雪と蜂蜜と腐った林檎

 その日の雪が蜂蜜のように甘かったのは、先生の悲しむ姿がみれたからだと思います。

 先生はそんな私のことを軽蔑(けいべつ)するのでしょうか。それとも雪が甘いなんてそんなバカなと顔を(ゆが)め、だからお前みたいな奴は少年院に行くのだと嘲笑(あざわら)うのでしょうか。まあどちらでも構いません。信じられないかもしれませんが、その日の雪は本当に甘かったのです。

 白く、ちいさな真綿のような雪が舞い落ちる中、先生はあの丘で私に背を向け泣き崩れていました。だから気付かなかったのでしょう。私はあなたの震える背中をしばらくの間ぼんやりと眺めていましたが、頬に触れ溶けた雪を舌先で拭った時、気付いてしまったのです。先生の泣きわめく声が大きくなればなる程に、その雪の甘さが増していくことを。

 私は、いつしか雪に夢中になっていました。少しでも多くの雪を私の中に取り込めるようにと顔をあげ、夜空に向かって舌を伸ばしていました。まるで魚のようでした。閉じ込められた水槽の中で、それでも酸素を求め必死に顔を出す、愚かで無様な魚のようでした。

 先生は本当にひどい人でした。決して私をそう思わせたことがひどいと言ってるのではありません。先生の罪は他にあります。もっと残酷で耐え難い苦痛を伴うものです。それをご自身の中でしっかりと受け入れて頂きたくて、この手紙を書きました。私がそうしたように、先生にも再度受け入れて頂きたいのです。

 あの日、私が佐伯穂乃香(さえきほのか)を階段から突き落としたのは、勿論私が事を起こしたのですから私のせいでもありますが先生のせいでもあります。この事実を皆は知りません。ええ、そうです。皆というのは私が去年までいたあのクラスのことで、この手紙を読みながら先生の頭には私たちひとりひとりの顔が思い浮かんだと思います。何故なら、先生は当時の私たちのクラスの担任だったからです。

 封筒の中には十一枚の紙切れが同封されているかと思いますが、必ず全てに目を通して下さい。一つ目の紙には手紙を書いた経緯を、それ以降の紙には先生と私の犯した罪を書き記してあります。そして、これからお話することは全て事実であり、私たちの罪の軌跡を辿るものであるということを先に述べておきます。

二年C組 東條明日美
 この手紙に書くにあたって、私は何度も過去と向き合いました。何故あのような悲劇が起きてしまったのか。何故私は先生のことを愛してしまったのか。その理由を探し求めている内にある事実に気付きました。

 それは、私はまだたった十八年しか生きてはいませんが、引力を持つ人間にはまだ二人しか会っていないということです。何もしなくても周囲にいる人間を自然に惹きつける。まるで宇宙を漂っていたちいさな隕石やちりがその引力に引き寄せられていくように人が集まり、気付いた時にはその人物が中心にいる。一般的にクラスのムードメーカーや人気者がそういった部類に入るのかもしれませんが、私はその二人程強い引力を持つ人物にまだ出会ったことがありません。

 その内の一人は先生でした。全校生徒五百人の、この辺りではお嬢様学校と謳われる格式高い女子校。それが私たちが通う高校でしたが、先生は教師の中では一際若く、おまけに男性で、目鼻立ちのくっきりとした若手俳優のような顔立ちに私たちは全員目を奪われてしまいました。高校二年の時、新学期初日の、先生が「今日から君たちの担任になりました」と教壇に立ったあの瞬間、教室が揺れるくらいの歓声が起こった事を覚えていらっしゃいますか?休み時間になればいつも先生のことを女子たちが取り囲んだことを覚えてらっしゃいますか?

 休日の過ごし方や、彼女の有無、好きなドラマやつけてる香水、女子の好きな服装、などと無数の質問が飛び交い、しまいには先生が好きだと言った香水をつけてくるそんな女の子までいたくらいでした。

 ですが、ただ若くてかっこいいというだけでは女の子の心は動かせません。それ以上に先生には素敵な面が沢山ありました。気さくで優しくて、子供のように無邪気な笑みを溢しながらいつも生徒に目線を合わせてくれる。そんな先生の人間性に皆惹かれていたのだと思います。

 私たちのいたあのクラスには、先生と同じような引力を持つ人間がもう一人いました。その子の名前は、佐伯穂乃香。彼女は私の一番の友達だったので、これから先は穂乃香と書かせて頂きます。

 穂乃香は本当に綺麗な子でした。胸元まで流した指通りの良さそうな綺麗な黒髪に、透明感のある白い肌。それから大きな目に高い鼻梁。身長は168cmもありスタイルが良く、皆がモデルとかやったらいいのに、とふいに口にしてしまう程でした。かわいいだとか綺麗だとか、一般的に女性を褒め称える時に用いる言葉は全て穂乃果の為にあり、彼女自身がそれらの言葉を自らの存在で体現していたように私は感じました。

 自分で言うのもなんですが、私の容姿も綺麗な部類に入ると思います。でも、私も含め、あの高校には可愛くて綺麗な子は沢山いましたが、その中でも穂乃香は頭一つ抜きん出ていたように思います。

「ねえ、昨日さ明日美と駅で別れたあと、またナンパされちゃった」

 教室の窓から挿し込んだ透明なひかりを身体に浴びながら、机に頬杖をつき穂乃果が私に微笑みかけてきたのは高校二年の五月のことでした。私はその時、「へえ」とか「そうなんだ」とか曖昧な返事を返したのだと思います。すみません、ここら辺に関してはよく覚えていません。というのも、穂乃果が男性を声を掛けられる事などそう珍しいことでは無かったからです。たとえば道すがら、たとえばカラオケやファーストフード店で、穂乃果をみた男性は宇宙を漂う塵のようではなく、文字通り街灯の明かりに群がる気色の悪い蛾のように引き寄せられ、声を掛けてきたのです。穂乃果と付き合うことが目的なのか、あるいはその美しさを自らの網膜にほんの一瞬でも長く取り込みたいのか、それは分かりませんが、私はそんな場面に何度も出くわしました。何故なら、中学一年の時から私は穂乃果の親友で一番の理解者だったからです。

 そして穂乃果は、自分が美しいということをこの世界の誰よりも理解していました。
 男は飲水と一緒。これは、穂乃果がよく口にしていた言葉です。グラスから飲水が無くなれば新しいものを、古くなった時も新しいものを。穂乃果は男性のことをそんな風に考えていました。けれど、特に若い男の子、たとえば私たちと同じような学生に対しては穂乃果は見向きもしませんでした。どうせ付き合うならお金も車も持っていて自分が知らない世界をみせてくれる男がいいそうでした。それも、出来れば年は三十代よりも上。最悪四十歳くらいでもいいと言われた時は、穂乃果のことが心配になりました。

