彼女の声が、静かな店内に響いた。記憶の中の、少し高くて快活な響きとは違う。わずかに低く、落ち着いた、けれどどこか硬質な響き。その呼びかけには、やはり、探るような、確信の持てないようなニュアンスが奇妙に含まれているように聞こえた。
「ああ……柊さん。久しぶり」
自分の声が、まるで他人事のように遠くから聞こえてくる。平静を装おうとすればするほど、喉が奇妙に締め付けられ、声が上ずる。無様に。
「デビュー、おめでとう。……すごい活躍だね。本、平積みになってたよ」
口から出たのは、用意していたわけでもない、ありきたりで空虚な賛辞だった。言葉が、意味の重みを失って、ただ表層を滑っていくのが自分でも分かる。情けない。
「ありがとうございます」
雪乃は短く応じる。その声の温度は、まるで冬の朝の薄氷のように、どこまでもフラットで、感情の色を読み取らせない。僕の言葉など、彼女の耳には届いていないのかもしれない。 隣にいた編集者の小野寺氏が、僕に向かってすっと名刺を差し出した。その動きには淀みがなく、洗練されている。僕は反射的にそれを受け取った。『株式会社 集英社 文芸編集部 小野寺 梓』と印刷されている。
「編集を担当しております、小野寺と申します。柊先生からは、高校時代に大変お世話になったと伺っております」
流れるようなビジネススマイル。その完璧さが、僕と雪乃の間に横たわる、埋めようのない溝と時間の経過を、くっきりと浮かび上がらせる。僕はただ、「いえ、そんな……僕の方こそ……」と曖昧に口ごもるしかなかった。小野寺氏の視線が、僕の着ているくたびれたパーカーや、色褪せたジーンズを一瞬だけ値踏みするように走ったのを、僕は見逃さなかった。その視線が、無言のうちに僕たちの立場の違いを物語っている。惨めさが、じわじわと胸に広がった。
「先輩も、お元気そうで」
雪乃が、再び口を開いた。その視線は、僕の顔を捉えているようでいて、その実、僕の肩越しにある書架を見ているかのような、奇妙な浮遊感を伴っていた。まるで、僕という存在が、背景の一部に溶けてしまっているかのようだ。
「ああ、まあ……。大学は、八王子だから」
何を言っているのだろう、僕は。彼女の活躍を前にして、自分の近況を尋ねられてもいないのに、平凡な大学生活を報告する意味などないというのに。言葉が続かない。何を話せばいい? この若き天才作家に対して、単位を取ることに汲々としているだけの僕が、何を語れるというのだろう。沈黙が、重く、気まずく、のしかかる。書店の古本の匂いと、彼女から微かに香る、知らない種類の香水の匂いだけが、やけにリアルに感じられた。
「あの、本……」
雪乃が、わずかに躊躇いがちに切り出した。読んでくれたか、と問われるのだろう。その質問が来ることを、僕は心のどこかで予期し、そして何よりも恐れていた。僕の心臓が、痛いほど大きく跳ねた。
「――もちろん! すごい反響だって聞いたよ! さすがだなって! 本当に……君は、やっぱりすごいよ!」
僕は、彼女の言葉を遮るように、早口でまくし立てた。核心に触れることから逃げるために。賞賛の言葉を重ねれば重ねるほど、僕の内面は空っぽになっていく。読んでもいないのに。その嘘が、自分の声色に滲んでしまっていないか、それだけが気がかりだった。 雪乃の瞳が、ほんのわずかに伏せられたように見えた。長い睫毛が、白い頬に影を落とす。それは諦めか、失望か、あるいは、最初から何も期待していなかったという諦観か。僕には判別できない。ただ、彼女の纏う空気が、さらに冷たくなったような気がした。
「……そうですか」
彼女は、それ以上何も言わなかった。その短い肯定とも否定ともつかない言葉と、その後の沈黙が、僕の嘘と空虚さを、静かに、しかし決定的に暴いていた。
「それでは、そろそろ時間ですので」
絶妙なタイミングで、小野寺氏が冷静な声で会話を断ち切る。まるで、これ以上、この不毛で痛々しいやり取りが続くのを防ぐかのように。あるいは、作家・柊 雪乃の時間を、僕のような人間に割くのは無駄だと判断したかのように。 雪乃は、僕に再び軽く一礼すると、編集者に促されるまま、背を向けた。その背中は、僕が記憶しているよりもずっと小さく、そして張り詰めているように見えた。人々の視線の中を、彼女たちは足早に出口へと向かう。
