隣にいるはずの雪乃の気配を、意識しないように努める。彼女は、どんな気持ちで聞いているのだろう。
いや、彼女は隣にはいない。少し離れた佐藤の隣に座っているのだ。その物理的な距離が、今の僕たちの心の距離を象徴しているかのようだ。
先生は、さらにページをめくる。
「そして……これは、柊さんのか。『海の底の呼ぶ声』。これは、確か校内コンクールで賞を取ったんじゃなかったかな。一年生でこれは、本当に驚かされたよ。言葉の選び方、構成力、そして何より、この独創的な世界観。当時から、君には非凡なものを感じていた」
先生の、何のてらいもない称賛の言葉。それは、僕が雪乃に対してずっと抱き、そして伝えられずにいた想いそのものだった。僕が言えなかった言葉を、先生が代わりに口にしている。その事実に、僕は胸の奥が締め付けられるような痛みを感じた。なぜ、僕はあの時、この言葉を彼女に伝えられなかったのだろう。
「やめてください、先生。恥ずかしいです……」
雪乃が、小さな声で抗議するように言った。その顔は俯いたままで、表情は窺えない。けれど、白い首筋がほんのりと赤く染まっているのが見えた。それは、単なる照れだけではない、もっと複雑な感情の色のように僕には思えた。
「いやいや、恥ずかしがることはない。素晴らしいものは素晴らしいんだから」
先生は、悪戯っぽく笑って、さらにページを読み進める。
「ふむ……この、ラストシーンの描写は、今読んでも鳥肌が立つな……」
「どれどれ?」鈴木が、先生の手元を覗き込む。「うわ、マジだ! 柊さん、こんなん書いてたっけ? すげーな、やっぱ!」
「てか、佐伯、お前のポエムの方がよっぽど恥ずかしいぞ、これ」
伊藤が、別のページを指差して笑う。
「『孤独という名の外套を纏い、僕は夜の街を彷徨う』……ぷっ、何だよこれ!」
「う、うるさいな! ほっとけ!」
僕は、顔を赤くしながら怒鳴る。他のメンバーも、それにつられて笑い出した。
一瞬、場が和んだように見えた。けれど、僕の心は少しも晴れなかった。笑い声が、空虚に響く。過去の自分の拙さと、雪乃の圧倒的な才能との差が、この古びた文集によって、残酷なまでに可視化されている。
先生が言った『海の底の呼ぶ声』。あれは確かに素晴らしい作品だった。けれど、僕を本当に打ちのめしたのは、あれではない。もっと別の、世に出ることのなかったはずの、あの原稿用紙の束なのだ。
あの、僕の人生を変えてしまった、恐ろしいほどの輝きを放つ言葉たち。そうだ、あれは、ちょうど今と同じような、夏の終わりの蒸し暑い日のことだった――。
いや、彼女は隣にはいない。少し離れた佐藤の隣に座っているのだ。その物理的な距離が、今の僕たちの心の距離を象徴しているかのようだ。
先生は、さらにページをめくる。
「そして……これは、柊さんのか。『海の底の呼ぶ声』。これは、確か校内コンクールで賞を取ったんじゃなかったかな。一年生でこれは、本当に驚かされたよ。言葉の選び方、構成力、そして何より、この独創的な世界観。当時から、君には非凡なものを感じていた」
先生の、何のてらいもない称賛の言葉。それは、僕が雪乃に対してずっと抱き、そして伝えられずにいた想いそのものだった。僕が言えなかった言葉を、先生が代わりに口にしている。その事実に、僕は胸の奥が締め付けられるような痛みを感じた。なぜ、僕はあの時、この言葉を彼女に伝えられなかったのだろう。
「やめてください、先生。恥ずかしいです……」
雪乃が、小さな声で抗議するように言った。その顔は俯いたままで、表情は窺えない。けれど、白い首筋がほんのりと赤く染まっているのが見えた。それは、単なる照れだけではない、もっと複雑な感情の色のように僕には思えた。
「いやいや、恥ずかしがることはない。素晴らしいものは素晴らしいんだから」
先生は、悪戯っぽく笑って、さらにページを読み進める。
「ふむ……この、ラストシーンの描写は、今読んでも鳥肌が立つな……」
「どれどれ?」鈴木が、先生の手元を覗き込む。「うわ、マジだ! 柊さん、こんなん書いてたっけ? すげーな、やっぱ!」
「てか、佐伯、お前のポエムの方がよっぽど恥ずかしいぞ、これ」
伊藤が、別のページを指差して笑う。
「『孤独という名の外套を纏い、僕は夜の街を彷徨う』……ぷっ、何だよこれ!」
「う、うるさいな! ほっとけ!」
僕は、顔を赤くしながら怒鳴る。他のメンバーも、それにつられて笑い出した。
一瞬、場が和んだように見えた。けれど、僕の心は少しも晴れなかった。笑い声が、空虚に響く。過去の自分の拙さと、雪乃の圧倒的な才能との差が、この古びた文集によって、残酷なまでに可視化されている。
先生が言った『海の底の呼ぶ声』。あれは確かに素晴らしい作品だった。けれど、僕を本当に打ちのめしたのは、あれではない。もっと別の、世に出ることのなかったはずの、あの原稿用紙の束なのだ。
あの、僕の人生を変えてしまった、恐ろしいほどの輝きを放つ言葉たち。そうだ、あれは、ちょうど今と同じような、夏の終わりの蒸し暑い日のことだった――。
