「また、連絡しても、いいかな」
結局、出てきたのは、そんな逃げの言葉だった。核心から目を逸らした、卑怯な問いかけ。
雪乃は、しばらく黙っていた。その沈黙が、永遠のように感じられた。窓の外の空が、さらに深く、藍色に染まっていく。やがて、彼女はゆっくりと、本当にゆっくりと頷いた。 「はい」
それだけを言うと、彼女は僕に背を向け、他のメンバーを追いかけるように、足早に部屋を出ていった。
僕は、その場に立ち尽くし、遠ざかっていく彼女の背中を、ただ見送ることしかできなかった。夕陽が完全に沈み、視聴覚室は蛍光灯の白い光だけが支配する、無機質な空間に戻っていた。冷たい風が、開いたままのドアから吹き込んでくる。ひどく寒い、と感じた。九月の終わりだというのに、体の芯から凍えるような寒気が、僕を襲う。
また、言えなかった。結局、核心に触れる言葉は何一つ口にできなかった。ポケットの中で握りしめていた、伝えたいことの走り書きメモが、汗で湿っている。こんなものを用意したところで、意味などなかったのだ。言葉は、僕自身の声で、僕自身の呼吸で、紡ぎ出さなければ届かない。それを、痛いほど分かっているのに、できない。
それでも、と僕は思う。今日は、ほんの少しだけ、何かが違ったような気もした。彼女が、僕の過去の作品を「好きだった」
と言ってくれたこと。そして、「また連絡してもいいかな」
という僕の、あまりにも弱々しい問いかけに、最後に頷いてくれたこと。それは、絶望的な暗闇の中に差し込んだ、ほんのわずかな、しかし確かな光のように思えた。完全に拒絶されたわけではない。まだ、繋がる可能性は、ゼロではないのだ。
諦めるな。まだ、終わったわけじゃない。 美咲先輩の、橘さんの、そして高橋先生の顔が浮かぶ。彼らは、僕に「向き合え」と、「言葉を探せ」と、そして「伝えろ」と言ってくれた。僕はまだ、何も伝えられていない。でも、諦めたわけじゃない。
僕は、床に落ちていた消しゴムのカスを拾い上げ、ゴミ箱に捨てると、重い足取りで、けれど先ほどよりは少しだけ確かな意志を持って、部屋を出た。ひんやりとした、人気のない廊下。非常灯の緑色の光だけが、頼りなく床を照らしている。自分の足音だけが、やけに大きく響いた。
高校からの帰り道、僕は夕闇に包まれた八王子の街を歩いていた。足取りは、やはり重い。けれど、先ほどまでの、出口のない暗闇の中を手探りで歩くような感覚は、少しだけ薄れていた。代わりに、胸の内には、複雑な感情が渦巻いていた。何も伝えられなかった自分への不甲斐なさ。雪乃への、どうしようもない想い。そして、ほんのわずかな、未来への期待。
次は、どうすればいい
ただ「話したい」
と言うだけでは駄目だ。それは、今日の失敗で骨身に沁みた。もっと具体的に、僕が何を伝えたいのか。そして、彼女の苦しみに、どうすれば寄り添うことができるのか。それを考えなければならない。書くことから離れた僕に、何ができるのか。
アパートに戻り、僕はコートも脱がずに、ぼんやりと部屋の隅に積まれた本の山を眺めた。高校時代に読み漁った小説たち。そして、大学に入ってから、橘書店で少しずつ買い集めた、様々なジャンルの本。哲学、心理学、批評、詩集……。言葉は、小説という形だけではない。橘さんはそう言っていた。僕は、これらの言葉の海の中から、何かを見つけ出すことができるだろうか。彼女に届けるための、僕自身の言葉を。
結局、出てきたのは、そんな逃げの言葉だった。核心から目を逸らした、卑怯な問いかけ。
雪乃は、しばらく黙っていた。その沈黙が、永遠のように感じられた。窓の外の空が、さらに深く、藍色に染まっていく。やがて、彼女はゆっくりと、本当にゆっくりと頷いた。 「はい」
それだけを言うと、彼女は僕に背を向け、他のメンバーを追いかけるように、足早に部屋を出ていった。
僕は、その場に立ち尽くし、遠ざかっていく彼女の背中を、ただ見送ることしかできなかった。夕陽が完全に沈み、視聴覚室は蛍光灯の白い光だけが支配する、無機質な空間に戻っていた。冷たい風が、開いたままのドアから吹き込んでくる。ひどく寒い、と感じた。九月の終わりだというのに、体の芯から凍えるような寒気が、僕を襲う。
また、言えなかった。結局、核心に触れる言葉は何一つ口にできなかった。ポケットの中で握りしめていた、伝えたいことの走り書きメモが、汗で湿っている。こんなものを用意したところで、意味などなかったのだ。言葉は、僕自身の声で、僕自身の呼吸で、紡ぎ出さなければ届かない。それを、痛いほど分かっているのに、できない。
それでも、と僕は思う。今日は、ほんの少しだけ、何かが違ったような気もした。彼女が、僕の過去の作品を「好きだった」
と言ってくれたこと。そして、「また連絡してもいいかな」
という僕の、あまりにも弱々しい問いかけに、最後に頷いてくれたこと。それは、絶望的な暗闇の中に差し込んだ、ほんのわずかな、しかし確かな光のように思えた。完全に拒絶されたわけではない。まだ、繋がる可能性は、ゼロではないのだ。
諦めるな。まだ、終わったわけじゃない。 美咲先輩の、橘さんの、そして高橋先生の顔が浮かぶ。彼らは、僕に「向き合え」と、「言葉を探せ」と、そして「伝えろ」と言ってくれた。僕はまだ、何も伝えられていない。でも、諦めたわけじゃない。
僕は、床に落ちていた消しゴムのカスを拾い上げ、ゴミ箱に捨てると、重い足取りで、けれど先ほどよりは少しだけ確かな意志を持って、部屋を出た。ひんやりとした、人気のない廊下。非常灯の緑色の光だけが、頼りなく床を照らしている。自分の足音だけが、やけに大きく響いた。
高校からの帰り道、僕は夕闇に包まれた八王子の街を歩いていた。足取りは、やはり重い。けれど、先ほどまでの、出口のない暗闇の中を手探りで歩くような感覚は、少しだけ薄れていた。代わりに、胸の内には、複雑な感情が渦巻いていた。何も伝えられなかった自分への不甲斐なさ。雪乃への、どうしようもない想い。そして、ほんのわずかな、未来への期待。
次は、どうすればいい
ただ「話したい」
と言うだけでは駄目だ。それは、今日の失敗で骨身に沁みた。もっと具体的に、僕が何を伝えたいのか。そして、彼女の苦しみに、どうすれば寄り添うことができるのか。それを考えなければならない。書くことから離れた僕に、何ができるのか。
アパートに戻り、僕はコートも脱がずに、ぼんやりと部屋の隅に積まれた本の山を眺めた。高校時代に読み漁った小説たち。そして、大学に入ってから、橘書店で少しずつ買い集めた、様々なジャンルの本。哲学、心理学、批評、詩集……。言葉は、小説という形だけではない。橘さんはそう言っていた。僕は、これらの言葉の海の中から、何かを見つけ出すことができるだろうか。彼女に届けるための、僕自身の言葉を。
