スマートフォンの画面が、ポケットの中で一度だけ短く震えた。
 取り出して表示された通知に、息が止まる。それは、一年以上もの間、深い海の底に沈んでいたかのように静かだった、あのグループチャットからのものだった。『44期 文芸部グループチャット』。その白々しい文字列が、鈍い光を放って目に飛び込んでくる。
 指先が、まるで他人のもののように微かに震え、冷たい汗がじわりと滲むのを感じた。メッセージを開く。

『【招集通知】高橋先生、今年度で定年退職だって!』

 高橋先生――いつも白髪混じりの頭を掻きむしりながら、僕たちの未熟な言葉の断片に、辛抱強く耳を傾けてくれた、国語教師兼文芸部顧問。先生が、もう定年……。

 その事実が、まるで遠い雷鳴のように、現実味のない響きを伴って僕の意識を揺さぶった。時間の流れは、僕がその流れから取り残されている間にも、容赦なく進んでいたのだ。
 メッセージは、当時の部長だった鈴木からだった。相変わらずの、良くも悪くも屈託のない調子で言葉が続く。

『つきましては、先生への感謝を込めて、俺たちでささやかな送別会を企画したいと思います! 日時は来週末の土曜午後、場所は……なんと母校! 特別に使用許可取れたぞ! みんな、万難を排して参加するように! 詳細は追って連絡する!』

 母校。あの、古い校舎。埃と古紙の匂いが混じり合い、西日が差し込むと、空気中の無数の塵が金色に輝いて見えた、あの文芸部室――。

 行きたくない。反射的に全身が硬直した。あの場所で、あのメンバーと、そして何よりも、彼女と顔を合わせることになる。図書館前での、あの痛々しい邂逅。彼女の涙。
 僕の、声にならなかった謝罪の言葉。あの場面が、網膜に焼き付いたネガフィルムのように、鮮明に、そして色褪せることなく蘇る。胸の奥が、冷たく軋むような感覚。
 しかし、同時に、心の奥底から無視できない衝動が突き上げてきた。行かなければならない、と。高橋先生には、本当にお世話になった。僕の数少ない理解者の一人だった。その先生の人生の節目に、背を向けることなどできるはずがない。それに……。