隣には、黒いパンツスーツを隙なく着こなした、いかにも仕事ができそうな印象の女性が立っている。
 おそらく、噂に聞く担当編集者の小野寺だろう

 。彼女は周囲――といっても、この時間、客は僕くらいしかいないのだが――の空気を値踏みするように一瞥すると、雪乃に何か小声で話しかけている。雪乃は、その言葉に小さく頷きながら、ゆっくりと店内を見渡した。そして――その黒曜石のような瞳が、寸分の狂いもなく、書架の間に立ち尽くす僕を捉えたのだ。

 時間が、引き伸ばされたゴムのように、奇妙に伸長する感覚。彼女の瞳に、ほんの一瞬、純粋な驚きの色が浮かんだのを、僕は確かに見た。だが、それは本当に瞬きほどの間のこと。

 すぐにその微かな揺らぎは、完璧なまでのポーカーフェイスの奥深くへと隠され、僕に向けられたのは、公の場で偶然知人に出会った際の、当たり障りのない、ごく微かな会釈だけだった。まるで、僕がそこにいることが、取るに足らない偶然であるかのように。

 心臓が、嫌な音を立てて脈打つのを感じた。思考が麻痺し、手足の先から急速に血の気が引いていく。まずい、と思った。今、この場所で、彼女と顔を合わせるのは。一番見られたくない場所で、一番会いたくない人間に。僕の逃げ場所であるはずのこの『橘書店』が、一瞬にして息苦しい檻に変わってしまった。

 カウンターの奥で、文庫本に視線を落としていたはずの橘さんが、いつの間にか顔を上げ、こちらの様子を静かに窺っている気配がした。老眼鏡の奥の目が、僕の尋常でない動揺と、突然現れた異質な二人組の間に流れる、見えない空気の歪みを、正確に捉えているような気がした。いつもは心地よい彼の沈黙が、今は僕の狼狽ぶりを際立たせるようで、居たたまれなかった。

 逃げ場はない。僕は観念して、浅く、ほとんど無意識に息を吸い込んだ。乾いた喉の奥がひりつく。

「……佐伯、先輩?」