 ええ、分かっています。そんな心配はどうでもいいですよね。男は飲水と一緒だなんて、とても差別的で決して許される発言ではないと私も思います。ですが、穂乃果はそれを隠そうともしませんでした。中学三年の夏、私たちはその時まだ共学の学校に通っていたので、その日も穂乃果に惚れた男の子が、自分が地に落ちてただ砕け散るだけの雨粒だとは知らず、一階の非常階段の下に呼び出してきました。

「あーめんどくさい。告る時ってさ、前置きがあるじゃん? 何で男の人って皆あれをやりたがるだろうね」

 穂乃果に付いてきてと言われたので横並びになって歩いていた時、ふいに問われました。私は少しの間を置いてから「わかんない」と首を横に振りました。

「だよね。分かんないよね? 好きなら好きで良くない? ただ一言、付き合って下さい。それで気持ち伝わるじゃんね?」
「うん。でも、それだと差別化出来ないっていうか他の男の子と同じだと思われるかもって考えてるんじゃない?」

 言うか言わまいか最初は迷いましたが、私は少しでも穂乃果の気に障らないように、尚且つ自分の意見を述べなければつまらない女だと思われてしまうと考えた結果、丁寧に丁寧に言葉を絞り出すように徹することにしました。穂乃果は一瞬宙を見上げ考える素振りをみせましたが、数秒後には「いや、やっぱわかんないわ」とぽつりと呟き、それから「明日美の方が男の子の気持ち分かってるよね」と笑みを向けられ、私の心臓は一瞬ちいさなうねりをあげましたが、すぐに沈んでいきました。

 私たちの通っていた中学は建物が古かったので非常階段には赤い錆が至るところに浮いており、心なしか血液のにおいがしました。遠くの方からわんわんと鳴く、その年の蝉の産声が聴こえていて、ただ立ってるだけなのに身体中から汗が滲んできました。そうです。男の子は穂乃果を呼び出したのにも関わらず私たちが着いた頃にはまだ来ていなかったのです。ああ、可哀想に。元から可能性なんて無かったけれど、あの男の子が恋を実らせる確率はこれでゼロになった。そんなことを考えていると、二分程遅れて男の子が走ってきました。白いワイシャツに黒いズボン。腰よりもかなり下でベルトを止めているせいで、胴体の長い、二足歩行のミニチュアダックスフンドが駆けてきたみたいでした。けれど、男の子は丁寧に整えられた黒い前髪を持ち上げた今風の髪形をしていて、目鼻立ちの整った一般的にかっこいいと言われる部類の男の子だったように思います。

「あの、さ、とりあえず謝んなきゃだよな。途中で担任に捕まっちゃって。いや、こんなこといいか。遅れてごめん」

 男の子はどきまぎとしながらも穂乃果に頭を下げ、穂乃果はそれを見下ろすようにしてみつめていました。私はその二人を、穂乃果の身体から生まれた陰に重なりながらみつめています。

「で、なに?」

 呼び出された時点で告白されることは分かってはいましたが、穂乃果はあえて聞いたのでしょう。私はついさっき穂乃果が言っていたような男の子の前置きを、これから振られると分かった上で聞かなければならないのかと汗を拭いました。あつい。早くクーラの効いた教室で涼みたい。その一心でした。

「俺と付き合ってください!」

 その日の空は、触れてしまっただけで割れそうな程に透き通った色をしていたのですが、男の子の張り上げた声で割れてしまうのではないかと心配になる程でした。ですが、私のそんな心配はクソ程どうでもいい事になることを、この時の私はまだ知りません。

「うん。いいよ!」
「えっ?」

 穂乃果の放った言葉を聞いて、偶然にも私と男の子の声は重なりました。男の子は自分から告白したのにも関わらず、手汗をカッターシャツで拭くような素振りをみせ、「いいの」と確かめるようにもう一度問い掛けました。

「うん。いいよって言ってんじゃん。これから宜しくね」

 穂乃果は可憐な笑みを浮かべています。私は泣きそうでした。

「そっか、ありがとう。じゃあ、これから俺たち彼氏とかの」
「でも、一つ条件がある」

 穂乃果は男の子の言葉を遮ってまで、人さし指を空に突き立てました。私はこの時、穂乃果は年上の人としか付き合わないはずなのに、なんで、なんで、と胸の中で叫び声をあげていました。一体この男の子のどこがいいの。だって今まではこんな若い子絶対振ってたじゃん。なんで。なんで。

「なに? なんでも言って」
「私さ、すっごく飽きやすいの。だから、もう無理だって思っちゃったら後腐れ無く別れて欲しいんだけど。出来る?」

 問い掛けられ、男の子はちいさく頷きました。私は決壊する寸前でした。私たちの中学の中では一つのビックカップルが誕生し、男の子が満足そうな笑みを浮かべて去ったあと、私はすぐに「どうして」と穂乃果の肩を掴みました。

「なに? ちょっと肩痛いんだけど」
「ああ、ごめん」

 私はすぐさま穂乃果の肩から手を放しました。

「でも、どうしてオッケーにしたの? 穂乃果、若い子は嫌って言ってなかった?」

 問いかけると、穂乃果は薄く笑いました。陰日向に咲く、真紅の薔薇のようなその笑顔が私にはこの世にある何よりも美しく思えて、恐怖すら感じました。それから、私の瞳の中心を捉えながら穂乃果はこう言いました。

「前置きが無かったから。理由は、ただそれだけ」
 ねえ、先生。ここまで読んでいてこう思いませんでしたか?

 一体何を読まされているんだ。前置きが長いのはお前じゃないか。

 ええ、おっしゃる通りです。私は自分で書いておきながら、先生が今思ったのと同じことを考えました。でも、どうか許して下さい。女の子というのは感情で動く生き物です。その時自分がどう考え、何故その行動に至ったのかというのを事細かく説明してしまうのです。理解したうえで、相手に共感して貰いたいのです。今年十八歳を迎えた女性なら尚の事。先生はそんな女性と深い関係を築いてらっしゃった経験があるので、その点はご理解して頂けるかなと私は考えています。

 それに、穂乃果がどんな女の子だったかという事を先に記さなければ先生はご自身の本当の罪の重さに気づけないと思ったのです。なので、どうかあともう少しだけ、読み進めて頂けたら幸いです。

 私と穂乃果は中学を卒業し、私立桜風女学院という高校に入学しました。そうです。今も尚、先生が在職されている高校です。きっかけは穂乃果の一言からでした。

──なんかさ、男の人たちって女子校っていう響きに強い憧れを抱くらしいんだよね。

 中学三年の時、当時付き合っていた三十四歳の男性にそう言われたそうです。疑問に思われる前に先に書いておきますが、ついさっき記した穂乃果と付き合えて満足そうに去った男の子とは二週間後には別れ、他人になっていました。友達ではありません。他人です。

