どれくらいの時間、そうしていただろうか。
マスターが閉店の準備を始める気配で、僕ははっと我に返った。冷え切って苦味だけが増したコーヒーを、罰を受けるように一気に飲み干す。伝票を掴み、足早にレジへ向かう。
マスターは何も言わず、ただ静かに会計をしてくれた。その無言の優しさが、今はかえって辛かった。
店の古い回転扉を押すと、湿った冷気が容赦なく肌を刺した。外は、いつの間にか本降りの雨になっていた。傘は、持っていない。けれど、濡れることなど、今の僕にはどうでもよかった。僕は、降りしきる雨の中を、ただ無言で歩き始めた。駅へ向かうのとは逆の方向へ、当てもなく。
雨粒が、僕の顔を、髪を、コートを叩く。冷たい。けれど、それ以上に、胸の内側から込み上げてくる熱い自己嫌悪が、僕を打ちのめしていた。
結局、僕は……何も言えなかった。また、傷つけただけだ。
雪乃の、あの傷ついたような瞳が瞼の裏に焼き付いて離れない。
「先輩には、関係ないことですから」――その言葉が、鋭い棘のように心臓に突き刺さっている。関係なくなんてない。僕のせいだ。僕があの時、彼女の才能から目を逸らし、伝えるべき言葉を伝えなかったから、彼女はずっと苦しんでいたのかもしれない。
僕が、彼女を孤独にしたのかもしれない。
なぜ、言えなかったのだろう。「面白かった」と。
ただ、それだけの一言が。 自分の才能のなさを認めるのが怖かった?
それもあるだろう。けれど、今日、彼女の弱さに触れ、そして核心を突く問いからはぐらかしてしまった自分の醜さを自覚して、本当の理由に気づいてしまった。
僕は、怖かったのだ。 彼女の才能を認めてしまえば、僕たちの関係性が決定的に変わってしまうことが。
かつて、同じ地平を目指していたはずの僕たちが、完全に「書く者」と「読む者」に分かれてしまうことが。彼女が遥か高みへと駆け上がっていく姿を、ただ地上から見上げるだけの、「傍観者」になってしまうことが。
対等な場所で、彼女と笑い合い、語り合えた、あの二度と戻らない時間に、僕はいまだに強く執着しているのだ。なんと身勝手で、そして救いようのない感傷だろうか。僕は、自分の心の醜さに、吐き気すら覚えた。
雨に濡れた八王子の夜道を、僕は、ただひたすらに歩き続けた。
街灯の光が、雨粒に乱反射して滲んでいる。まるで、僕の涙のように。いや、僕には泣く資格すらないのかもしれない。
このままでは、駄目だ――強く、そう思った。過去に囚われ、現在から目を背け続けているだけでは、何も変わらない。僕自身も、そしておそらくは、雪乃との関係も。 雨は、僕の心の澱を洗い流してくれるのだろうか。それとも、僕の愚かさを罰しているのだろうか。分からない。
ただ、今は、この冷たい雨に打たれながら、歩き続けたかった。そして、考えたかったのだ。これから、僕がどうすべきなのか。失われた過去と、色褪せた現在、そして、まだ輪郭すら見えない未来と、どう向き合っていくべきなのか。 足取りは重い。
けれど、不思議と、絶望だけではなかった。心の奥底で、ほんのわずかな、しかし確かな熱を持った何かが、静かに燃え始めているような、そんな予感があった。次に僕が踏み出すべき一歩を、必死に探し求めながら。
マスターが閉店の準備を始める気配で、僕ははっと我に返った。冷え切って苦味だけが増したコーヒーを、罰を受けるように一気に飲み干す。伝票を掴み、足早にレジへ向かう。
マスターは何も言わず、ただ静かに会計をしてくれた。その無言の優しさが、今はかえって辛かった。
店の古い回転扉を押すと、湿った冷気が容赦なく肌を刺した。外は、いつの間にか本降りの雨になっていた。傘は、持っていない。けれど、濡れることなど、今の僕にはどうでもよかった。僕は、降りしきる雨の中を、ただ無言で歩き始めた。駅へ向かうのとは逆の方向へ、当てもなく。
雨粒が、僕の顔を、髪を、コートを叩く。冷たい。けれど、それ以上に、胸の内側から込み上げてくる熱い自己嫌悪が、僕を打ちのめしていた。
結局、僕は……何も言えなかった。また、傷つけただけだ。
雪乃の、あの傷ついたような瞳が瞼の裏に焼き付いて離れない。
「先輩には、関係ないことですから」――その言葉が、鋭い棘のように心臓に突き刺さっている。関係なくなんてない。僕のせいだ。僕があの時、彼女の才能から目を逸らし、伝えるべき言葉を伝えなかったから、彼女はずっと苦しんでいたのかもしれない。
僕が、彼女を孤独にしたのかもしれない。
なぜ、言えなかったのだろう。「面白かった」と。
ただ、それだけの一言が。 自分の才能のなさを認めるのが怖かった?
それもあるだろう。けれど、今日、彼女の弱さに触れ、そして核心を突く問いからはぐらかしてしまった自分の醜さを自覚して、本当の理由に気づいてしまった。
僕は、怖かったのだ。 彼女の才能を認めてしまえば、僕たちの関係性が決定的に変わってしまうことが。
かつて、同じ地平を目指していたはずの僕たちが、完全に「書く者」と「読む者」に分かれてしまうことが。彼女が遥か高みへと駆け上がっていく姿を、ただ地上から見上げるだけの、「傍観者」になってしまうことが。
対等な場所で、彼女と笑い合い、語り合えた、あの二度と戻らない時間に、僕はいまだに強く執着しているのだ。なんと身勝手で、そして救いようのない感傷だろうか。僕は、自分の心の醜さに、吐き気すら覚えた。
雨に濡れた八王子の夜道を、僕は、ただひたすらに歩き続けた。
街灯の光が、雨粒に乱反射して滲んでいる。まるで、僕の涙のように。いや、僕には泣く資格すらないのかもしれない。
このままでは、駄目だ――強く、そう思った。過去に囚われ、現在から目を背け続けているだけでは、何も変わらない。僕自身も、そしておそらくは、雪乃との関係も。 雨は、僕の心の澱を洗い流してくれるのだろうか。それとも、僕の愚かさを罰しているのだろうか。分からない。
ただ、今は、この冷たい雨に打たれながら、歩き続けたかった。そして、考えたかったのだ。これから、僕がどうすべきなのか。失われた過去と、色褪せた現在、そして、まだ輪郭すら見えない未来と、どう向き合っていくべきなのか。 足取りは重い。
けれど、不思議と、絶望だけではなかった。心の奥底で、ほんのわずかな、しかし確かな熱を持った何かが、静かに燃え始めているような、そんな予感があった。次に僕が踏み出すべき一歩を、必死に探し求めながら。
