あの日、柊雪乃から逃げるように背を向けた廊下の感触を、僕は今でも時折思い出す。自分の足音がやけに軽く、頼りなく響いたこと。背中に感じた、彼女の呆然としたような気配。そして、僕自身の心臓を鷲掴みにするような、絶対的な絶望感。
あれが、僕の高校生活における、決定的な転換点だった。
あの日を境に、僕は文芸部室に足を運ぶことをやめた。いや、正確には、行けなくなったのだ。あの部屋には、彼女の残り香と、そして僕自身の砕け散ったプライドの残骸が、まるで亡霊のように漂っている気がしたからだ。机の引き出しの奥にしまい込んだ、書きかけの小説のノートを開くこともなくなった。言葉が、僕の中から完全に色褪せてしまったかのようだった。かつてあれほど心を揺さぶられたはずの小説を読むことすら、苦痛になっていた。ページをめくるたびに、あの原稿用紙の黒い文字が蘇り、僕自身の言葉の無力さを突きつけてくるのだ。
僕が「書くこと」から逃避するように選んだのは、受験勉強という、最も無味乾燥で、けれど確実な結果が求められる世界だった。感情を殺し、ただひたすらに、無機質な知識を頭の中に詰め込んでいく。数学の公式、英単語、歴史の年号。それらは、意味や情緒を必要としない。覚えれば覚えるほど、点数という分かりやすい形で成果が表れる。その確実さが、あの得体の知れない才能の輝きに打ちのめされた僕にとって、唯一の救いのように思えた。
机に向かい、参考書を開き、問題を解く。その繰り返し。まるで、自分に罰を与えるかのように、あるいは、他の何かを考える余裕を自分から奪うかのように、僕は勉強に没頭した。食事の時間も、睡眠時間も削った。周囲からは、急に勉強に目覚めた、と奇異の目で見られたかもしれない。けれど、僕にとっては、そうするしか自分を保つ方法がなかったのだ。思考を停止させ、感情に蓋をし、ただ機械のように動き続けることで、あの衝撃から、どうにか目を逸らそうとしていた。
雪乃とは、学校内で顔を合わせることもあった。けれど、僕は意識的に彼女を避けた。目が合いそうになれば俯き、同じ空間にいれば息を潜めた。彼女の方から話しかけてくることも、もうなかった。僕が、あの日、彼女との間に引いた境界線は、あまりにも深く、そして冷たいものだったのだ。
やがて、彼女が大きな新人賞を受賞した、という噂が校内を駆け巡った。クラスメイトたちが興奮したようにその話題で持ちきりになっているのを、僕はただ、遠い世界の出来事のように聞いていた。祝福する気持ちも、嫉妬する気持ちも、もう湧いてこなかった。僕の心は、完全に麻痺してしまっていたのかもしれない。彼女は、僕が恐れていた通り、手の届かない場所へと駆け上がっていく。それを、ただ、ガラス越しに眺めているような、そんな感覚だった。
友人たちとの関係も、次第に希薄になっていった。受験勉強を言い訳に、放課後の誘いを断り、教室での会話にも加わらなくなった。誰も、僕の内心の変化には気づかなかっただろう。ただ、付き合いの悪い、少し根暗な受験生。その程度の認識だったはずだ。それで、良かった。誰にも、僕のこの空虚さを知られたくはなかった。
季節は、容赦なく移り変わった。秋が深まり、冬が来て、そして、あっけなく卒業式の日が訪れた。まるで、早送りの映画を見ているかのように、実感のないまま、僕は高校生活を終えた。
大学は、正直どこでも良かったのかもしれない。ただ、この慣れ親しんだ、そして息苦しい思い出の詰まった街から離れたくはない、という消極的な理由だけで、八王子にある、この大学を選んだ。親元から通える、というのも都合が良かった。新しい環境に飛び込むだけの気力も、意欲も、当時の僕にはなかったのだ。
そうして、僕は大学生になった。
期待していた自由は、けれど、僕に何か新しいものをもたらしてくれるわけではなかった。むしろ、それは持て余すほどの空白となって、僕の日常をさらに漂白していった。講義に出て、ノートを取り、時々、中村のような新しい友人と当たり障りのない話をする。バイト先で、美咲先輩のような明るい人に気を遣わせる。そして、時間があれば、橘書店のような静かな場所に逃げ込み、言葉の海に浸るふりをする。
何も変わらない。
高校時代のあの衝撃から、僕の時間は止まったままなのだ。
過去という名の重力に縛られ、ただ、地表すれすれを漂うように。
エンドロールが流れ始めた映画館に、一人だけ取り残された観客のように。
僕の空白はエンドロールのままで――変わらない
季節は巡り、再び秋が訪れた。キャンパスの銀杏並木が、燃えるような黄金色に染まっている。風が吹くたび、はらはらと舞い落ちる葉は、地面に降り積もり、やがて踏みしだかれて色褪せていく。
