やがて、見慣れた古い看板が目に入った。
 ――『橘書店』。八王子駅北口の喧騒から少し離れた、古くからの商店が軒を連ねる路地裏に、その店はひっそりと息づいていた。
 
 僕がこの街で唯一、深く息ができると感じられる場所だ。年季の入った木製の引き戸は、今日も軋んだ音を立てて僕を迎える。埃と古紙、そして微かなインクの匂いが混じり合った、独特の空気がそこにはあった。それは僕にとって、一種の鎮静剤のような匂いだった。

「……こんにちは」

 入り口近くのカウンターの奥で、店主の橘さんが、いつものように分厚い文庫本から顔を上げた。銀縁の老眼鏡の奥の瞳が、僕を捉えて静かに細められる。彼は何も言わずに小さく頷き、すぐに視線を本に戻した。僕も無言で会釈を返す。

 この店では、この沈黙が心地よい。橘さんは、僕のような口数の少ない学生が、なぜ授業が終わるとここに吸い寄せられるようにやって来るのか、きっと言葉にしなくても理解してくれている。そんな気がした。

 店内は、本の迷宮だ。天井まで届く書架には、新旧様々なジャンルの本が、ぎっしりと、しかし不思議な秩序を持って並べられている。僕はまっすぐ、店の奥にある文芸書のコーナーへと向かった。話題の新刊が並ぶ平台には目もくれず、少し色褪せた書架に並ぶ背表紙のタイトルを、ゆっくりと指でなぞるように目で追う。

 誰にも急かされず、無数の物語の気配に包まれるこの時間を、僕は貪るように求めていた。言葉から逃げ出したはずなのに、皮肉なことに、僕は言葉の海の中でしか呼吸ができないのかもしれない。

 ふと、ある一角で足が止まった。最近増設されたらしい、地元作家のコーナー。そこに、ひときわ目立つ形で平積みされている一冊があった。白いカバーに、淡いブルーのタイトル文字。記憶の中のそれよりも、ずっと立派で、堂々として見える。

『海辺のソラネル』柊 雪乃。

  帯には「異例の新人賞受賞から一年、待望の第一長編!」「天才女子高生作家、ここに降臨」という煽り文句と共に、著名な作家や書評家からの賛辞が、これでもかと並べられていた。 僕は、その本の前に立ち尽くした。まるで蛇に睨まれた蛙のように、動けなくなる。

 すごいよ、君は。本当に

 心の中で呟く言葉は、紛れもない本心だ。

 あの頃から、彼女の才能は突出していた。僕がどれだけ足掻いても辿り着けない場所に、彼女は軽々と立っていた。
 だから、彼女の成功は、祝福すべきことなのだ。 けれど、素直にそう思えない自分がいる。鉛のように重い何かが、僕の胸の奥底へと沈んでいく。それは嫉妬とは違う。もっと個人的で、もっと根深い感情。失われた時間。変わってしまった関係性。

 そして、彼女の輝きを前にした時の、僕自身のどうしようもないほどの矮小さ。 だから、僕はまだ、この本を手に取れない。ページを開くことができない。彼女が紡いだ世界に触れることが、僕の中に辛うじて残っている何かを、完全に破壊してしまうことを恐れているのだ。

 品出しをしていた橘さんが、すぐ近くの通路を通りかかった。僕が雪乃の本の前で硬直していることに気づいたのだろう、彼の動きが一瞬止まったように見えた。だが、彼は何も言わず、ただ静かに僕の横を通り過ぎていった。その沈黙が、かえって僕の惨めさを際立たせるようだった。

 その場から逃げるように、僕は書架の陰へと身を隠そうとした。その瞬間だった。 からん、と乾いたドアベルの音が響き、高いヒールの靴音が店内に響いた。反射的に顔を上げる。そこに立っていたのは――。

 声よりも先に、空気が変わったのを肌で感じた。凛とした佇まい。
 古い書店のくすんだ空気の中で、そこだけがスポットライトを浴びているかのような、鮮烈な存在感。

 数歩先に立つ彼女は、最後に間近で見た高校時代よりも、確かに少し大人びて見えたけれど、その全てを見透かすような強い眼差しは、記憶の中のそれと少しも変わっていなかった。
 
 ――柊 雪乃。 その名前が、舌の上で苦い味を伴って転がる。