彼女たちの姿が、古びた引き戸の向こうに完全に消えると、まるで魔法が解けたかのように、書店の止まっていた時間が再びゆっくりと流れ始めた気がした。

 棚に並ぶ本の背文字が、壁にかけられた古時計の振り子の音が、そしてカウンターの奥でページをめくる橘さんの微かな気配が、急に現実味を帯びて僕の感覚に流れ込んでくる。

  しかし、僕の中では、何かが決定的に終わってしまったような、あるいは、見たくない現実を真正面から突きつけられてしまったような、そんな鈍い痛みを伴う感覚があった。胸の奥に、冷たくて重いものが沈んでいく感覚。

 自己嫌悪と、そして、もう決して手の届かない過去への、どうしようもない喪失感。かつて当たり前だったはずの時間が、遠い銀河のように隔たってしまったことを、思い知らされる。

「……知り合いかい?」

 不意に、背後から橘さんの静かな声がした。いつの間にかカウンターから出てきて、彼は僕のそばに立っていた。その声には、過度な詮索も、同情もない。ただ、事実を確認するような、淡々とした響きがあった。

「あ……はい。高校の、後輩で……」

 僕は俯きながら、かろうじて答えた。彼の顔をまともに見ることができなかった。

「大変そうだったね。顔、真っ青だったよ」

 橘さんは、心配そうに僕の顔を覗き込む。その老眼鏡の奥の目は、穏やかだが、全てを見通しているかのようだ。

「いえ、そんな……ちょっと、驚いただけです」

 見え透いた嘘だと自分でも分かっていた。
「まあ、色々あるさ、若い頃は」橘さんは、僕の嘘を責めるでもなく、ただ静かに言った。「……あの子、柊雪乃さんだろ? 今、一番売れてる作家さんだ。うちにもたくさん問い合わせが来るし、サイン本が手に入らないかって、よく聞かれるよ」

 こともなげに語られるその事実に、僕は改めて現実の重さを突きつけられる。僕が感傷に浸っている間にも、彼女は手の届かない場所へと駆け上がり、世間はその輝きに熱狂しているのだ。僕だけが、過去に取り残されたまま。

「……そう、なんですね」

 力なく呟くのが精一杯だった。僕が知っている柊雪乃と、世間が知る柊雪乃との間には、もう埋めようのない距離がある。 橘さんは、それ以上何も聞かず、ただ「無理するなよ」とだけ言って、ゆっくりとカウンターの中に戻っていった。

 その短い言葉と、変わらない静かな佇まいに、少しだけ、本当に少しだけ、張り詰めていたものが緩んだような気がした。この店が僕の避難場所である理由は、この橘さんの、深入りしない優しさにあるのかもしれない。

 僕は、もう一度だけ、あの白い背表紙に目をやった。柊 雪乃『海辺のソラネル』。そのタイトルが、やけに皮肉めいて目に映った。海辺どころか、僕と彼女の間には、深く暗い、途方もない海溝が横たわっているように思えた。 結局、僕はその日、目的もなく立ち寄っただけのはずの『橘書店』で、何も買わずに店を出た。ひんやりとした夕暮れの空気が、火照った頬には心地よかった。

 甲州街道を駅とは反対方向へ、当てもなく歩く。日はとっぷりと暮れ、街灯や家々の窓から漏れる明かりが、足元の濡れたアスファルトを頼りなく照らしていた。家路を急ぐ人々の波が、僕の横を足早に通り過ぎていく。誰もが確かな目的地を持っているように見えるその流れの中で、僕だけが進むべき方向を見失った、孤独な漂流者のようだった。 今日の出来事が、何度も頭の中でリフレインする。雪乃の冷たい視線。小野寺のビジネススマイル。
 
 僕の口から出た空虚な言葉。そして、僕が結局、何も伝えられなかったという事実。

 僕の人生という、退屈で凡庸な映画のエンドロールは、きっと空白のまま流れていくのだろう。そう思った。かつて夢見たはずの自分の名前も、そして、隣にいるはずだった彼女の名前も、そこにはあってくれない。

 自室のアパートに戻っても、書店の出来事が、まるで網膜に焼き付いた残像のように、思考から離れなかった。シャワーを浴び、ベッドに潜り込んでも、思考は冴えたままだ。目を閉じれば、雪乃の顔と、書店の白い照明、そして僕自身の情けない姿が交互に明滅する。あの時、僕は本当は何を言いたかったのだろう。「面白かった」という言葉の、その先に。彼女との関係が、どうなってほしかったのだろう。答えは、暗闇の中に溶けていくばかりだった。