高校での再会から数日が過ぎた。あの視聴覚室でのぎこちない空気と、帰り際に交わした短い、しかし確かな雪乃の頷きが、僕の中で交互に明滅している。何も伝えられなかった後悔と、まだ可能性が残されているかもしれないという淡い期待。
 その二つの感情の間で、僕の心は振り子のように揺れ動いていた。
 諦めるな。まだ、終わったわけじゃない。そう自分に言い聞かせる。けれど、問題は「どうすればいいのか」ということだ。高校での失敗は、ただ闇雲に「話したい」とぶつかるだけでは駄目だということを、僕に教えてくれた。
 言葉を選ばなければならない。タイミングを見極めなければならない。そして何より、僕自身の弱さと、彼女の痛みに、誠実に向き合わなければならない。

 僕は、あの日以来、時間を見つけては橘書店に通い、様々な本を手に取るようになっていた。それは、以前のようにただ言葉の海に逃避するためではなかった。

 コミュニケーション論、心理学、あるいは優れた批評家のエッセイ。言葉が持つ力、人と人との繋がり、才能という不可解なものについて書かれた文章の中に、何かヒントが隠されているのではないか。
 そんな、藁にもすがるような思いでページをめくっていた。書くことから離れた僕が、言葉について真剣に考えるというのは、皮肉なことかもしれない。けれど、今の僕には、それしかできることが思いつかなかった。

「難しそうな顔をしてるね、最近」

 カウンターの向こうで、橘さんが静かに言った。僕が、分厚い批評理論の本とにらめっこしているのを見かねたのだろう。

「いえ。ちょっと、考え事を」
「まあ、考えることは良いことだ。だが、考えすぎると、かえって動けなくなることもある」

 橘さんは、老眼鏡の奥の目を細めた。

「時には、頭で考えるよりも、心で感じたままに動いてみることも、大切かもしれませんよ」

 心で感じたままに、か。僕の心にあるのは、雪乃への後悔と、謝罪と、そして、あの頃と変わらない、複雑に屈折した想いだ。それを、そのままぶつけていいのだろうか。また彼女を傷つけるだけではないのか。
 バイト先のカフェでも、僕は上の空でいることが多かったらしい。

「蓮くん、また眉間にシワ寄ってるよー」

 美咲先輩が、カウンター越しに僕の顔を覗き込む。

「この間の高校の集まり、結局どうだったの? 少しは話せた?」
「いえ、それが……全然……」

 僕は、正直に打ち明けるしかなかった。

「そっかー。まあ、そんなすぐにはね」

 彼女は、僕の気持ちを察したように、優しい声で言った。

「でもさ、蓮くん。話せなかったとしても、会いに行ったっていうのは、すごい進歩だよ。きっと、相手の子にも、蓮くんの気持ち、少しは伝わってるんじゃないかな」
「だと、いいんですけど」
「大丈夫だって!」

 彼女は、力強く頷いた。

「それでね、思ったんだけどさ」

 彼女は少し声を潜め、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「次、もし会う機会があったらさ、難しい話ばっかりじゃなくて、なんか、全然関係ない、楽しい話題とか振ってみたらどうかな? 例えば、最近面白かった本とか、映画とか、あるいは、美味しいお店の話とかさ」
「楽しい話題……ですか?」
「そう! 深刻な話ばっかりだと、お互い疲れちゃうでしょ? ちょっと肩の力抜いてさ、昔みたいに、普通の話をしてみるの。そしたら、案外、自然に他の話もできるようになったりするかもよ?」

 共通の話題。肩の力を抜く。美咲先輩の言葉は、いつもシンプルで、けれど的を射ている気がした。僕たちは、あまりにも過去の出来事や、「才能」という重いテーマに囚われすぎていたのかもしれない。あの頃のように、ただ隣にいて、他愛のない話をする。そんな時間が、今の僕たちに必要なのかもしれない。

「ありがとうございます。それ、いいかもしれません」
「でしょ? ……あ、でも、くれぐれも下心は見せないようにね!」

 彼女は、再び悪戯っぽく笑った。
 美咲先輩のアドバイスは、僕の中に新しい視点を与えてくれた。雪乃との共通の話題……。高校時代、僕たちはどんな話をしていた? 本の話、映画の話、そして、くだらない冗談。そうだ、彼女が好きだと言っていた、あのフランスの女性作家の本。サガンだったか。あるいは、二人でよく行った、駅前の古びたレコード屋。最近、新しいジャズのレコードでも入ってないだろうか。

 僕は、スマートフォンを取り出し、メッセージアプリを開いた。トーク履歴の中から、雪乃の名前を探し出す。最後に交わした言葉は、『はい』という、彼女の短い返事。その一言が、今の僕にとっては、か細いけれど確かな希望の光だ。

 深く、息を吸い込む。心臓が、ドクンと大きく脈打つ。何を、送る? 久しぶりに、連絡をする口実は? 考えれば考えるほど、指が止まる。けれど、ここで躊躇っていては、何も始まらない。橘さんの言葉を思い出す。『書こうとしなければ、何も始まらないだろう?』。書くのではない。伝えるのだ。僕の言葉で。

 僕は、打ち始めた。何度も消しては、また打ち直す。できるだけ、自然に。できるだけ、さりげなく。重くなりすぎないように。けれど、軽薄に響かないように。言葉の重さを、指先で何度も確かめるように。

『柊さん、久しぶり。佐伯です。元気にしてる?』

 それだけの短い文章を打ち込むのに、どれだけの時間がかかっただろうか。まるで、千尋の海の底から、一つの言葉を拾い上げてくるような、途方もない作業のように感じられた。これで、いいのだろうか。あまりに素っ気ないだろうか。それとも、馴れ馴れしすぎただろうか。送信ボタンを押す指が、最後の最後でまた躊躇う。

 美咲先輩の「何もしないで終わるよりは」という言葉が、再び背中を押す。僕は、目を閉じた。そして、短く息を吐き出すと同時に、親指に力を込めた。
 カチリ、という、錯覚かもしれない微かな感触と共に、メッセージは白い吹き出しとなり、画面の上方へと滑るように送られていった。その下に、『送信済み』というシステム的な文字が表示される。