──ああ、あいつ? もう別れたし、私の世界から消したよ。

 穂乃果はそう言って微笑んでいました。中学の時から過去付き合ってきた歴代の男の人たちは、穂乃果と別れてしまうと友達を通り越して他人になってしまうのです。そんな穂乃果が新たに付き合った男性は、穂乃果のSNSにDMをしてきた会社経営者で、二人で食事をとっていた時「なんか女子校っていいよなあ」とふいに呟いた言葉がずっと心に引っ掛かっていたようでした。他の男性に聞いても反応は同じで、なにか秘密の花園のような、決して踏み入れてはならないような感じがする、と言われたそうです。

 結果、私は穂乃果に促され、その高校を受験しました。正直なことを言うと、私はこの高校に行きたくはありませんでした。私の第一志望は別の高校でしたし、穂乃果を女子校に入学させるなんて以ての外だと考えていたからです。穂乃果の心を動かすことが出来ない男ならともかく、もし私のように穂乃果に寄り添うことが出来る女が現れたら。そんな風に考えたらおかしくなりそうでした。穂乃果自身も「女ばっかりって気疲れしそうで嫌だなあ」なんて溢していました。ですが、穂乃果は自分が美しいと自覚しているからこそ、今の自分が人からどうみえるか、更によく魅せるにはどうすれば良いのかというのを常に考えている子でした。純白の美しい羽根を持つ白鳥は、町中でゴミ袋をつついたりしません。白鳥は、静謐な空気が満ちた湖にひっそりといるべきなのです。穂乃果もきっと、自分が生きる場所は女子校であるべきだと考えたのでしょう。

 そんな事は中学の時から分かってはいましたが、穂乃果の引力は女子すらも引き付けました。女子校に入学したから当然なのですが、教室にいても、廊下を歩いている時も、周りを見渡せば女子しかいません。それも、お嬢様学校と言われるだけあって市内にある総合病院の院長の娘や、皆が一度は聞いたことがあるような有名企業に勤める父を持つ子、お父さん自体が会社を経営している子などと、女の子のタイプは様々でしたが何となくどこか温室育ちというか、気品のある子が多かったように思います。そんな中、穂乃果は入学した初日からとんでもなく綺麗な子がいると噂になり、皆が穂乃果のことをもっと知りたいと休み時間になれば穂乃果の周りは人で溢れかえっていました。

 これは、昔から考えていたことなのですが、私たち学生は、水槽の中で生きる魚のようなものだと思います。教室というひとつのちいさな水槽で、極力自分と同じ大きさの、尚且つその先共存していけるであろう子と群れを作ります。群れから離れてしまうと、迫害され、追い詰められ、水槽の底や隅の方でしか生きられなくなってしまうからです。それを理解しているからこそ、誰が一番力を持っているのかということを、あるいは持ちそうなのかということを、私たちは瞬時に見分けることが出来るのです。

 容姿やキャラクター、発言、性格、親の仕事や家庭環境。私が思うに力を持つもの、カーストの中でピラミッドの頂点に立つことが出来るものは、これらひとつ、あるいは複数が誰よりも優れていなければなりません。穂乃果の場合は容姿は勿論のことですが、性格もそうでした。中学の時から一緒にいる私には素をみせてくれていましたが、穂乃果は女子といる時、まっさらで綺麗な仮面をかぶります。いつも周りに笑顔を振りまき、完璧でいい女の子を演じるのです。自分はカーストの頂点の位置にいながらも最下層にいる子にも自ら話しかけ、誰かがその子を馬鹿にするようものなら「良くないよ」と諭しながらも、最終的には笑みを向ける。男子にみせる顔とはまるで違い、だからこそ中学の時は男癖が悪いとあらぬ噂がたったこともありましたが、女の子でそれを信じるものはいませんでした。

 そんな穂乃果はたった一年で私たちの学年の頂点にたちました。教室を飛び越え、学年のカーストのトップにすら立ってしまったのです。廊下を歩いているだけで「穂乃果ちゃん、おはよ」と至るところから声が飛び、美しい笑みを向けられた女の子たちからの「めちゃくちゃかわいい」という黄色い歓声が鼓膜に触れます。いつも隣を歩いていた私でさえ、「穂乃果ちゃんが綺麗過ぎるから目立ってないだけで、あの明日美って子もふつうにかわいくない?」と声が聴こえてくる程でした。私と穂乃果のことを知らない子は同じ学年にいなかったように思います。

「ねえ、明日美。私って綺麗だと思う?」

 ふいに穂乃果が言いました。放課後、この学校の同学年では天下をとった私たちは学校の屋上で、二人横並びになって芝生が張られた校庭を見おろしていました。陸上部の女の子たちがあひるの子どもみたいに一列になって走っています。

「綺麗だよ。穂乃果は凄く綺麗」

 私はフェンスにもたれぐにゃりと身体をくねらせる穂乃果をみつめながら言いました。心からそう思っていたからです。

「私はさ、そんな風に思えないんだよ」

 下から舞い上がってきた女の子たちの掛け声に溶け合うようにふいに放たれた言葉に、私は思わず目を見開いてしまいました。穂乃果は誰よりも自分が美しいことを理解していると思ったからです。

「なんで、そんな風に思うの」
「うーん、何でだろ。いや、自分のことをブスだとは思ってないよ? むしろ綺麗だと思ってる」
「うん」
「でもさ、今のままじゃ駄目なんだよね。私はまだ満足出来ない。私はさ、愛されたいの。皆からもっともっと愛されたい。その為にはもっと綺麗で、もっとかわいくならないと駄目だと思ってる」

 穂乃果の首筋も顔も、スカートから伸びる細く白い足も全てが夕日に染められていて、私はその時の穂乃果の顔をみながら、悲しみの色は橙色なのかもしれないと考えてしまいました。「どうして」と問い掛けたのは、そのすぐ後のことです。

「何でだろ。親から愛情を貰えなかったからかな。母親は私が子どもの頃から旅行ばっかり行ってて家には週に一回しか帰ってこないようなクソ野郎だったし、大好きだったお父さんは莫大な遺産だけ残して私が小一の時に病気で死んだの」
「そう、なんだ」
「でも、私はまだ諦めてないんだよね。お父さんが死んだのは私がまだほんとに小さかった時だし、あれは全て私の思い違いでこの世界のどこかで生きてるんじゃないか、私がもっともっと綺麗になって皆から愛される存在になったら、いつかお父さんが迎えにきてくれるんじゃないかって考えちゃうんだよね」

 中学の時から穂乃果とは一緒にいましたが、私は初めて穂乃果の中をみた気がしました。風の噂で穂乃果の家庭環境は耳にしていましたが、自分の口から話してくれたのは初めてのことだったのです。人には誰だって触れられたくない部分があります。どす黒いものや、弱くて脆くてもの。それらは普段、自尊心や羞恥心によって、かさぶたのような蓋をされています。穂乃果はそれをぺりりと剥がし、私に傷口をみせてくれたのです。嬉しかった。ほんとに嬉しかった。尊くて、愛しくて、今すぐにでも穂乃果を抱きしめたくなりました。

