相談……?

 思考が、一瞬停止する。書店での出来事の後で、彼女が僕に相談? 一体、何を? あの時言いかけた本の感想のことか? それとも、全く別の用件なのか? 様々な可能性が頭の中を駆け巡る。断るべきか? いや、でも……。 迷いは一瞬だった。断る、という選択肢は、なぜか僕の中には浮かばなかった。無視し続けることも、もうできない気がした。あの再会と、彼女のあの時の表情が、僕の中に眠っていた何かを、確実に揺り動かしてしまっていたのだから。そして、心のどこかで、もう一度彼女と話したい、と願っている自分もいたのだ。

『今、大学。この後、少しなら時間あるけど』

 努めて事務的なトーンで返信する。すぐに既読がついた。返事が来るまでの数秒が、永遠のように長く感じられた。
『本当ですか!? ありがとうございます! じゃあ、五時に、駅前の……』

 彼女が指定してきたのは、『珈琲館 ノアール』。僕たちが高校時代、飽きもせずに入り浸っていた、あの古い喫茶店の名前だった。その店名をタイプする彼女の指先を想像し、僕の胸が、また小さく軋む音がした。偶然か、それとも意図的なのか。

『分かった』

 それだけを返し、僕はスマートフォンをポケットに押し込んだ。ベンチから見える、色褪せたキャンパスの風景が、急に現実感を失っていく。数時間後、僕は再び彼女と顔を合わせるのだ。今度は、もっと長く、そしておそらくは、もっと深く。心の準備など、できるはずもなかった。残りの講義の間も、僕の思考は上の空だった。ノートには意味不明な文字が並び、教授の声は遠い国の言葉のようにしか聞こえなかった。ただ、心臓だけが妙に落ち着きなく脈打ち続けていた。

 午後五時。『珈琲館 ノアール』の重い回転扉を押すと、カウベルの飾りが、からん、とどこか間の抜けた、しかし懐かしい音を立てた。途端に、外の喧騒とは切り離された、独特の静謐な空気に包まれる。

 ランプシェードから落ちるオレンジ色の温かい光が、磨き込まれたマホガニー色のテーブルやカウンターを柔らかく照らし出している。壁にかけられた古びた振り子時計が、コチコチと正確な時を刻む音。

 そして、鼻腔をくすぐる、深く焙煎されたコーヒー豆の香ばしい匂い。何もかもが、僕の記憶の中の風景と寸分違わず、それがかえって胸を締め付けた。時間は流れたはずなのに、この場所だけが、まるで過去の琥珀の中に閉じ込められているかのようだ。

 店内は、平日のこの時間にしては空いていた。煙草の紫煙が細く立ち上るカウンター席に数人、そして壁際のボックス席に一組の老夫婦がいるだけ。一番奥の、窓際のボックス席。僕たちがいつも好んで座った、少しだけ隠れ家のようなその場所に、見慣れた、しかし今は少しだけ違う影を持つ姿が座っているのが見えた。

 柊 雪乃。 窓の外を、八王子の雑多な駅前の風景を、彼女はぼんやりと眺めていた。

 その横顔は、ガラス窓に映る街のネオンに照らされ、どこか儚げに見えた。僕の足音に気づいたのか、彼女はゆっくりとこちらを振り向く。 少し癖のある、艶やかな黒髪が肩のあたりでさらりと揺れた。高校時代よりも心なしか丁寧に整えられている気がする。

 光の加減か、あるいは薄く化粧をしているせいか、透けるように白い肌が一層際立って見えた。すっと通った鼻筋、形の良い唇。大人びた雰囲気の中に、あの頃と変わらない、強い意志を宿した黒曜石のような瞳がこちらを見据えている。その瞳の奥に、ほんのわずかに不安の色が揺らめいているのを、僕は見逃さなかった。

 濃紺のワンピースに、白いカーディガンという清楚な服装も相まって、書店で感じた作家然としたオーラは鳴りを潜め、今はどこか頼りなげで、年相応の繊細さが際立って見えた。そのアンバランスさが、僕の心を妙にかき乱した。綺麗だ、と思った。そして同時に、胸が苦しくなった。

「……先輩。すみません、突然呼び出して」

 僕が音もなく向かいの席に腰を下ろすと、彼女は小さな声で言った。