まるで、僕自身のようだ、と。
そう思った。
あれが、僕の高校生活における、決定的な転換点だった。
あの日を境に、僕は文芸部室に足を運ぶことをやめた。いや、正確には、行けなくなったのだ。あの部屋には、彼女の残り香と、そして僕自身の砕け散ったプライドの残骸が、まるで亡霊のように漂っている気がしたからだ。机の引き出しの奥にしまい込んだ、書きかけの小説のノートを開くこともなくなった。言葉が、僕の中から完全に色褪せてしまったかのようだった。かつてあれほど心を揺さぶられたはずの小説を読むことすら、苦痛になっていた。ページをめくるたびに、あの原稿用紙の黒い文字が蘇り、僕自身の言葉の無力さを突きつけてくるのだ。
僕が「書くこと」から逃避するように選んだのは、受験勉強という、最も無味乾燥で、けれど確実な結果が求められる世界だった。感情を殺し、ただひたすらに、無機質な知識を頭の中に詰め込んでいく。数学の公式、英単語、歴史の年号。それらは、意味や情緒を必要としない。覚えれば覚えるほど、点数という分かりやすい形で成果が表れる。その確実さが、あの得体の知れない才能の輝きに打ちのめされた僕にとって、唯一の救いのように思えた。
机に向かい、参考書を開き、問題を解く。その繰り返し。まるで、自分に罰を与えるかのように、あるいは、他の何かを考える余裕を自分から奪うかのように、僕は勉強に没頭した。食事の時間も、睡眠時間も削った。周囲からは、急に勉強に目覚めた、と奇異の目で見られたかもしれない。けれど、僕にとっては、そうするしか自分を保つ方法がなかったのだ。思考を停止させ、感情に蓋をし、ただ機械のように動き続けることで、あの衝撃から、どうにか目を逸らそうとしていた。
雪乃とは、学校内で顔を合わせることもあった。けれど、僕は意識的に彼女を避けた。目が合いそうになれば俯き、同じ空間にいれば息を潜めた。彼女の方から話しかけてくることも、もうなかった。僕が、あの日、彼女との間に引いた境界線は、あまりにも深く、そして冷たいものだったのだ。
やがて、彼女が大きな新人賞を受賞した、という噂が校内を駆け巡った。クラスメイトたちが興奮したようにその話題で持ちきりになっているのを、僕はただ、遠い世界の出来事のように聞いていた。祝福する気持ちも、嫉妬する気持ちも、もう湧いてこなかった。僕の心は、完全に麻痺してしまっていたのかもしれない。彼女は、僕が恐れていた通り、手の届かない場所へと駆け上がっていく。それを、ただ、ガラス越しに眺めているような、そんな感覚だった。
友人たちとの関係も、次第に希薄になっていった。受験勉強を言い訳に、放課後の誘いを断り、教室での会話にも加わらなくなった。誰も、僕の内心の変化には気づかなかっただろう。ただ、付き合いの悪い、少し根暗な受験生。その程度の認識だったはずだ。それで、良かった。誰にも、僕のこの空虚さを知られたくはなかった。
季節は、容赦なく移り変わった。秋が深まり、冬が来て、そして、あっけなく卒業式の日が訪れた。まるで、早送りの映画を見ているかのように、実感のないまま、僕は高校生活を終えた。
大学は、正直どこでも良かったのかもしれない。ただ、この慣れ親しんだ、そして息苦しい思い出の詰まった街から離れたくはない、という消極的な理由だけで、八王子にある、この大学を選んだ。親元から通える、というのも都合が良かった。新しい環境に飛び込むだけの気力も、意欲も、当時の僕にはなかったのだ。
そうして、僕は大学生になった。
期待していた自由は、けれど、僕に何か新しいものをもたらしてくれるわけではなかった。むしろ、それは持て余すほどの空白となって、僕の日常をさらに漂白していった。講義に出て、ノートを取り、時々、中村のような新しい友人と当たり障りのない話をする。バイト先で、美咲先輩のような明るい人に気を遣わせる。そして、時間があれば、橘書店のような静かな場所に逃げ込み、言葉の海に浸るふりをする。
何も変わらない。
高校時代のあの衝撃から、僕の時間は止まったままなのだ。
過去という名の重力に縛られ、ただ、地表すれすれを漂うように。
エンドロールが流れ始めた映画館に、一人だけ取り残された観客のように。
僕の空白はエンドロールのままで――変わらない
季節は巡り、再び秋が訪れた。キャンパスの銀杏並木が、燃えるような黄金色に染まっている。風が吹くたび、はらはらと舞い落ちる葉は、地面に降り積もり、やがて踏みしだかれて色褪せていく。
まるで、僕自身のようだ、と。
そう思った。
