「先輩」

 彼女の声が、やけにクリアに鼓膜を打つ。

「昨日は、すみませんでした。急に飛び出しちゃって。…あと、原稿、片付けておいてくれたんですね。ありがとうございます」

 彼女は、ぺこりと頭を下げた。その仕草は、いつも通りに見えた。まるで、昨日のあの奇妙な問いかけも、職員室での出来事も、そして、あの原稿用紙に込められた恐ろしい力も、全てが幻だったかのように。

 僕は、何も答えられなかった。
 声が出ない。
 喉が、鉛で塞がれたかのようだ。

 彼女は、そんな僕の様子を、不思議そうに見つめている。そして、期待と、ほんの少しの不安が入り混じったような表情で、あの質問を口にした。

「あの、先輩。もし…もし、読んでくれたなら…」

 彼女の視線が、僕の顔を捉える。その黒い瞳の奥に、強い光が灯る。

「どう、でしたか?」

 どう、でしたか。

 その言葉が、引き金になった。
 僕の中で、何かが決定的に壊れる音がした。
 昨日、あの原稿を読み終えた時に感じた、絶対的な絶望。
 言葉の持つ、残酷なまでの暴力性。
 そして、僕自身の、どうしようもないほどの矮小さ。

 それら全てが、濁流となって僕を飲み込んでいく。

 凄い、なんて言葉では足りない。
 面白い、なんて次元ではない。
 あれは、毒だ。
 魂を蝕む、甘美な毒。
 一度味わってしまえば、もう他のものは何も感じられなくなる。

 僕は、彼女の顔を見ることができなかった。
 ただ、俯き、唇を噛み締める。

 何かを言わなければ。
 けれど、どんな言葉も、嘘になる。
 どんな言葉も、あの作品の前では、色褪せてしまう。

 そして、気づいたのだ。
 僕は、もう、彼女と同じ場所に立つことはできない。
 彼女と、言葉を交わすことすら、できないのかもしれない。

 この輝きから、逃げなければならない。
 この才能から、遠く離れなければならない。
 僕が、僕自身のままでいるためには。
 僕が、完全に壊れてしまわないためには。

「……」

 長い、沈黙。
 廊下の喧騒だけが、僕たちの間を通り過ぎていく。
 彼女の、戸惑いと、失望と、そして深い傷の色を浮かべた表情が、視界の端に映る。

 ごめん。
 心の中で、そう呟いた。
 けれど、その言葉もまた、虚しく響くだけだった。

 僕は、彼女に背を向けた。
 そして、逃げるように、その場を立ち去った。
 彼女の、呆然としたような気配を背中に感じながら。
 自分の足音が、やけに軽く、そして頼りなく聞こえた。

 これが、僕の選択だった。
 これが、僕の決意だった。

 筆を折る、とか、そういう格好の良いものではない。
 ただ、逃げたのだ。
 圧倒的な光から。
 そして、自分自身の、惨めな現実から。

 あの日から、僕の世界の色は、変わってしまった。
 そして、僕の人生のエンドロールは、空白のまま、静かに流れ始めたのだ。