季節は、夏の燃え滓のような熱気と、秋の訪れを告げる乾いた風とが混じり合う、そんな九月の終わり。窓の外では、グラウンドから運動部の掛け声が遠く響き、吹奏楽部が奏でるどこか間の抜けた旋律が、風に乗って微かに聞こえてくる。けれど、この古びた特別棟の三階にある部室の中だけは、まるで世界から切り離されたかのように、静寂が支配していた。

 いや、完全な静寂ではなかった。僕の隣、いつもの指定席に座る彼女――柊 雪乃が、時折、原稿用紙をめくる乾いた音と、小さく息をつく気配だけが、その静寂を破っていた。今日の彼女は、どこか様子がおかしかった。いつもなら、僕が持ち込んだプロットの断片に容赦ない赤入れをするか、あるいは僕の言葉尻を捕らえて得意げに持論を展開するか、とにかく饒舌で、その存在感を隠そうともしないはずなのに。今日の彼女は、ほとんど口を開かなかった。時折、窓の外へ視線を投げ、何かを考え込んでいるような、上の空のような表情を見せるだけだった。

 僕自身も、その日はあまり調子が良くなかった。文化祭に向けて書き始めた中編小説が行き詰まり、数日前から一文字も進んでいない。頭の中には、言葉にならないイメージの断片だけが漂い、それを掴まえようとすればするほど、指の間からすり抜けていく。そんな焦燥感が、部室の重たい空気と相まって、僕の気分をさらに滅入らせていた。

「ねえ、先輩」

 不意に、彼女が小さな声で呟いた。僕が顔を上げると、彼女は窓の外を見つめたまま、続けた。

「もし……もし、自分が書いたものが、自分でもどうしようもないくらい、すごいものだったら……先輩なら、どうしますか?」

 それは、奇妙な問いかけだった。主語も曖昧で、どこか現実味がない。彼女らしくない、弱気な響きすら感じられた。

「どう、って……そりゃあ、嬉しいんじゃないのか? 自信作なんだろ?」

 僕がそう答えると、彼女はゆっくりとこちらを振り向いた。その黒曜石のような瞳は、いつもの自信に満ちた輝きを失い、深い湖の底のように、どこか揺らめいて見えた。

「嬉しい、のかな……。分からないんです。なんだか……怖い、気もして」

 怖い? 彼女が? あの、怖いもの知らずに見えた柊雪乃が?

「何だよ、それ。お前らしくないな」

 僕が少し茶化すように言うと、彼女はふっと力なく笑った。その笑顔は、ひどく儚げで、まるでガラス細工のように見えた。

「そう、ですよね。すみません、変なこと聞いて」

 彼女はそれだけ言うと、再び黙り込んでしまった。机の上に広げられた、数枚の原稿用紙の束。彼女は、その一番上に置かれたタイトルらしき文字を、指でそっと撫でている。その仕草が、やけに印象に残った。

 その直後だった。部室の古びた引き戸が、ガラリと勢いよく開いた。息を切らせた同じクラスの女子生徒が、顔を真っ赤にして立っていた。

「柊さん! 大変! 先生が呼んでる! 急いで職員室に来てって!」

 何事かと思ったが、彼女の慌てぶりから、ただ事ではないらしいことが窺えた。雪乃は、驚いたように目を見開いたが、すぐに「わ、分かった!」と立ち上がった。

「先輩、すみません、私、行きます!」

 彼女は、机の上の原稿用紙を慌ててまとめようとしたが、焦っているせいか、数枚がはらりと床に落ちる。それを拾い上げる時間も惜しいといった様子で、彼女は「後で片付けますから!」とだけ言い残し、鞄を掴むと、嵐のように部室を飛び出していった。

 バタン、と閉まった扉の音が、やけに大きく響く。再び訪れた静寂の中で、僕は一人、ぽつんと取り残された。床に散らばった原稿用紙と、机の上に無造作に残された、彼女の書きかけの物語の束。