「穂乃果は、だから年上の人が好きなの」

 これは、私にとっての最後の確認でした。穂乃果は「うん」とちいさく頷きました。

「綺麗にならなくちゃ愛されない。いつかお父さんが迎えにきてくれる。そんな風に思ってるせいなのかもしれないけど、私はいつも記憶の中で生きるお父さんの亡霊を追いかけ続けてるんだよ。だから付き合うのはおじさんばかりなんだけど、いくら年が近くたって中身は勿論私のお父さんじゃないし、っていうかそもそも私は好きじゃないから結局最後はあーやっぱり違うなって私が飽きて終わっちゃうんだけど」

 聞きながら、私の湧き上がる想いは、感情は、留めることが出来ないくらいに溢れていきました。

「私じゃ駄目かな?」

 だから、こう言ったのです。

「えっ?」
「穂乃果はたぶん満たされてないんだと思う。中も心も全部全部。お父さんの代わりにはなれないけど、私が穂乃果を満たしてあげるのって駄目かな」

 穂乃果は「ちょっと何言ってんの? 冗談きついんだけど」とぎごちなく笑みを浮かべました。

 けれど、私は本気でした。中学の時から私はずっと、穂乃果のことを心から愛していました。美しく、気品があり、中にどす黒いものを抱えながらも普段は仮面を被っている。けれど、私にだけは素の一面をみせてくれる。きっと穂乃果は跳ね返りがある子を自分の一番近くに置いときたかったのだと思います。穂乃果があまりにも美しく普段は仮面を被っている為、誰も穂乃果の言う事を否定しようとはしませんでした。けれど、私は何となく穂乃果がそれに寂しさを覚えている気がして、言葉を選びながらも自分の意思や意見は伝えてきました。

 中学に入るまで、私は自分の容姿に自信がありました。誰よりも私がかわいいに決まってる。そんな風にすら思っていました。けれど、私は穂乃果に出会ってしまった。圧倒的な美しさを目の当たりにし、私はこの子の陰になろうと心に決めました。この子が望む存在になろうと思えたのです。そして、穂乃果のことを知れば知るほど私は穂乃果の魅力に溺れていきました。最初の内は、誰かに告白された、ナンパをされた、どこどこに遊びに行き、キスをされた、そんな話を穂乃果を聞かされる度に私は吐き気を覚え、それと同時に抑えきれない怒りを抱えていました。ですが、ある時に気付いたのです。男には無理だと。穂乃果の中を満たすことが出来るのは、きっとその痛みも、欲も、感情の揺れ動きを全て理解し受け入れることが出来る私だけだと。それから先は楽になりました。私が穂乃果に相応しい。私が穂乃果の中を満たす。そんな風に考え始めたら、もう引き下がる事も気持ちを抑える事も出来なくなってしまったのです。

「冗談じゃないよ。私は、穂乃果のこと」
「ちょっと待って! それ以上は言わないで」

 穂乃果は腕を前に突き出し、瞳は深い悲しみの色に染まっていました。その瞬間、「あっ」とも「えっ」とも聴こえるような、よく分からない声が私の喉から零れ落ち、それと同時に胸が凄く痛くなりました。私は、とんでもないことをしてしまった。その考えが急速に膨れ上がってきたのです。穂乃果が初めて弱いところをみせてくれたから、私はそれに感化され、自分の中もみせようと勢いあまってほとんど気持ちを伝えてしまったのです。事もあろうに穂乃果が一番嫌いだと言っていた前置きまでしたうえで。

「あのさ、私の勘違いとか、だったらほんとにごめんなんだけど」

 穂乃果はどうしたらいいのか分からないといった様子でぶつ切りになりながらも言葉を紡いでいました。

「明日美は女の子じゃん? 女の子の気持ちに私は、応えられないよ。ほんとにごめん」
「いや、違うの。私、なんか、ほんとにおかしくなってて」

 必死に訂正しながらも、たぶん私の声は潤んでいたように思います。振られたのです。正式な告白をした訳ではないとはいえ、気持ちには応えられないとはっきりと明言されました。痛い。痛い。私は胸の中で叫び声をあげ、唇を引き結び、必死に決壊寸前の涙を抑えました。嘘じゃんか、あの言葉。あまりにもつらくて、ふいにある言葉が頭に浮かびました。それは、私が毎日お守りのように大切にしていた言葉でした。なにかのドラマで、もしかしたら映画だったのかもしれません。男の子を想い続けていたヒロインの女の子のが、中々恋がうまくいかなくて涙を溢した時、傍にいた彼女の友達がこう言うのです。

──想いはいつか届くよ。想い続けてさえいれば、いつか相手にも届くから。

 私はその言葉をお守りにし、いつも力を貰っていました。いつか。いつか。不確定な未来ではありましたが、穂乃果と気持ちが通じ合うと信じ四年も待ち続けていたのです。でも、それは叶わなかった。真っ赤な嘘じゃんかあれ。微かに震える私の身体を、穂乃果が抱き締めてくれたのはそんな時でした。
 
「あのね、それ以上は言わないでって言ったのは、先の言葉を聞いちゃったらなんとなく友達のかたちが変わっちゃう気がしたの」
「か、たち?」
「うん。中学の時からの私と明日美の友達のかたち。私はさ、明日美のこと好きだよ。友達として、人として、ほんとに好き。だから、これからもこのかたちを壊したくないの。私の隣にはずっと明日美にいて欲しいから。分かってくれる?」

 私は泣きながら何度も頷きました。なんて美しい子なんだろう。容姿は勿論のこと、中身まで。私の痛みに寄り添ってくれた穂乃果のことを、やっぱり嫌いになんてなれないよ。そして、こう思いました。こんなにも容姿も中身も美しい人を、好きでいられる自分。そんな私を、これから先もずっと守り続けようと。
 春の生命の息吹は予め待ち合わせしていたみたいに草木を芽吹かせ、透明な風が翌年の私たちの髪をさわっと揺らしました。高校二年になった私と穂乃果の担任になったのが、先生でした。181cmという高い身長は、この高校にはない圧倒的な男性性と包容感を示し、新学期初日教壇に立った先生は私たちに順に視線を配りました。

「今日から君たちの担任をすることになりました。大沢といいます。えっと、僕は皆と年も近いし出来れば教師と生徒としてというよりは、良き友人のような関係を築けたらいいなと考えています。あだ名は任せます。先生でも勿論良いですけど、砕けたような名前でも構いません。あっでも、さすがに校長先生の前では先生と呼んで欲しいかな。僕が校長に怒られちゃうかもなんで」

 教師と生徒の間を隔てていた高い壁を、先生はなんなく乗り越えたのかもしれません。その瞬間、教室には笑いがおき、「えっ待ってめちゃくちゃかっこよくない?」「あんな人が担任とか最高過ぎるんだけど」「彼女とかいるのかな?」などと至るところからそんな声が聴こえてきました。

 先生は周りにいる先生方よりも一際若く、おまけに若手俳優のようなくっきりとした顔立ちをしていらっしゃったので、多感な十代の、それも周りには女子しかいない桜風女学院の生徒たちにとっては憧れのような存在でした。

