「ああ……」

 僕は、少しだけ迷ってから、正直に答えた。

「分からない。まだ、何も決めてない。ただ……もう一度、小説を書こうとは思わない。それは、確かだ」

 きっぱりと、僕は言った。それは、強がりでも、卑屈になっているわけでもない。あの衝撃的な体験と、その後の長い停滞、そして今日のこの対話を経て、僕がたどり着いた、偽りのない結論だった。僕には、彼女のような才能はない。そして、無理にそれを追い求めることは、自分自身をさらに傷つけるだけだ。

「でも」

 僕は続けた。

「言葉から、完全に離れるつもりもない。橘さんにも言われたんだ。言葉は書くだけじゃないって。……俺は、たぶん、書くことよりも、読むことの方が好きなのかもしれない。優れた言葉に触れて、それを深く理解して……そして、もしかしたら、その魅力を、誰かに伝えることの方が」

 そこまで言って、僕は雪乃の方を見た。

「だから……もし、君が許してくれるなら……。俺は、君の一番の読者でいたい。君の言葉を、誰よりも深く理解して、時には、厳しいことも言うかもしれないけど……それでも、君の物語を、ずっと見つめ続けていたいんだ」

 それは、僕なりの、新しい決意表明だった。作家・佐伯蓮ではない、別の形で、僕は言葉と、そして柊雪乃という存在と、関わっていきたいのだ。

 雪乃は、僕の言葉をじっと聞いていた。その表情は、穏やかだった。そして、ゆっくりと、本当にゆっくりと、彼女は微笑んだ。それは、僕が今まで見た中で、一番自然で、そして美しい笑顔だった。

「はい」

 彼女は、はっきりと頷いた。

「嬉しいです、先輩。……私の、一番の読者に、なってください」

 その言葉を聞いた瞬間、僕の胸の奥にあった、長年のしこりのようなものが、すっと溶けていくのを感じた。過去の呪縛から、ようやく解放されたような、そんな晴れやかな気持ちだった。