……何だったんだ、一体。

 先ほどの、彼女の奇妙な問いかけと、今の慌ただしい退場。その繋がりが、よく分からない。けれど、まあ、いつもの彼女の突飛な行動の一つだろう、と僕は軽く考えていた。

 とりあえず、床に落ちた原稿用紙を拾い集める。四百字詰めの、どこにでもある原稿用紙。そこに並ぶ、彼女特有の、少し丸みを帯びた、けれど力強い筆跡の文字。拾い上げたついでに、視線が自然とその文字を追った。

 それは、おそらく物語の冒頭部分だった。タイトルは、見慣れないインクの色で、『虚ろな舟』と書かれていた。虚ろな舟? また、いつもの彼女らしい、思わせぶりなタイトルだ。そう思いながら、僕は軽い気持ちで、その一行目を読み始めたのだ。

 それが、全ての始まりだった。

 最初に感じたのは、違和感だった。いつもの柊雪乃の文章と、どこか違う。何が、と言われると明確には指摘できない。けれど、その手触り、密度、纏う空気感が、明らかに異質だったのだ。

 一行、また一行と読み進める。それは、海辺の小さな町を舞台にした物語らしかった。けれど、僕が知っているどんな海とも違う、奇妙な質感を持った海がそこには描かれていた。空の色、波の音、潮の匂い、人々の纏う空気。その全てが、生々しいほどのリアリティを持ちながら、同時に、どこかこの世のものではないような、不穏な気配を漂わせている。

 文章が、まるで生き物のようにうねり、呼吸しているかのようだ。言葉の一つ一つが、研ぎ澄まされ、磨き上げられ、寸分の隙もなく配置されている。比喩は、陳腐さとは無縁の、鋭利な輝きを放ち、読者の想像力を否応なく掻き立てる。五感を直接揺さぶるような描写力。僕は、自分が今、文芸部室の硬い椅子に座っていることすら忘れ、その物語世界の濃密な空気の中に、完全に引きずり込まれていた。

 ――なんだ、これは……

 思考が、言葉の形を失い始める。それはもう、僕が知っている「読書」という行為ではなかった。原稿用紙の上に並ぶ黒い染み――文字は、いつの間にかその静的な形を捨て、意思を持った生き物のように蠢き始めていた。インクの黒が、まるで深海の水のように、じわりじわりと白い紙面を侵食していく。文字たちは互いに繋がり、解け合い、見たこともない形へと変貌し、僕の視界の中で狂ったように踊り始める。

 それは、呪文だったのかもしれない。あるいは、異界への扉を開くための鍵。一行読むごとに、僕の足元がぐらりと揺らぐ。部室の床が、頼りない氷のように軋み、ひび割れていく感覚。床板の隙間から、彼女が描く、あの奇妙な質感の海の匂いが立ち上ってくる。塩辛く、生暖かく、そしてどこか腐臭にも似た、甘美で危険な香り。

 窓の外を見る。九月の終わりの、ありふれた放課後の風景。グラウンドの土埃、夕暮れに染まる校舎の壁、遠くに見える八王子の街並み。それらが、まるで蜃気楼のように揺らめき、歪み始める。空の色が、ゆっくりと緑がかった青へと変貌していく。雲は紫色の筆で乱暴に塗りたくられたかのようだ。グラウンドから聞こえていたはずの掛け声は、いつの間にか、遠い潮騒のような単調な響きへと変わっている。ここは、どこだ?

 原稿用紙を持つ指先が、燃えるように熱い。いや、冷たいのかもしれない。感覚が麻痺していく。紙のざらついた感触だけが、かろうじて僕をこの現実の断片に繋ぎとめている。けれど、それも時間の問題だった。彼女の言葉が、僕の脳髄に直接流れ込んでくる。それは、意味や論理を超えた、もっと根源的な何か。イメージの奔流。色彩の洪水。音の濁流。感情の渦。

 知らないはずの風景が、目の前に広がる。寂れた港町。傾いた家々。錆びついた漁船。空には、常に低い雲が垂れ込め、海は鉛色に淀んでいる。そこに生きる人々は、皆、どこか虚ろな目をしている。彼らの囁き声が、耳元で聞こえる。それは、日本語ではない、けれど意味だけは理解できる、奇妙な言語だった。彼らは、海の底に沈んだ、失われた神について語り合っている。あるいは、自らの内に潜む、暗い獣について。

