふざけんな。ふざけんな。ふざけんな。
なんであいつと? 私じゃないの? ムカつく。苛々する。私があんな奴に魅力で負けたって事実が悔しくて悔しくて仕方ない。だってそうでしょ? 私だけでいいじゃん。他のやつといく必要なんてある?
分かってる。分かってるよ。私だけじゃ、満たされないんだ。はあ。溜息でる。
私って、どうやったら幸せになれるんだろう。〉
その年の蝉が産声を上げた頃、先生と穂乃香が付き合っているという噂が流れてきました。ですが、私はそれよりも前にあなた方が付き合っていることを知っていました。穂乃香から先生についての相談をずっと受けていたからです。
先生から告白されたという事実を真っ先に聞かされたのも私でした。雨が降る中、一つの傘の下で穂乃香と二人。沸き立つ土の匂いが、雨が地を打つ程に強くなっていくのを感じました。私は「やっと付き合えたんだ。良かったね」と傘の柄を持つ穂乃香の手をぎゅっと握りしめました。祝福の気持ちではありません。あまりの悔しさにです。
私は、他の数人の女の子と同じように先生のことを本気で好きになっていました。勿論最初は、穂乃果の飛び立つ場所を奪う為でした。穂乃果よりも先に先生と私が付き合えば、穂乃果はきっと先生のことなんかに興味を失い、私の元に戻ってきてくれる。そう考えていました。でも、いつからか私は、先生の優しさに触れている内に、包みこんでくれるような安心感に、心を奪われていたのです。私は子供の頃を思い出しました。記憶の海に手を伸ばした時、そこには徒競走が一番早かった男の子がいたのです。ああ、そうか。そういえば私は男の子のことも好きだったんだ。私が愛することが出来るのは、女性だけではなかったんだ。それに気付いたのです。
ねえ、先生。先生の担当科目である物理が苦手で、成績が伸び悩んでいた私の為に補習授業を開いてくれたことを先生は覚えていますか?
先生と穂乃香は特別な引力を持っている気がします、と言った私のことを連れて近くのファーストフード店に入り、木から林檎が落ちる様をみて発見したとされるニュートンの万有引力の法則を教えてくださったことを覚えていますか?
「全ての物体には引力がある。それを証明したのが万有引力の法則だ。明日美が俺に感じたように、俺も明日美に引力を感じてる。物体は互いに互いを引き合ってるからこそこの世界は成り立っているんだ。どう? 物理って面白いだろ?」と言ってくれたあの日のことを覚えていますか?
私はあの時からずっと、いえあれよりも少し前から先生のことを想っていました。だから穂乃香から先生と付き合ったと聞かされた時は、あまりにも悲しくて身体を真っ二つに引き裂かれたようでした。それから間もない内に先生とデートをした、先生とキスをした、などと聞きたくもない話を穂乃香から聞かされ、次第に私の心は闇に沈んでいきました。
全てを手にした穂乃香のことを憎むようになったのです。ええ、分かっています。これは嫉妬です。本当に醜いですよね。
でも、あの時の私はその感情を抑えられなかった。穂乃香にはいつもと変わらぬ笑みを向けながら、私は全てを奪い去ってやると心に決めました。穂乃香の足が細いと誰かが言えば食事を節制し、髪が綺麗だと先生に言われたと聞かされた時はその週末には美容院に行き、トリートメントをしてもらいました。
その結果、先生と穂乃香が付き合って三ヶ月が経った頃、ようやく私は先生から声をかけて頂けました。
──最近成績が上がってきてるな。良かったら、また学校ではないどこか別の場所で物理の話をしないか? 勿論、明日美が良かったらだけど。
あの時の事は、今でも鮮明に覚えています。穂乃香の彼氏である先生に誘われた。初めて穂乃香に勝ったと思ったんです。勿論自分が最低なことをしている事は分かっていました。友達の彼氏に手を出すなんて皆が最も毛嫌いするタイプの女の子ですから。でも、私はこうも思いました。たとえ蔑まれても、他人を蹴落としても、私が幸せであればそれでいい。
結局人なんて生き物は自分が一番大切で可愛いものなんです。自分よりも他者を思いやりなさい。そうすればいつか自分にもいいことが巡ってくるから。このような綺麗事はいくらでも言えると思います。でも、たとえば自分と一番大切な親友。その両方の首筋に刃物の切っ先を当てられ必ずどちらか一人が死なねばならないという状況に置かれた時、親友ではなく自分を殺してと言える人はどれくらいいるのでしょう。私は、ほとんどいないと思います。
そんなものは極論だ、と先生はおっしゃるかもしれませんが、人生なんてものは結局それと似たようなものでしょう。仕事に恋愛、それから受験に就活。皆気付いているのか気付かないふりをしているのかは分かりませんが、自分が何かを手にするということはそれを有するはずだった誰かを蹴落としているのです。自分の実力で勝ち取ったと喜ぶのは勝手ですし周りが祝福するのも当然だと思います。でも、それを手にすることが出来なかった人間の感情や人生を考える人はいますか? その会社に就職出来なければ、その人と付き合えなければ僕は私は死ぬ。仮にそんな風に泣きつかれたとして、自分が手にした席を譲る人なんていますか?
