あの冷たい雨の夜から、また数日が過ぎた。
 空はまるで何事もなかったかのように高く澄み渡り、洗濯されたばかりのシーツのような、潔いほどの青を見せている。

 大学のキャンパスでは、黄金色に輝いていた銀杏の葉がそのほとんどを落とし、枝々は寒々しい冬の空へと突き刺すように伸びていた。季節は、容赦なく、そして確実に移ろいでいく。僕の心の中の風景とは裏腹に。

 雨に打たれながら歩き続けたあの夜、僕の中で何かが変わったのかと問われれば、明確な答えはまだ見つからない。
 ただ、以前のような、出口のない暗闇の中を手探りで進むような感覚は、少しだけ薄れていた。
 
 代わりに、目の前には、依然として霧がかかってはいるけれど、その向こうに微かに道のようなものが続いているのかもしれない、という淡い予感が漂っている。それは、あまりにも頼りなく、不確かな光だったが、それでも、僕にとっては久しぶりに感じる「兆し」のようなものだった。

 その日の夕方も、僕はいつものようにカフェのカウンターの中にいた。
 週末を控えた金曜日の店内は、いつもより少しだけ浮き足立ったような空気に満ちている。八王子駅に近いこの店は、学生だけでなく様々な人が訪れる。楽しげな会話、カップの触れ合う音、エスプレッソマシンの立てるリズミカルなノイズ。

 僕は、それらの音に耳を澄ませながら、黙々とグラスを磨いていた。この単調な作業が、今は心地よかった。自分の思考から、少しだけ距離を置けるからだ。

「お疲れ、蓮くん。なんか今日、上の空じゃない?」

 不意に、すぐ隣で声がした。顔を上げると、エプロン姿の美咲先輩が、悪戯っぽい笑みを浮かべて立っていた。彼女は、よくこうして、僕が自分の世界に入り込んでいる時に、不意打ちのように話しかけてくる。

「……そうですか? いつも通りだと思いますけど」

 僕は、グラスから目を離さずに答えた。彼女の真っ直ぐな視線は、時々、僕を射抜くようで、少し苦手だった。

「えー、ほんと? なんか、眉間にシワ寄ってるよ。難しい顔しちゃってさ」

 彼女は、楽しそうに言って、僕の手元を覗き込む。ふわりと、彼女が使っている柔軟剤なのか、甘くて優しい香りがした。

「……別に、何も」
 僕がそう言って口をつぐむと、彼女は「そっか」とだけ言って、それ以上は追及してこなかった。