 先生の担当は物理でした。小難しい方程式や、物体の運動法則など、女子からしてみれば床に落ちている糸くず程も興味もない授業であったはずなのに、先生の授業を皆が楽しみにしていました。休み時間になれば教壇に立つ先生の元へと女子たちが集まり質問攻めにし、先生が好きだといった香水をつけて登校してくる子もいれば、先生のお昼ご飯にとお弁当を作ってくる子まで現れました。それも、一人や二人では無かったので「とても食べ切れないよ」と先生はあどけなく笑いながらも、恐らく先生は若い女の子が好きで、尚且つ誰にも嫌われたくは無かったのか作ってくれたお弁当のおかずを一つずつ摘み、その子たちの良いところを織り交ぜながら感想を述べていました。

「あんなの、どこがいいんだろうね」

 周りにいた女の子たちとは違って穂乃果は最初そう言っていました。先生は二十六歳とまだ若く、穂乃果が彼氏にする年齢のボーダーラインからは大きく下回っていたのです。一年前、私は穂乃果に気持ちを伝えました。穂乃果自身は私が理解してくれたと考えていたようで、数週間後にはこれまでと同じように男性にナンパや告白された話を平然と私に話してきました。そこに気まずさのようなものはありませんでした。ですが、私の気持ちはあの日から全く変わっていませんでした。だから穂乃果が先生のことを悪く言った時も私は「分かるよ」と大きく頷きました。先生には申し訳ありませんが、あなたは穂乃果には相応しくない。そう思ったのです。ですが、この時の私は忘れていました。穂乃果という人間は自分が美しいと自覚しているからこそ、どうすれば更に美しく人にみられるかを考えているということを。そして、常に愛に飢えている穂乃果は、愛される為には更に美しさに磨きをかけなければならないと考えているうえ、その為には手段を選ばないということを。

 ある日、いつものように先生に群がるクラスメイト達を穂乃果と二人で机に座り眺めていると「ねえ」と肩を叩かれました。穂乃果は大きな目をゆっくりと細めながらこう言いました。

「私さ、好きな人出来たかも」

 私はその時、あまりの衝撃に声を発することが出来ませんでした。付き合うならこんな人がいい。これくらいの年齢がいい。穂乃果が男性に求める条件を私は理解していたうえ、告白される姿は何度もみていましたが、穂乃果が自分から人を好きになることなど今まで無かったのです。

「だ、だれ?」

 私の声は震えていました。喉から絞り出すのがやっとでした。

「先生」
「えっ、先生?」
「うん。タイプじゃないし全く興味無かったんだけど、かっこよくみえてきたんだよね最近」

 穂乃果は美しい眼差しを先生に向けました。その眼差しは、恋をする女の子が相手に向けるそれでした。呆然とそれをみつめていた私に穂乃果がふわりと笑みを向けてきて、それからこう言いました。

「もしさ、私が先生の彼女になったら、もっと輝けそうじゃない?」
 
 それは、私の胸を引き裂くには十分過ぎる言葉でした。輝く。かがやく。脳内で言葉を噛み砕き、私はゆっくりと咀嚼して、その言葉の持つ本当の意味を理解しました。愛されたい。それが穂乃果の持つ一番大きな欲求でした。その為には今よりもっと可愛くならなければならない。綺麗でいなければならない。穂乃果の放ったあの言葉はきっと、先生の隣にいる自分を想像したうえで言ったのだと思います。学年で一番若く人気な男性教師と、学年一の美少女。映画や小説でよくみるようなあまりにもありきたりな組み合わせだとは思いましたが、実際もし二人が付き合えば、先生の彼女という肩書きを手に入れた穂乃果は、更に皆から羨望の眼差しを受けることになるだろうというのは容易に想像出来ました。

 ああ、やっぱり私じゃないんだ。私が、女だから? 最初に思ったのはそれでした。それから、考えたくもないのに二人が付き合った先のことまで思い浮かべてしまい、私は吐き気を覚えました。たとえば先生の手のひらが、たとえば先生の唇が、穂乃果の手のひらや穂乃果のぷっくりと膨らんだ唇に触れたなら。嫌だ。嫌だ。私は胸の中で叫び声をあげます。嫌だ。舌を噛みました。口内に血の味が広がるまで、強く、強く。

 中学からずっと、五年もの間穂乃果を想い続け私は隣にいたのです。だから、その時の穂乃果の心情が、私には手に取るように分かりました。これまで軽くあしらってきた男性とは違う。穂乃果は心の底から先生を好きになり始めている。愛されたいが為に。皆から綺麗だと思われたいが為に。先生の彼女という名の聖域に住むのは私だ。聴こえるはずのない穂乃果の心の声が、私には確かに聴こえたのです。美しい白鳥は、その湖の水が濁り始めたなら、自分が本来いるべき場所へと飛び立つことを私は知っていたからです。

 だから私は心に決めました。奪われるくらいなら、先に奪ってやろうと。先生から穂乃果を奪うのではありません。その当時の私の力では無理だと分かっていたからです。一度は穂乃果に告白し振られている身でもありましたしね。

 私が奪おうと考えたのは、先生の彼女というの名の聖域です。私が穂乃果よりも先に先生と付き合ってしまえば、穂乃果はそんな汚れた場所にはよりつかなくなる。それによって、もしかしたら私と穂乃果の関係は一時的に壊れるかもしれないが、穂乃果はきっとまた私の傍に戻ってきてくれる。私はそう考えました。何故なら、穂乃果にとって私は一番の理解者であり、私も穂乃果がいなければ生きていけない。それを口には出さずとも互いに分かっていました。言わば魂の双子だったからです。

 先生はご存知ないかもしれませんが、SNSで裏アカウントを開設し、私が呟き始めたのもその辺りからでした。アカウント名は『少女aの戯言』。いちいち言わなくても分かるかと思いますが、少女aというのは勿論私のことです。明日美の頭文字からとりました。

 先生のお手間を省く為にも私が呟いた内容を、これから時折この手紙に挟ませて頂きます。まず一つ目ですが、これはその当時の私の心境が記されたものです。

〈戯言。アカウント名にそう名付けた。適当につけたけど、ヘッダーとか自己紹介文とか書いてちゃんと作ってみたら意外としっくりくるっていう不思議。

今日、心に決めたことがある。
いつか、とか、もしも、とか、そんな不確定でも遠い未来を描けている内は、私は幸せものだったんだなって気付いた。待ってたって好きな人が振り向いてくれる訳ないよね。今日は、なんかそれが身に沁みてよく分かったわ。身体を真っ二つに引き裂かれた気分。

こんなに辛くて、こんなに苦しんだ。もういいでしょ。

破壊なくして再生なしって言葉をどっかで聞いた気がしたけど、私がこれからやろうとしている事はまさにそれなのかも。偉人は偉大だ。

あの子は誰にも渡さない。渡すくらいなら辺り一帯全て全部、この私が焼け野原にする〉

 

