テーブルの上には、まだ湯気の立つ紅茶のカップが置かれている。その白い指先が、カップの縁を所在なげに撫でている。間近で見ると、長い睫毛が際立ち、以前はなかった精緻なメイクが施されていることにも気づく。ほんのり色づいた唇が、何か言いたげに小さく動いた。

「いや……別に。俺の方こそ、この間は……悪かった」

 思わず口から出た謝罪の言葉。書店での自分の態度が、ずっと胸につかえていたのだ。 雪乃は、僕の言葉に少し驚いたように目を見開いたが、すぐに伏せた。

「……ううん。気にしないでください」

 その声は、感情を押し殺したように平坦だった。気にしていないはずがないのに。

「それで、相談って?」

 僕は、気まずい空気を振り払うように、メニューを開くふりをして尋ねた。ウェイターを呼び、いつも頼んでいたブレンドコーヒーを注文する。この店では、それが僕たちの定番だった。

「……あの」

 彼女はテーブルの上で指を組むと、少し俯いた。長い睫毛が白い頬に影を落とす。

「進路のことなんですけど……」

「ああ……」

 やはり、それか、と僕は少しだけ安堵した。あの、触れられたくない過去の話ではなかったことに。

「大学に、行くべきか……それとも、このまま、書くことに専念するべきか……ずっと、迷ってて」

 彼女ほどの才能があれば、大学に行く意味などないのではないか。僕などはそう考えてしまうが、彼女にとっては切実な悩みなのかもしれない。

「編集の、小野寺さんとは話したのか?」
「はい。小野寺さんは、どちらでも応援するって言ってくれてるんですけど……」雪乃は力なく笑う。「でも、決めるのは私自身だから」

 その笑顔は、ガラス細工のように脆く、痛々しかった。

「最近、ちょっと……書けなくなってきてる、というか……プレッシャー、なのかな。SNSとか見ると……」彼女の声が、わずかに震える。「すごい期待されてるのが分かるから……嬉しいんですけど、でも、その分、もし次がダメだったらって思うと……夜とか、急に怖くなったりして。パソコンの前で、ただ時間だけが過ぎていくんです。一行も書けないまま……」

 デビュー作のヒットがもたらした重圧。ネットの声に心を揺さぶられる繊細さ。そして、スランプの兆候。僕が想像していたよりもずっと、彼女は一人で重いものを背負い、戦っていたのだ。華やかな成功の裏側にある、深い孤独と不安。

「書くことは、好きです。多分、これがないと、私は……私でいられないと思う」彼女は必死に言葉を紡ぐ。「でも……怖いんです。いつか、書けなくなるんじゃないかって。周りの期待に、潰されちゃうんじゃないかって……」

 瞳に、薄い水の膜が張っているのが見えた。僕は言葉を失った。僕などが、彼女のこの苦悩に対して、どんな言葉をかけられるというのだろう。夢を諦めた僕に、その資格があるのだろうか。

「……どうして、僕に相談しようと思ったんだ?」

 僕は思わず、そう尋ねていた。編集者でもなく、家族でもなく、なぜ、僕なんだ?
 雪乃は、驚いたように顔を上げた。そして、僕の目をじっと見つめた。その黒曜石のような瞳の奥に、何か強い感情が揺らめいたように見えたが、それはすぐに消え、ふっと視線を逸らされた。