他人の人生なんか皆所詮はどうでもいいのです。
先生だってそうでしょう。人生なんてものは弱肉強食で、殺し合いです。私は穂乃香を蹴落としたまでなんです。
先生から付き合って欲しいと頼まれたのは、その年の十一月でした。
──でも、穂乃香には内緒にして欲しい。
先生はそう言いました。私と穂乃香の関係性を知っている先生からしてみれば、当然の言葉だったのだと思います。私たちは生徒と先生という関係性を表面上は装いながらも、いろんな所に繰り出しました。夜景が綺麗だからと連れていってくれた丘からみた景色に私は息を呑み、車のハンドルを握る先生の血管をみて更に気持ちが高まり、勇気を出して自ら唇を重ねに行ったこともありました。
私は目の前の景色に溺れていったのです。先生と穂乃香がその間も付き合い続けているという事実は確かに嫌だったけれど、私の中では穂乃香の彼氏とデートをしているという征服感の方が強かったように思います。
ある日、必要以上に一目を気にしていたのにも関わらず、私と先生がデートをしている姿をみたという女の子が現れました。その噂はすぐに学校中に広まり、麗華と瑠奈には「やるんならバレないようにやりなよ」と呆れられました。私はその時、否定も肯定もしませんでした。今さらじたばたしたところで何も変わらない。それに、こんな噂すぐに収まるだろう。私には先生さえいてくれたらそれでいい。その強い想いを武装していたからです。
それにね先生。知っていますか?
クソ野郎は嘘を付くことに躊躇いなんてないんです。
穂乃香から階段の踊り場に呼び出され「もしかして先生と付き合ってる?」と尋ねられた時、なんてことない顔をして私は首を横に振り、しまいには「あんなのただの噂でしょ? 私と穂乃果の関係を壊したい誰かが流したんだよ。友達を疑うなんて最低!」と罵倒しました。ええ、分かっています。私は最低のクソ野郎です。嘘をついたうえに傷付けたんです。でも、穂乃香は恐らく私の嘘に気付いていたのだと思います。「疑ってごめん」と笑った顔が、あまりにも悲しそうだったから。
ほんの一瞬ですが私の中に罪悪感が芽生えました。ですが、穂乃香が次に発した言葉で一瞬にして頭に血が昇りました。
「そりゃそうだよね。だって明日美だもんね? 中学の時からずっと私の影と一体化してさ、私より優れてるところなんて何一つないもんね。明日美ってさ、先生からどう思われてるか知ってる? こないだデートしてた時いつも付きまとわれていい加減うんざりしてるって言っ」
聞き終えるまでに、私は両腕で穂乃香の胸を押しました。とん、とまるでボールを押し出すみたいに。目を大きく見開いた穂乃香は宙に浮かびあがり、そのまま階段を転がり落ちました。私はその足で職員室に向かい先生の耳元でこう言いました。
──穂乃香を階段から突き落としたよ。
あの時の先生の慌てふためいた顔と言ったらたまりません。先生は誰にも聞かれたくなかったのか私を車に乗せ、何度も連れて行ってくれた夜景の綺麗なあの丘へと連れていきました。
「どうしてそんなことしたんだ!」
車から降りるなり、先生はそう言って泣き崩れていましたね。先生より更に向こうで、夜になると夜景が綺麗な辺りの町明かりが、うっすらと灯り始めていました。
「穂乃果にバレたからだよ。先生と付き合ってることが穂乃果に」
「だからってやっていいことと悪いことがあるだろう」
「私は、でも、馬鹿にされたんだよ? 侮辱されたの。ひどい言葉で」
