最後の最後になって、強烈な恐怖が、足元から這い上がってくるのを感じた。このボタンを押してしまえば、もう後戻りはできない。僕と雪乃の関係は、良くも悪くも、決定的に動き出してしまうだろう。その変化を、僕は受け止めきれるのだろうか。

 ――けれど。

『何もしない後悔って、ずっと「もしも」が付きまとうからね』

 美咲先輩の声が、僕の背中を押した。そうだ。「もしも」の世界で生き続けるのは、もうたくさんだ。
 僕は、目を閉じた。そして、強く、短く息を吐き出すと同時に、親指に力を込めた。
 カチリ、という、錯覚かもしれない微かな感触と共に、メッセージは白い吹き出しとなり、画面の上方へと滑るように送られていった。その下に、『送信済み』というシステム的な文字が表示される。

 …………。

 終わった。いや、始まったのだ。
 僕は、スマートフォンをテーブルの上にそっと置いた。まるで、壊れ物を扱うかのように。指先が、まだ微かに震えている。心臓は、先ほどよりもさらに激しく脈打っている。全身から、どっと汗が噴き出すような感覚。そして、遅れてやってきたのは、猛烈な不安だった。

 読んでくれるだろうか……。
 読んで、どう思うだろうか……。
 もし、断られたら……?
 もし、会ってくれても、また何も言えなかったら……?

 次から次へと、ネガティブな想像が頭の中を駆け巡る。部屋の静寂が、その不安をさらに増幅させるようだった。僕は、たまらなくなって椅子から立ち上がり、狭い部屋の中を無意味に歩き始めた。落ち着かない。じっとしていられない。

 壁に掛けられたカレンダーが目に入る。もうすぐ十一月が終わる。今年も、あとわずかだ。僕がこの大学に入ってから、一体何ができただろうか。何も成し遂げられないまま、ただ過去の亡霊に囚われ、無為な時間を過ごしてきただけではないか。

 でも――。
 歩き回りながら、僕はふと窓の外に目をやった。八王子の夜景が、静かに広がっている。あの無数の灯りの一つ一つに、それぞれの生活があり、それぞれの物語があるのだろう。僕の物語は、まだ始まったばかりだ。いや、始めようとしている、と言った方が正確か。

 そうだ。たとえこのメッセージが無視されようと、拒絶されようと、僕は今日、確かに一歩を踏み出したのだ。自分の殻の中に閉じこもり、過去から目を背け続けることをやめ、未来に向かって、ほんのわずかでも、顔を上げようとしたのだ。
 それは、あまりにも小さな、そしてあまりにも心許ない一歩かもしれない。けれど、僕にとっては、この半年間で最も意味のある行動だった。