 
 午前七時に車で登校。停めるのは教員用の駐車場。それから鍵を外し、鞄や荷物を手にして車を降りるまでに約十秒から三十秒。駐車場は地下にある為、それから階段を登り真っすぐに職員室へ。

 これは、数日間先生を観察して分かったことです。何しろ先生は学校にいる時は授業をしているか常に女子に囲まれている為、私が先生に個人的に近付くことは難しかったのです。休み時間に話しかけにくればいいと先生はおっしゃるかもしれませんが、私の隣には常に穂乃果がいます。それに、私は正直先生のことを新学期初日からあまりよくは思っていなかったので、休み時間の度に先生に話しかけにいっていた女の子たちよりもスタートが遅すぎたのです。

「先生」

 五月の柔らかなひかりが満ちたある日の朝、私は自然を装って車から降りたばかりの先生に声を掛けました。自然とはいっても登校時間よりも随分早く、それも地下駐車場に生徒がいる事は自然ではありません。ここでいう自然とは、あくまで私と先生は偶然に出会ったという意味での自然です。

「明日美? こんなところで何してるんだ」

 黒のズボンの中に青いシャツを中に入れ、くせ毛一つ残さないようしっかりとセットされた髪は清潔感に溢れ、身長が高くスタイルもいいのも相まって先生はどこかの俳優さんのようでした。そして、疑問に思って貰うことも想定内です。いえ、私が疑問を生み出したという方が正しいのかもしれません。目的は、次のステップに繋げる為です。

 私はこう言いました。両親が厳し過ぎるあまりに、家のどこにも居場所がないと。だから、学校がある日はこれくらいの時間に毎日登校し、教室が開くまではいつもこの駐車場で時間を潰しているのだと。後半はまるっきり嘘ですが、前半の部分は本当です。この時間に登校することだって両親からはひどく問い詰められましたが、そこは中間が近いから図書室で勉強したいと納得してもらいました。

 私の父は弁護士をしており、母は歯科医をしています。二人とも硬い仕事をしているせいか、二人は私のことをまるで着せ替え人形のように操縦してきます。スカートはここまで、髪は二十歳を超えるまで染めないこと、夏の時期は仕方ないがそれでも極力肌をみせる服は着ないこと。あと、男性と付き合うのは二十歳から。両親にそう言われ、じゃあ女性は? と問いかけようかとも思いましたがそれを理解してもらう為には、私はきっと両親と長い時間をかけて話し合わなければならないということは目に見えていたのでやめました。

「そうだったのか。なにか先生に出来ることはないかな? 良かったら三者面談の時にでも」

 先生は私が想像以上に親身になって聞いてくれました。駐車場で待つのは何だからと、わざわざ私のクラスの鍵を開け「ここで待ってるといい」と笑みを向けてくれました。両親には言わなくていい、自分で対処出来るから、と私は言うと、先生は「じゃあ俺が登校したらすぐに教室の鍵は開けとくから家に居づらい時は好きなだけでいな」と肩に手を置いてくれました。ずっしりとした重みのある、大きな手のひらでした。

「なあ明日美、学校は楽しいか?」

 教室の中で先生と二人きり。私は自分の席に。先生はその一つ前に腰を下ろしていました。私は「はい」とちいさく頷きました。私の視界の左端からは、大きな窓ガラスから差し込む透明なひかりがみえます。

「そっか。いつも穂乃果と一緒にいるみたいだけど、二人はいつから友達なの?」
「中学からです。穂乃果とはずっと、一番の親友で」

 そこで先生はふっと笑みを浮かべました。綺麗にならんだ白い歯が、ひかりを弾いています。

「やっぱりな。そうだよな、二人だけ空気が違うもんな。正直さ、僕のこと……あっ俺でもいい?」
「はい」
「二人は俺のことあんまりよく思ってくれてないのかなあ、とか思っちゃっててさ。いや、そりゃ話しかけたら穂乃果も明日美も笑顔で話してくれるんだけど、あんまり自分からは話しかけにきてくれないじゃん? だから、なんとなく、ちょっと気にしててな」

 先生はそこで窓の方へと視線を投げました。私も吸い寄せられるようにそちらをみました。綺麗な青い空と千切れた雲。遠くの方にぽつぽつと民家がみえます。先生は私の言葉を待っている様子でした。そんなことないですよ、という自分を掬い上げてくれる慈悲に満ちた言葉を。

「そんなことないですよ」

 だから望み通りにそう言ってあげました。でも、これでは次のステップへは進めません。だから、私は次の言葉へと繋げます。

「先生はかっこいいし、授業も分かりやすい。いつも私たちの目線に合わせてくれるので凄く親しみやすいと思っています。でも、穂乃果は先生がというよりは男の人自体が嫌いで、だから時々つめたい態度をとっていたのだと思います。あと、私はけっこう穂乃果の感情に影響を受けてしまいやすくて、つられて先生につめたく接してしまっていたのかもしれません。ごめんなさい」
 
 ここで頭を下げる。一秒、二秒。長すぎず、短すぎず。ちょうどいい長さで顔をあげ、目を潤ませる。女性らしく、しおらしく、先生のように女性を値踏みするタイプの男性には最も効果的な仕草だと思ったのです。これは五年間、穂乃果と一緒にいて身につけたワザです。

 穂乃果。麗華。瑠奈。梓。先生は一部の生徒だけを下の名前で呼びます。この私のこともそうです。恐らくそれは、名字で名前を呼ぶよりも、もっと深い関係を築きたいと思っている生徒を他の生徒たちと線引きする為でしょう。最初は仲が良くなった女の子をそう呼んでいるのかと思いましたが違いました。そもそも私と穂乃果は先生とは親しくなかったですし、先生が下の名前で呼び始めたのは新学期を迎えてからたったの一週間後のことだったからです。それに、下の名前で呼ばれている女の子にはある共通点がありました。それは、皆が等しく容姿が整っているということです。この私も含めて。

 絶対的強者。男性としての優位性。この閉ざされた空間で、しかも教室という普段は女の子の声で賑わっているこの場所で、ついさき程私がみせた仕草は、先生のような狡猾で愚かな男性にはそれら二つを胸の中に芽生えさせ、それはそれは気持ちが良かったのではないでしょうか。周りに満ちていた空気が急に湿り気を帯びた時、「二人にも好かれるように俺も頑張らくちゃな」とそさくさと席を立ちました。先生が扉をあけ教室を去ってから、私は自分の手のひらがぐっしょりと汗で湿っていたことに初めて気付きました。
「えっ、もう来てたの? 今日も?」

 教室に入ってきた穂乃果は私の姿をみるなり、そう呟きました。壁に設けられた時計の針は、午前八時を指しています。始業は八時半からですし特段早い訳ではなかったのかもしれませんが、この数週間穂乃果が登校した時にはいつも私がいた為不思議に思ったのかもしれません。