私は真実を伝えていたのに、先生は気色の悪い洟を啜る音を放つばかりでした。
「ねえ先生は、私の彼氏でしょ? だったら、先生だけは味方してよ」
これは、私の心の叫びでした。恐らく、最後の。世界中の人間に非難されようとも、先生だけは味方でいて欲しかった。何故なら、先生と私のこれから先の幸せな未来を、私は守ったのだから。
「ち、がう」
先生はぐしゃぐしゃに顔を歪めながら、ぽつりとそう溢しました。
「あれは、間違いだった。お前は、おかしいよ。なんで、なん、で、そんなことが出来るんだ。この際だからはっきり言うぞ! 俺はお前と穂乃果を天秤にかけたら迷うことなく穂乃果を選ぶっ!」
「えっ」
まるで銃弾で貫かれたみたいでした。これは、例えではありません。先生の放ったあの言葉は、私の身体も、心も、ずたずたに引き裂きながら貫いたのです。全身の力が抜け落ち、私は膝から下の足を突如として失ったかのように崩れ落ちました。群生していた草の持つつめたさが、少しずつ私の中へと這い上がってきました。程なくして身体が震えました。手も、足も、背中も、なにもかも。
十二月の夕暮れ時の風は骨が軋む程につめたくて、私は震えながら地面に頭をつけ泣き叫ぶ先生をぼんやりとみていました。穂乃香に憧れ、そして全てを奪い、先生は私のものになったと思っていた。でも、実際はまるで違ったのです。恐らく私と同じように穂乃香から問い詰められ、あんな女に興味はないよ、という感じで言ったのでしょう。先生の放ったあの言葉で何となくそれが分かりました。全身を襲うつめたさが、私の意識の輪郭を少しずつ鮮明にしてくれました。そっか。そうなんだ。だから一向に穂乃香と別れてくれる気配が無かったんだ。ようやく理解しました。私は愛した人に裏切られたのです。でも、おかげで目が覚めました。どうしてこんな人を好きになり、どうして穂乃香にあんなことをしてしまったのだろうと、とてつもない罪悪感が急速に膨れ上がってきました。
穂乃果と過ごした日々が、穂乃果の笑った顔が、中学からずっと穂乃果を想い続けてきた記憶が、走馬灯のように頭を駆け巡りました。濁流のように膨れ上がった感情が私の目の淵から溢れ、頬を伝い地に落ちた最初の涙を追いかけるように、次々と零れ落ちました。
「……なんで。なん、で」
嗚咽を漏らしながら地面に群生していた草を掴み、私は何度も何度もその言葉を溢しました。なんでこんな人を好きになり、なんで私は穂乃果を裏切り、なんで私は穂乃果にあんなことをしてしまったの。なんで。なんで。あんなに穂乃果のことを好きだったのに。
空から雪が舞い落ちてきたのは、そんな時です。白い真綿のようなちいさな塊が、私が握りしめていた拳のうえにはらりと落ち、あっと思う間もなく私の手にちいさな水たまりを残して消えました。
私は導かれるように顔をあげました。橙と深い青が入り混じったような空から舞い落ちる綺麗な雪。その儚くも美しい様が、再び地面に立ち上がる強さを私にくれました。身体を起こした時、大きく背中を震わせる先生の背中が視界に入りました。いい気味だ。何故か、私はそう思ったのです。可哀想だとは思いませんでした。その代わりに、先生と初めて二人でご飯を食べに行った日のことを思い浮かべていました。木から落ちた林檎の話。子供のように無邪気な笑みを浮かべながら話してくれた万有引力のこと。私の頭の中には常にそれがあり、大きく色鮮やかな林檎がこの数ヶ月ずっと木からぶら下がっていました。
