「ああ……柊さん。……来てくれて、ありがとう」
僕は、ようやくそれだけを言った。声が、自分でも驚くほど掠れている。心臓が、肋骨の内側で暴れるように脈打っている。頭の中で何度も繰り返したはずの言葉は、いざ彼女を目の前にすると、まるで遠い国の言葉のように、現実感を失っていた。
「いえ……」
彼女は、視線を足元に落としたまま、小さく首を振った。長い睫毛が、白い頬に影を作る。その仕草が、彼女の拒絶を表しているのか、それとも単なる戸惑いなのか、僕には判別できない。
僕たちの間に、重たい沈黙が落ちる。通りの喧騒、車の走行音、遠くで鳴る踏切の警報音。それらが、まるで異世界の響きのように、僕たちの周りだけを取り残していく。橘書店のショーウィンドウに映る僕たちの姿は、ひどくぎこちなく、頼りなく見えた。
ここで、この往来で話すわけにはいかない。それは分かっていた。もっと、静かで、落ち着ける場所でなければ。僕が伝えたい言葉は、そしておそらくは、彼女が聞きたいであろう言葉は、こんな場所で交わされるべきものではない。
「あのさ」
僕が切り出す。
「ここで話すのも、なんだし……。少し、移動しないか? すぐそこの公園とか……あるいは、もし良かったら、ノアールでも……」
言いかけて、僕は口をつぐんだ。『ノアール』。あの、僕たちが高校時代に通い詰め、そして僕が決定的な過ちを犯した、あの喫茶店の名前。今、それを口にするのは、あまりにも配慮がなさすぎるのではないか。
雪乃は、僕の言葉に、わずかに顔を上げた。その瞳には、一瞬、戸惑いの色が浮かんだが、すぐに消えた。
「浅川の土手で、いいです」
彼女は、静かにそう答えた。その声のトーンからは、感情を読み取ることは難しい。
僕たちは、無言で歩き始めた。橘書店を背にし、商店街のアーケードを抜け、少し脇道に入ったところにある、川の土手へ向かう。並んで歩いているはずなのに、僕たちの間には、見えないけれど、厚くて冷たい壁が存在しているかのようだ。時折、肩が触れ合いそうになる距離。けれど、その度に、どちらからともなく、わずかに身を引いてしまう。
彼女の歩く速度は、いつもより少しだけ遅い気がした。ヒールの靴が、アスファルトを打つ、カツ、カツ、という硬質な音が、僕の耳に妙に響く。彼女の横顔を盗み見る。白い肌、すっと通った鼻筋、固く結ばれた唇。その表情は、やはり硬く、何を考えているのか窺い知ることはできない。ただ、マフラーから覗く首筋が、緊張のためか、わずかに強張っているように見えた。
僕は、ようやくそれだけを言った。声が、自分でも驚くほど掠れている。心臓が、肋骨の内側で暴れるように脈打っている。頭の中で何度も繰り返したはずの言葉は、いざ彼女を目の前にすると、まるで遠い国の言葉のように、現実感を失っていた。
「いえ……」
彼女は、視線を足元に落としたまま、小さく首を振った。長い睫毛が、白い頬に影を作る。その仕草が、彼女の拒絶を表しているのか、それとも単なる戸惑いなのか、僕には判別できない。
僕たちの間に、重たい沈黙が落ちる。通りの喧騒、車の走行音、遠くで鳴る踏切の警報音。それらが、まるで異世界の響きのように、僕たちの周りだけを取り残していく。橘書店のショーウィンドウに映る僕たちの姿は、ひどくぎこちなく、頼りなく見えた。
ここで、この往来で話すわけにはいかない。それは分かっていた。もっと、静かで、落ち着ける場所でなければ。僕が伝えたい言葉は、そしておそらくは、彼女が聞きたいであろう言葉は、こんな場所で交わされるべきものではない。
「あのさ」
僕が切り出す。
「ここで話すのも、なんだし……。少し、移動しないか? すぐそこの公園とか……あるいは、もし良かったら、ノアールでも……」
言いかけて、僕は口をつぐんだ。『ノアール』。あの、僕たちが高校時代に通い詰め、そして僕が決定的な過ちを犯した、あの喫茶店の名前。今、それを口にするのは、あまりにも配慮がなさすぎるのではないか。
雪乃は、僕の言葉に、わずかに顔を上げた。その瞳には、一瞬、戸惑いの色が浮かんだが、すぐに消えた。
「浅川の土手で、いいです」
彼女は、静かにそう答えた。その声のトーンからは、感情を読み取ることは難しい。
僕たちは、無言で歩き始めた。橘書店を背にし、商店街のアーケードを抜け、少し脇道に入ったところにある、川の土手へ向かう。並んで歩いているはずなのに、僕たちの間には、見えないけれど、厚くて冷たい壁が存在しているかのようだ。時折、肩が触れ合いそうになる距離。けれど、その度に、どちらからともなく、わずかに身を引いてしまう。
彼女の歩く速度は、いつもより少しだけ遅い気がした。ヒールの靴が、アスファルトを打つ、カツ、カツ、という硬質な音が、僕の耳に妙に響く。彼女の横顔を盗み見る。白い肌、すっと通った鼻筋、固く結ばれた唇。その表情は、やはり硬く、何を考えているのか窺い知ることはできない。ただ、マフラーから覗く首筋が、緊張のためか、わずかに強張っているように見えた。
