あの公園での対話から、季節は一つ巡った。長く、凍えるように感じられた冬が終わり、八王子の街にも、確かな春の気配が訪れていた。大学へと続く道沿いの桜並木は、淡いピンク色の花を咲かせ、風が吹くたびに、はらはらと花びらを舞い散らせている。キャンパスには、新しい年度の始まりを告げる活気が満ち、全てが輝かしい未来へと続いているかのように見えた。

 僕自身の時間も、ようやく、流れを取り戻していた。過去の呪縛から解き放たれ、目の前にある現在と、そして未来へと、穏やかな気持ちで目を向けることができるようになっていた。現代文学のゼミは相変わらず刺激的で、橘書店で過ごす時間は、僕にとってかけがえのない思索のひとときだった。

 その日の昼休み、僕は大学のカフェテリアで、中村と向かい合って座っていた。彼は、就職活動の合間を縫って、気分転換に大学へ顔を出したのだという。

「いやー、マジで疲れるわ、就活は」

 中村は、うんざりした顔でコーヒーを啜った。

「なんかさ、面白い小説とか知らない? 現実逃避したいんだよ、マジで。佐伯のおすすめなら間違いないだろ?」

 その言葉に、僕は待ってましたとばかりに、鞄から一冊の文庫本を取り出した。それは、数日前に発売されたばかりの、柊雪乃の最新作だった。鮮やかな春の空を思わせるカバーデザイン。

「ああ、それなら絶対これ。柊雪乃の新作」
「お、出た! 柊雪乃!」

 中村は、すぐにピンときたように声を上げた。

「お前の、あのすごい後輩だろ? 大学生になっても売れてんだろ、どうせ。『JK』って肩書きだけの色物だと思ってたが……」
「まあな」

 僕は苦笑いを浮かべる。

「でも、売れてるとかそういうことじゃなくてさ、本当に凄いんだよ、今回のも。なんていうか……人が普段、目を向けないような、心の奥底の、ちょっと痛くて、でもすごく大事な感情を、優しい光で照らしてくれる感じ? 読み終わった後、世界が、昨日までとは少しだけ違って見えるんだ」

 僕は、熱意を込めて語っていた。その作品がいかに素晴らしいか、彼女の言葉がいかに読む者の心を深く揺さぶるか。それは、単なる読者としての感想だけではない。彼女の苦悩を知り、その隣で彼女の創作を見守ってきた、僕だからこそ語れる言葉だったのかもしれない。

 中村は、僕の話を興味深そうに聞いていたが、やがてニヤリと笑って僕の顔を覗き込んできた。

「へえー、お前がそんなに熱く語るなんて、やっぱ珍しいよな。……で? そのすごい後輩とは、どうなんだよ、実際?」

 揶揄うような、探るような視線。僕は、一瞬言葉に詰まるが、すぐに照れたような笑みがこみ上げてくるのを止められなかった。

「まあ、ぼちぼちだよ」
「ぼちぼちってなんだよ!」

 中村は、楽しそうに突っ込む。

「お前、その後輩のことになると、ほんと顔つき変わるよな。分かりやすすぎ!」
「う、うるさいな」

 僕は、顔が熱くなるのを感じながら、慌ててコーヒーカップに口をつけた。けれど、その表情は、以前のような卑屈さや劣等感とは無縁の、穏やかで、満たされたものだったはずだ。中村も、それ以上は追及せず、「まあ、とにかく読んでみるわ」と言って、僕から文庫本を受け取った。