窓の外は、いつの間にか完全な闇に覆われていた。校舎は静まり返り、遠くで聞こえていた運動部の声も、吹奏楽部の音色も、もう聞こえない。世界から、音が奪われたかのようだ。

 ひどく、寒い。
 九月の終わりだというのに、体の芯から凍えるような寒気が、僕を襲う。
 自分の吐く息が、白く見えるような錯覚。

 不意に、腹の底から、何かが込み上げてくる感覚があった。
 吐き気だ。
 僕は、口元を押さえ、椅子から転がり落ちるように床に膝をついた。
 けれど、何も出てこない。
 胃の中は、とっくに空っぽだった。
 ただ、苦いものが、喉の奥を焼くだけだ。

 床に散らばった、彼女の原稿用紙が目に入る。
 あの、黒い文字の群れ。
 僕の世界を破壊した、呪文の欠片。
 触れることすら、今は恐ろしい。

 ――帰らなければ

 どこからか、そんな声が聞こえた気がした。
 僕自身の声なのか、それとも、別の誰かの声なのか。
 分からない。
 けれど、この場所に、これ以上いてはいけない。
 そんな、本能的な警鐘が鳴り響いていた。

 壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がる。
 足が、鉛のように重い。
 自分の体ではないみたいだ。
 借り物の、出来の悪い操り人形。

 机の上の原稿用紙を、無意識のうちに揃え、元の場所に戻す。
 指先が、微かに震えている。
 その紙に宿る、恐ろしい力に触れてしまった後遺症か。

 鞄を掴む。
 中には、僕が書きかけだった小説のノートが入っているはずだ。
 けれど、今はもう、その存在すら、遠い過去の遺物のように感じられる。

 電気を消す。
 真っ暗になった部室に、僕は一礼した。
 誰に対しての礼なのか、自分でも分からない。
 ただ、そうしなければならないような気がしたのだ。
 この場所との、永遠の別れを告げる儀式のように。

 重い引き戸を開け、廊下に出る。
 ひんやりとした、人気のない廊下。
 非常灯の緑色の光だけが、頼りなく床を照らしている。
 僕の足音だけが、やけに大きく響いた。

 階段を下り、昇降口へ向かう。
 もう、鍵は閉められているかもしれない。
 もしそうなら、警備員室へ行かなければ。
 そんな、現実的な思考が、ほんの少しだけ、僕の意識の表面に浮かび上がる。
 けれど、それもすぐに、深い霧の中に掻き消されていく。

 昇降口のドアは、まだ開いていた。
 外に出ると、夜の冷たい空気が、容赦なく肌を刺した。
 見慣れたはずの帰り道が、まるで知らない場所のように見える。
 街灯の光が、滲んで歪む。
 家々の窓明かりが、遠い星のように瞬く。
 僕だけが、この世界の風景から、完全に浮遊してしまっている。

 どうやって家にたどり着いたのか、よく覚えていない。
 ただ、気がつくと、僕は自分の部屋のベッドの上に横たわっていた。
 制服のまま。電気もつけずに。
 天井の模様が、暗闇の中で、ゆっくりと形を変えていくように見えた。

 眠れなかった。
 眠るということが、どういうことなのか、忘れてしまったかのようだった。
 ただ、時間が過ぎていくのを、感じていた。
 一秒が、一分のように長く。
 一時間が、永遠のように長く。

 そして、朝が来た。
 灰色で、重く、希望の欠片もない朝が。

 学校へ行く足取りは、まるで葬列に加わるかのようだった。
 教室の喧騒も、友人の声も、教師の話も、全てが僕の耳を通り抜けていく。
 僕は、ただの抜け殻だった。
 魂を、昨日のあの部室に置き忘れてきてしまった、空っぽの器。

 昼休みだったか、放課後だったか、それすらも曖昧だ。
 ただ、廊下で、彼女と鉢合わせした。
 柊雪乃。
 昨日の、嵐のような退場が嘘のように、彼女はいつもの、少し挑戦的な光を宿した瞳で、僕の前に立っていた。