 穂乃果がそう思うのも無理はありません。〈一緒に学校にいこ〉と穂乃果から時折メッセージが届いていたのですが、私はいつも何かしらの理由をつけて断っていました。にも関わらず、学校に登校すれば私がいました。穂乃果の疑問は至極当然だったのです。

 私はこの数週間毎日午前七時には登校していました。目的は、先生との距離を縮める為。先生は私に言ってくれていたように、いつも教室の鍵を開けて待っていてくれました。学校のこと、家での生活、友人関係、趣味、休みの日には何をしているのか。毎日約一時間。教室の中で、先生と二人きり。本当に沢山の、いろんな話をしました。そんな日々を過ごしている内に、一つ気付いたことがありました。先生は想像以上に話しやすかったということです。

 正直私は、男性があまり好きではありませんでした。小学校の頃は一目惚れした男子もいたのですが、中学に入ってからはこれまでにも記述した通り、私の目には穂乃果しか映っていませんでした。初めて穂乃果のことを好きかもしれないと気付いた時は、ああ私は女の子が好きなのか、と驚いたのと同時にどこか落胆した気持ちはありました。普通ではない。今の時代、人が人を好きになるのに性別は関係ないというような、多様性が見直されつつある時代だとは言っても、やっぱり、どこか、同性を好きだという事実は皆から敬遠されがちというか、皆から異質な存在と思われ水槽の中から迫害されるかもしれないと思ったので私はずっと胸に秘めていました。

 でも、それと同時にどこか腑に落ちた部分もありました。私は両親からそれはそれは厳しく育てられていたので、中学の時は勿論のこと、小学校の時から異性と遊ぶことは禁じられていました。異性と交友するのは二十歳を過ぎてからでいい。余計なトラブルを招くだけだから。両親からは呪いのような言葉を何度も言われていた為、私の頭にはそれがこびりついていました。そのせいもあって、力が強く、身体が大きな男子という存在はどこか異質で、怖い生き物だとも思っていました。それに、これは私の通っていた中学が悪かっただけなのかもしれませんが、男子たちは雑に人の弱い部分に踏み込んでくる人が多かったのです。たとえば胸がちいさい子、たとえば太りやすい子。本人がコンプレックスに抱えている部分を、容赦なく踏みにじる。私は、そんな男子たちがあまり好きではなくて、特に大人の男性は更に身体も大きいですし恐怖の対象でしか無かったのです。

 ですが、先生は違いました。勿論男性的というのか、人の容姿で優劣をつけるような女性を値踏みしている点では同じだと思ったのですが、対ひと対ひとという点においてはいつも私の心に寄り添いながらも、目線を落とし共感してくれる。

 新学期初日の挨拶で言っていた「教師と生徒というよりは良き友人のような関係を築きたいと思っています」というあの言葉は嘘ではなかったのです。

 同じようなことを、穂乃果も言っていました。

──昨日ね、放課後先生とやっと二人きりになれたんだけど、話しやすすぎてびっくりした。悩みとか趣味とか何でも話せちゃうんだよね。ほんと不思議だわ。六時前くらいまで話してたんだけど、一瞬で時間過ぎてたもんね。あっあと、好きなアーティストとかも同じでさ。今度お気に入りのプレイリストを見せ合おうって約束したの。

 その日は、いつものように一緒に帰ろうと思っていたら、穂乃果には用があるから先に帰っててと言われていました。後から聞いてみたらそういう事だったのかと分かり、私の胸にはちりりと火花が散りました。翌日、最近穂乃果と仲良いらしいですね、と先生に微笑みかけると、先生はなんてことない表情で「あーそうだな。穂乃果とは最近話す機会が多いかもな。ちゃんと向き合ってみたら穂乃果も愛に溢れたいい子だと分かってさ、やっぱり生徒と向き合わなくちゃ駄目だよなって改めて思ったよ。皆いい子たちばかりだし、先生はお前たちの担任になれて鼻が高いよ」と言われ、私の胸の中で散った火花は更に大きな火をあげました。この時の私の感情はSNSに呟いています。そうです。少女aの戯言です。

〈不愉快だった。凄く凄く。なんかさ、自分の感情が分からない。私じゃない、もう一人の私が中にいるみたい〉


 
 いつからか穂乃果という存在が邪魔に思えてきました。当初の目的を果たす為にもそうでしたが、また違った意味でも邪魔でした。

 梅雨が始まろうとする頃には穂乃果は本気で先生のことを好きになっていました。彼氏とする年齢のボーダラインからは下回っているとはいえ、先生と私たちとでは十歳も離れており、その大人独特の包容力と妙な落ち着きが、穂乃果の愛されたいという欲求を強く刺激したようでした。穂乃果はいつもお昼を過ぎた辺りからそわそわとし始め、チャイムが鳴ると同時に先生のところに向かいます。それだけでは話し足りなかったのか、朝の時間もどんどん早く登校するようになってきました。これでは先生との距離を縮められない。そう思った私は、身代わりを用意することにしました。

 月日が経つにつれ先生の人気も落ち着き始め、心から好きだと思っている子以外は休み時間の度に先生のところにいくというような愚かな行動をとる子はいなくなりました。それに比例して穂乃果の周りにはまた以前のように人が集まり始めました。容姿も内面も全てが美しい。仮面を被った穂乃果の本当の姿を知らないので、皆が憧れていたのです。ですが、憧れが強すぎるあまりに学校では話しかけても放課後遊びに行こうと誘うような子はいませんでした。だから私は穂乃果が傍に置きたくなるであろう跳ね返りのある子を用意しました。

 その二人は麗華と瑠奈といって、二人とも先生から下の名前で呼ばれているだけあって美しい子でした。麗華は色が白く、綺麗に染められた金髪がよく似合う女の子で、瑠奈は口調が強過ぎるのであまり同性から好かれるタイプではないかもしれませんが、腰の辺りで折ったスカートから伸びる足は細いうえに長く、一方で瑠奈のそのスタイルの良さに憧れている女子も多かったです。そして二人とも自分を持っており、やりたくないことはやらない、欲しくないものはいらないとはっきりと明言する子たちでした。女の子同士だと、メイク道具や筆記道具、洋服など、幾つかの自分を彩ってくれるアイテムを仲が良い子とお揃いにすることがよくありますが、二人は必要ではないと思ったことは「なんで? それ意味ある? 私はこれでいい」と突っぱねる為、クラスの中では少しだけ浮いた存在でした。私はその二人に好かれるようなキャラクターを自らの身に纏い、この数週間積極的に話しかけていました。

「ねえ、穂乃果。今日のお昼さ、麗華と瑠奈も一緒に食べていいかな」

 携帯を鏡代わりにし手ぐしで髪をといていた穂乃果はすぐに可憐な笑みを浮かべ「うん。いいよ。一緒に食べよ」と頷きました。穂乃果は女の子に対してはいつも仮面を被るので、これは想像通りでした。

