僕にとって、柊雪乃という存在が、どれほど大きく、そして今もなお、重い意味を持っているのかを、改めて思い知らされた。
 その週末、僕はまるで巡礼者のように、吸い寄せられるように『橘書店』の古びた引き戸をくぐっていた。カウンターの奥で、橘さんはいつものように静かに文庫本に目を落としていたが、僕の気配に気づくとゆっくりと顔を上げた。

 その老眼鏡の奥の瞳は、僕の内面の動揺を静かに見抜いているかのようだった。来週末に母校へ行くこと、そしてそこには雪乃も来るであろうことを告げると、彼は静かに頷いた。

「高校の恩師の送別会ですか。それは、良い機会じゃないですか」

 その声には、いつものように過度な詮索も同情もない。ただ、事実を受け止めるような、淡々とした響きがあった。

「ただ、何を話せばいいのか……」

 僕は、淹れてもらったばかりのケニアの、深く香ばしい湯気が立ち上るカップを見つめながら、か細い声で呟いた。伝えたいことは、ある。
 けれど、それをどう言葉にすればいいのか、皆目見当がつかない。また彼女を傷つけてしまうのではないか。その恐怖が、鉛のように心に沈んでいる。雪乃も参加すると分かった今、その重圧はさらに増していた。

「言葉は、書くだけじゃないですからね」

 橘さんは、静かに言った。まるで、僕の心の迷いを見透かしたかのように。

「どう伝えるか。どんな表情で、どんな声で、どんな間で……。時には、言葉そのものよりも、その伝え方の方が、相手の心に響くこともある」

 彼は、老眼鏡の奥の瞳で、じっと僕を見つめた。

「佐伯君、君はもう、小説を書こうとは思わないのかもしれない。それは、君の選択だ。だがね、言葉から完全に自由になれる人間なんて、いやしないんですよ。君がこれから生きていく上で、自分の想いを誰かに伝えるという場面は、きっと何度も訪れる。そのための言葉を、君は探し続けなければならない。たとえ、それが小説という形でなくてもね」