「……伯、おい、佐伯!」

 不意に肩を叩かれ、僕はびくりとして顔を上げた。いつの間にか講義は終わっていたらしい。隣には、呆れたような顔をした中村が立っていた。

「悪い、また……」
「また、かよ。どんだけこの教授の催眠術効くんだよ、お前」

 中村は教科書を鞄にしまいながら、からかうように笑う。

「まあ、今日の現代思想論は特にヤバかったけどな。俺も半分寝てたわ」

 彼の屈託のない声が、今は少しだけ羨ましい。僕の意識を奪っていたのは、退屈な講義などではなかった。

「で、この後どうする? ゲーセンでも寄ってく?」
「いや、俺はいいや。ちょっと寄るとこあるから」
「ふーん? 最近付き合い悪いな、佐伯クンは。……まあいいや、じゃあな」

 軽く手を振って教室を出ていく中村の背中を見送り、僕はゆっくりと立ち上がった。空になった講義室に一人取り残されると、自分の抱える空虚さが、より一層際立つような気がした。
 大学の西門を出て、甲州街道へと続く緩やかな坂道を下る。午後の日差しはすでに傾き始め、長く伸びた影がアスファルトの上を横切っていく。駅へ向かう学生たちの流れに逆らうように、僕は一本脇道に入った。目指す場所は決まっている。