ですが、泣き喚く先生の姿をみて、私の頭の中で実っていた林檎は木から落ちました。ヘドロのように腐って落ちたのです。ちょうどその時、空から舞い落ちた雪が私の頬にふれました。私はそれを舌先で拭い、こう思いました。あまい。嘘でも冗談でもなく、本当に甘かったのです。それもふわりとゆっくりと広がっていくようなものではなく、もう少し直線的に訴えかけてくるような、例えるなら蜂蜜みたいな甘さでした。泣き喚く先生の背を視界の端に捉えながら、私は顔をあげ、舌先をだし、次々と雪を飲んでいきました。随分前から溢れていた涙は、もうずっと止まりませんでした。
「ごめ、んね。穂乃果、ほんとに、ごめんなさ、い」
泣きながら、私はそんな蜂蜜のように甘い雪を飲み続けました。どれくらいの時間そうしていたのかは分かりませんが、ふと思い立って私はポケットから携帯を取り出しました。指を滑らせ開いたのは、私のアカウント。『少女aの戯言』でした。
それから数日間、検事や警察官には「何故あんなことをしたんだ」と尋ねられましたが、先生の事には一切触れず「穂乃香を殺したかったからです」とだけ言いました。私は決して許されないことをした。情状酌量だとあってはならず、その罪を償わなければならない。そう考えたからです。
結果、反省の余地なしということで私は少年院に送られました。当然の末路です。
幸いなことに穂乃香の命に別状はなく、肋骨と右腕を骨折しただけで済みました。それだけが私の唯一の救いです。けれど、私の心はまだ完全に救われてはいません。罪を償うべき人物がまだ償っていないからです。教師という立場でありながら私と穂乃香という二人の生徒に手を出し、おまけに双方に嘘をつき私たちを傷つけたのにも関わらずです。
先生はどうやらこの件に関して知らぬ存ぜぬを貫き通しているようですね。学校側も責任を逃れる為にどうやらあなたを擁護している様子だと聞きました。穂乃果との関係はとうに終わったらしいですが、一体どうやってこの件に関して穂乃果の口を閉ざすことが出来たのでしょう。私が口を閉ざしたのは罪を償う為ですが、穂乃果が口を閉ざす理由はありません。私はこの事を、あのクラスにいた二人の女の子から聞きました。友情とは素晴らしいものです。情報が遮断されていたこの場所で、最も罪を償うべき人物がのうのうと未だに教師を続けていることを私に教えてくれたのです。
まあでも、いずれにせよ私はあなたに復讐はするつもりでしたから、ただ時期が早まっただけなのです。これから先に記す短い文章は、何度かこの手紙に書かせて頂いた、とあるSNSの私のアカウントで呟いたものです。アカウント名は『少女aの戯言』。
〈この文章を読んだ時が、先生の人生の終わりの始まりです。
それがいつになるかは分かりませんが、私はその日が楽しみです。〉
読んで頂けましたか? 私はあの丘で泣き崩れるあなたをみながら、これを書いていました。少年院に収監されてからもずっと、今日というこの日のことを心待ちにしていました。
先生のご自宅に手紙が届く頃には、この手紙と全く同じ内容のものが私の弁護士を通して先生が働かれているあの高校、並びに教育委員会、雑誌社に送付されているはずです。
恐らくあなたは窮地に立たされることになると思いますが、当然の報いです。私がそうしたようにあなたも罪を償いなさい。
ねえ先生、これは私からの最後のお願いです。
どうか少しでも長く苦痛を味わって下さい。そして、二度とひかりが差すことのない人生に嘆き、叫び、腐って下さい。
私の頭の中で腐った、あの林檎のように。