僕は、ただ、その場に立ち尽くしていた。遠ざかっていく二つの背中を、目で追うことしかできない。彼女が残していった、甘く知らない香水の残り香と、僕自身の言葉の残骸の中で。
「ああ……柊さん。久しぶり」
自分の声が、まるで他人事のように遠くから聞こえてくる。平静を装おうとすればするほど、喉が奇妙に締め付けられ、声が上ずる。無様に。
「デビュー、おめでとう。……すごい活躍だね。本、平積みになってたよ」
口から出たのは、用意していたわけでもない、ありきたりで空虚な賛辞だった。言葉が、意味の重みを失って、ただ表層を滑っていくのが自分でも分かる。情けない。
「ありがとうございます」
雪乃は短く応じる。その声の温度は、まるで冬の朝の薄氷のように、どこまでもフラットで、感情の色を読み取らせない。僕の言葉など、彼女の耳には届いていないのかもしれない。 隣にいた編集者の小野寺氏が、僕に向かってすっと名刺を差し出した。その動きには淀みがなく、洗練されている。僕は反射的にそれを受け取った。『株式会社 集英社 文芸編集部 小野寺 梓』と印刷されている。
「編集を担当しております、小野寺と申します。柊先生からは、高校時代に大変お世話になったと伺っております」
流れるようなビジネススマイル。その完璧さが、僕と雪乃の間に横たわる、埋めようのない溝と時間の経過を、くっきりと浮かび上がらせる。僕はただ、「いえ、そんな……僕の方こそ……」と曖昧に口ごもるしかなかった。小野寺氏の視線が、僕の着ているくたびれたパーカーや、色褪せたジーンズを一瞬だけ値踏みするように走ったのを、僕は見逃さなかった。その視線が、無言のうちに僕たちの立場の違いを物語っている。惨めさが、じわじわと胸に広がった。
「先輩も、お元気そうで」
雪乃が、再び口を開いた。その視線は、僕の顔を捉えているようでいて、その実、僕の肩越しにある書架を見ているかのような、奇妙な浮遊感を伴っていた。まるで、僕という存在が、背景の一部に溶けてしまっているかのようだ。
「ああ、まあ……。大学は、八王子だから」
何を言っているのだろう、僕は。彼女の活躍を前にして、自分の近況を尋ねられてもいないのに、平凡な大学生活を報告する意味などないというのに。言葉が続かない。何を話せばいい? この若き天才作家に対して、単位を取ることに汲々としているだけの僕が、何を語れるというのだろう。沈黙が、重く、気まずく、のしかかる。書店の古本の匂いと、彼女から微かに香る、知らない種類の香水の匂いだけが、やけにリアルに感じられた。
「あの、本……」
雪乃が、わずかに躊躇いがちに切り出した。読んでくれたか、と問われるのだろう。その質問が来ることを、僕は心のどこかで予期し、そして何よりも恐れていた。僕の心臓が、痛いほど大きく跳ねた。
「――もちろん! すごい反響だって聞いたよ! さすがだなって! 本当に……君は、やっぱりすごいよ!」
僕は、彼女の言葉を遮るように、早口でまくし立てた。核心に触れることから逃げるために。賞賛の言葉を重ねれば重ねるほど、僕の内面は空っぽになっていく。読んでもいないのに。その嘘が、自分の声色に滲んでしまっていないか、それだけが気がかりだった。 雪乃の瞳が、ほんのわずかに伏せられたように見えた。長い睫毛が、白い頬に影を落とす。それは諦めか、失望か、あるいは、最初から何も期待していなかったという諦観か。僕には判別できない。ただ、彼女の纏う空気が、さらに冷たくなったような気がした。
「……そうですか」
彼女は、それ以上何も言わなかった。その短い肯定とも否定ともつかない言葉と、その後の沈黙が、僕の嘘と空虚さを、静かに、しかし決定的に暴いていた。
「それでは、そろそろ時間ですので」
絶妙なタイミングで、小野寺氏が冷静な声で会話を断ち切る。まるで、これ以上、この不毛で痛々しいやり取りが続くのを防ぐかのように。あるいは、作家・柊 雪乃の時間を、僕のような人間に割くのは無駄だと判断したかのように。 雪乃は、僕に再び軽く一礼すると、編集者に促されるまま、背を向けた。その背中は、僕が記憶しているよりもずっと小さく、そして張り詰めているように見えた。人々の視線の中を、彼女たちは足早に出口へと向かう。
僕は、ただ、その場に立ち尽くしていた。遠ざかっていく二つの背中を、目で追うことしかできない。彼女が残していった、甘く知らない香水の残り香と、僕自身の言葉の残骸の中で。