「へーじゃあ、穂乃果って先生のこと好きなんだ」

 食堂で、一つのテーブルを四人で囲んでいた時、瑠奈がクロワッサンをちいさくちぎりながら言いました。女の子同士で集まると、やっぱり恋愛の話が一番盛り上がります。

「うん。もう何回も二人きりで話してるし、今までの経験からして先生も私のこと好きになり始めてくれてるかなってのは、なんとなく思ってるんだけど。でも、先生のことを狙っている子って多いからね、この恋が実るか分かんない」
「まあでも穂乃果って学年で一番かわいいからいけるんじゃない? その美貌は向かうところ敵無しって感じだもんね」

 麗華が答えを求めるように瑠奈をみると、紙パックのカフェオレにストローを差しながら「分かる」とただ一言だけ呟きました。それからストローをくわえ「でも先生かー。瑠奈は無理だな」とぽつりと呟いたのです。私はあまりにも狙い通りの反応をしてくれる二人に感動すら覚えていました。

「だって先生ってさ、二十六でしょ? あと四年で三十じゃん。おじさんじゃん」
「そう? 私は全然許容範囲内だけど」

 穂乃果はそう言いながらどこか嬉しそうでした。麗華と瑠奈のように跳ね返りのある子が、穂乃果は大好きなのです。

「ただのジジ専じゃん」
「はあ? ジジ専じゃないし。かっこよくて大人な男性が好きなだけだし」

 穂乃果の放った言葉に、麗華がきゃははと笑い声をあげ、それに続くように私たちは髪を揺らしました。その日のうちに四人でカラオケに行き、メッセージアプリでは四人だけのグループを作りました。必然的に四人で過ごす時間が多くなり始めた段階で、私は四人で遊ぶ予定を幾つか立てました。元から行くつもりはありませんでしたが、麗華と瑠奈に穂乃果を任せておけば、私は先生に会いに行ける。そう思ったのです。ですが、それを何度か繰り返している内、私はトイレから出たところで麗華と瑠奈に呼び止められました。

「ねえ明日美ってさ、もしかして先生のこと好き?」

 唐突に問いかけられ、私は「えっ、なんで?」と返すだけで精一杯でした。

「穂乃果が先生のことを話してる時の、明日美の顔みてたら分かるよ」
「でさ、もしかして私たちをグループに誘ったのって放課後先生に会いにいくのが目的だったりしてって思ったんだけど」

 私の心臓は早鐘のように打ち始めていました。

「前ね、明日美と先生が放課後話してるのをみたって子がいるんだよ。しかもその日は、私たちとの予定をドタキャンした日」
「もし、もしだよ? 私たちのことをだしに使う為にグループに引き入れたならまじでキレるよ」
「違っ、違う。あの日は、忘れものをして偶然先生に」

 苦し紛れの嘘でした。どう言葉を返せばいいのか。頭の中を必死にかき回し言葉を紡ごうとしていると、私の肩に瑠奈の手がふわりとのりました。

「そんな焦んなくてもいいじゃん。好きな人がたまたま偶然同じ人だったって事でしょ? それをいちいち穂乃果にチクるつもりはないよ。ただ、それに瑠奈たちを巻き込まないでって言いたかっただけだから」

 瑠奈と麗華は「じゃあ話したかった事はそれだけ」と手を蝶のようにひらつかせながら私の前から去っていきました。私は二人の背中が教室に消えていくまで睨見つけ、それからもう一度トイレに戻りました。すぅっと息を吸った時、扉が目に入りました。

「あーーっ、くそ!」

 思い切り叩きつけました。何度も。何度も。

「うまくいかない……なんで」

 じんじんと脈を打つ手のひらをみつめながら、無意識に溢していました。私はその時まで、自分の立てた計画は全て思い通りになると、どこか慢心していました。でも、違った。うまくいったのは異性である先生だけで、同性の女の子にはまるで通用しなかったのです。

〈少女aの戯言。もう、これで終わるかも。邪魔過ぎる。全員が邪魔。私も学校も、この世界も全部壊れたらいいのに。そしたらこの苛つきだって無くなる。っていうか、私は何でこんなに苛ついてんだろ? 何でこんなに必死になってんだろ? 自分が自分でわかんないや。〉
 その日以降、麗華と瑠奈は少しずつ私との距離をとるようになりました。けれど、穂乃果と四人でいる時は普段と何一つ変わらない感じで接してくれたのは、今思い返せば二人なりの優しさだったのかもしれません。

「ねえ、先生。こないだの授業で分からないところがあったんで聞いてもいいですか」

 穂乃果が早い時間から登校するようになったせいで、私が先生と過ごせる時間は一日に三十分程になっていました。車から降りたばかりの先生は「今か?」と目を丸くしました。私はちいさく頷いてから先生と一緒に教室に入り、いつものように椅子に腰を下ろしました。

「で、どこ?」

 中々教科書を開かない私を不思議に思ったのか、先生はそう問いかけてきます。私は鞄からそれを取り出そうと手を入れて、やっぱりやめました。

「あの」

 本当は、昨日の授業で分からないところなど無かったからです。

「私、先生とこうやって二人で過ごす時間好きです」
「俺もだよ」
「落ち着くんです」
「落ち着く」
「はい。ぐるぐる頭が回って普段の私はどうしようもなく苛ついてばかりなんですけど、先生と一緒にいると心が凪いでいくんです」

 先生はそこで「そんな風に言ってもらえると嬉しいな」とふわりと笑みを浮かべました。

「でもここだと一緒にいれる時間は限られてるし……だから、学校じゃない別のどこかで二人で会えませんか?」
「ああ、俺はいつでも。明日美がそれを望んでいるなら」

 先生はそこで立ち上がり「分からないところなんてないんだろ? 話したかったことってこれ?」と問いかけてきたので私はちいさく頷きました。「じゃあ、またあとでな」と頭に手を置かれ、先生は教室から出ていきました。もしかしたら先生の手のひらからは、糸が伸びていたのかもしれません。私の触れられた場所にそれが結びついているのかもしれないと錯覚する程についさっき先生に触れられたばかりの頭に違和感が残りました。引っ張られているようなふわふわとした感覚は、けれど、決して不快ではありませんでした。

 その日のお昼休み、穂乃果がやけにテンションが高く、私はなぜかぞわりとした胸騒ぎがしました。六限のチャイムが鳴ってから教壇に立つ先生のところに穂乃果はお菓子を貰った子供のように駆けていき「せーんせっ」という凄く不愉快な、綿菓子みたいな甘ったるい声をあげました。私の鼓膜は、その声に侵されて腐りそうでした。



〈ついさっき知った。穂乃果は明日、先生とライブをみにいくらしい。前話してた好きなアーティストのやつ。

ふざけんな。ふざけんな。ふざけんな。

なんであいつと? 私じゃないの? ムカつく。苛々する。私があんな奴に魅力で負けたって事実が悔しくて悔しくて仕方ない。だってそうでしょ? 私だけでいいじゃん。他のやつといく必要なんてある?

分かってる。分かってるよ。私だけじゃ、満たされないんだ。はあ。溜息でる。
私って、どうやったら幸せになれるんだろう。〉