「……なんとなく、です」
曖昧な答え。だが、彼女は続けた。
「昔……先輩は、いつも私の話を、ちゃんと聞いてくれたから。それに……」
言葉を探すように宙を見つめ、意を決したように、しかし小さな声で、あの問いを投げかけた。
「……先輩は……昔、私が書いたやつ……その、どう思ってたんですか?」
来た、と思った。僕が最も恐れていた質問。時が止まったような静寂の中で、彼女の言葉だけが、やけにクリアに響く。彼女が言っている「やつ」が、僕の心を抉り、筆を折らせた、あの原稿のことだと瞬時に悟った。背中に冷たい汗が、たらりと流れるのを感じた。
「え……? いや、昔のって……色々あっただろ。お前、いっぱい書いてたし。……どれのことだよ」
僕は、わざとらしく首を傾げ、運ばれてきたばかりの熱いコーヒーカップに口をつけた。動揺を悟られまいと必死だった。舌をやけどしそうな熱さだけが、かろうじて僕を現実に繋ぎとめていた。平静を装う僕の顔は、きっとひどく歪んでいたに違いない。
雪乃の表情が、見る間に曇っていくのを、僕は直視できなかった。期待が失望に変わる瞬間。彼女の瞳の奥に浮かんだ深い諦めと、隠しきれない傷の色。それは、僕が与えた傷なのだ。
「……ううん、何でもないです。忘れてください」
力なく首を振り、彼女は自分の紅茶のカップに視線を落とした。その横顔は、ひどく傷つきやすく、そして僕を拒絶しているように見えた。長い、重苦しい沈黙が、テーブルの上に落ちる。窓の外では、いつの間にか冷たい雨が降り始めていた。ガラス窓を伝う雨粒が、まるで彼女の涙のように見えた。喫茶店の中に流れる、物憂げなジャズピアノの旋律が、僕たちの間の溝をさらに深めていくようだった。
(まずい……また、逃げた。傷つけた……!)
自己嫌悪が、苦いコーヒーの味と共に胃の腑へと落ちていく。何か言わなければ。この空気を変えなければ。そう思うのに、言葉が出てこない。
「……あのさ、先輩は……どうなんですか?」
不意に、雪乃が顔を上げずに呟いた。その声は、先ほどよりもさらに小さく、か細い。
「え?」
「大学生活とか……ちゃんと、楽しんでますか? ……その、彼女とか、できたり……してないのかなって……」
探るような、あるいは単なる好奇心か。唐突な質問に、僕はさらに戸惑う。なぜ、彼女がそんなことを気にする? 僕の平凡な日常など、彼女にとってはどうでもいいことのはずだ。それとも、これもまた、僕を試しているのだろうか。