 文章のリズムが、僕の心臓の鼓動を乗っ取り始める。速く、遅く、不規則に。彼女の紡ぐ一文一文が、僕の呼吸を支配する。息を吸うタイミングも、吐き出す長さも、もう僕自身の意思では決められない。彼女の言葉の波に、ただ翻弄されるしかない。

 壁に掛けられた時計が、ぐにゃりと歪む。長針と短針が、溶けた飴のように絡み合い、意味のない模様を描き出す。時間が、その直線的な進行を放棄した。一瞬が永遠に引き伸ばされ、あるいは、数時間が一瞬で過ぎ去っていく。僕は、この原稿を読み始めてから、どれくらいの時間が経ったのか、もう分からなかった。

 全身の毛が逆立つ。皮膚の下を、名状しがたい何かが這い回るような感覚。これは、畏怖だ。人間が、神や悪魔といった、人知を超えた存在に対峙した時に感じる、根源的な恐怖。そうだ、これは、人間の書いたものではない。少なくとも、僕が知っている「人間」の範疇を超えている。柊雪乃という少女の形をした、何か別のもの。あるいは、彼女自身が、この世界とは異なる法則で動く、異質な存在なのかもしれない。

 嫉妬? 羨望? 悔しさ?
 そんな矮小な感情は、とうの昔に消え失せていた。僕が立っているのは、同じ地平ではない。見上げることすら許されないような、遥か高み。あるいは、足を踏み入れたら二度と戻れないような、深く暗い奈落の底。彼女は、そんな場所に、たった一人で立っているのだ。

 僕がこれまで「文学」だと信じてきたものは、何だったのだろう。言葉を磨き、構成を練り、物語を紡ぐという営みは。この、原稿用紙の上に展開される、圧倒的な現実の前では、色褪せた遊びのようにしか見えない。

 僕の価値観が、音を立てて崩れていく。世界が、その骨組みを軋ませながら、変容していく。もう、元には戻れない。この文章を読む前の自分には、決して。

 最後のページ。最後の一行。
 その言葉が、僕の意識に突き刺さった瞬間――。

 世界から、音が消えた。

 色彩が、消えた。

 匂いが、消えた。

 ただ、白と黒だけが存在する、無音の空間。

 僕の目の前には、読み終えた原稿用紙の束がある。
 白い紙。黒い文字。
 それだけだ。
 それだけのはずなのに。

 指が、動かない。
 息が、できない。
 思考が、止まっている。

 僕は、椅子に座っている。
 文芸部室の中にいる。
 窓の外は、暗い。
 もう、夜だ。

 蛍光灯の白い光が、冷たく僕を照らしている。
 壁の時計は、動いている。
 時間は、流れている。
 けれど、僕の中の時間は、止まったままだ。

 あの文字の奔流に飲み込まれ、別の場所へ連れ去られ、そして、ここに置き去りにされた。抜け殻だけが、ここにある。

「書く」とは、何だったか。
「言葉」とは、何だったか。
「物語」とは、何だったか。

 分からない。
 もう、何も分からない。

 ただ、確かなことが一つだけある。

 僕は、もう、書けない。
 書くことは、できない。
 書くべき言葉を、持たない。

 この、圧倒的な「本物」を前にして、僕が紡ぎ出す言葉など、全てが偽物で、模倣で、空虚な響きを持つだけだ。

 筆を折る?
 違う。
 そんな、能動的な行為ではない。

 筆は、もう、僕の手の中にないのだ。
 あの奔流に、流し去られてしまった。
 あるいは、その輝きの前で、塵となって消滅してしまった。

 僕には、もう、何もない。

 空っぽだ。
 虚ろな舟、か。
 そうか。
 そういうことか。

 僕が、虚ろな舟なのだ。

 *
 白と、黒。

 それだけが、僕の世界の全てだった。
 どれくらいの時間、そうしていたのだろう。
 一時間か。二時間か。あるいは、もっと。
 時間の感覚は、とうに失われていた。