空は、どこまでも高く、そして驚くほど無関心に見えた。

 十月の終わりの空気は硝子のように澄み渡り、遠く多摩丘陵の稜線まで見通せる。キャンパスの片隅にある、錆びついた給水塔のシルエットすら、エッチングで刻まれたように鋭利な線を描いていた。

 世界の解像度が、まるで僕の意思とは無関係に、勝手に一段階引き上げられたような、そんな落ち着かない感覚。
 けれど皮肉なことに、クリアすぎる外界とは裏腹に、僕自身の輪郭だけは未だに曖昧なまま、この風景の中に溶け込めずにいた。古い写真のピンボケのように。あるいは、エンドロールが流れ始めた映画館に、一人だけ取り残された観客のように。

 大学という名の、広大で、匿名性の高い砂漠に足を踏み入れて半年が過ぎた。 期待していた自由は、むしろ持て余すほどの空白となって、僕の日常を漂白していく。

 季節は足早に過ぎ去り、あれほど鬱陶しかった夏の湿気は八王子の盆地の底から遠のき、キャンパスを縁取る銀杏並木は、燃えるような黄金色へと、その装いを変えつつある。風が吹くたび、はらはらと舞い落ちる葉は、地面に降り積もり、やがて踏みしだかれて色褪せていく。まるで、僕自身のようだ、と思った。

 周囲の人間は、新しい友人やサークル、あるいは未来への漠然とした希望といった拠り所を見つけ、それぞれの物語を紡ぎ始めているように見えた。カフェテリアの喧騒、講義室に向かう足音、夕暮れのグラウンドから聞こえる掛け声。

 それら全てが、僕にはひどく遠い世界の出来事のように感じられる。僕だけが、過去という名の重力に縛られ、地表すれすれを漂う幽霊のように、ただ時間を浪費している。

 何かを掴もうと手を伸ばす気力も、過去を振り払うだけの勇気もないまま、僕は講義室の後ろの席に身体を沈め、ノートを取るふりをしながら窓の外を眺める。風に揺れる葉の一枚一枚が、異なる階調の光を放ちながら空を舞っている。僕がいつか、どこかに置き忘れてきてしまった、世界の繊細な色彩。それを、ただ羨むように。

 もちろん、理由がないわけではない。僕がこうして、緩慢な窒息にも似た日々を送っているのには。それは、脳裏に焼き付いて離れない、遠い日の残像。

 夏の終わりの、蒸し暑い放課後。誰もいない文芸部室。机の上に置き忘れられていた、数枚の原稿用紙。そこに綴られていた、彼女の言葉の奔流――そして、その圧倒的な才能の輝きの前で、僕のささやかな自尊心と未来への展望が、根こそぎ奪い去られた、あの瞬間。

 思い出すな――。

 瞼を閉じれば、今もあの時の衝撃が蘇る。言葉が持つ、残酷なまでの力。そして、僕自身の限界。
 いや、感傷に浸っている場合ではない。最近、どうしようもなく胸の奥でざわつくものがあるのだ。それは単なる後悔ではない。もっと生々しい、燻るような焦燥感だ。このままではいけない、という警鐘のようなものが、頭の中で鳴り響いている。
「……伯、おい、佐伯!」

 不意に肩を叩かれ、僕はびくりとして顔を上げた。いつの間にか講義は終わっていたらしい。隣には、呆れたような顔をした中村が立っていた。

「悪い、また……」
「また、かよ。どんだけこの教授の催眠術効くんだよ、お前」

 中村は教科書を鞄にしまいながら、からかうように笑う。

「まあ、今日の現代思想論は特にヤバかったけどな。俺も半分寝てたわ」

 彼の屈託のない声が、今は少しだけ羨ましい。僕の意識を奪っていたのは、退屈な講義などではなかった。

「で、この後どうする? ゲーセンでも寄ってく?」
「いや、俺はいいや。ちょっと寄るとこあるから」
「ふーん? 最近付き合い悪いな、佐伯クンは。……まあいいや、じゃあな」

 軽く手を振って教室を出ていく中村の背中を見送り、僕はゆっくりと立ち上がった。空になった講義室に一人取り残されると、自分の抱える空虚さが、より一層際立つような気がした。
 大学の西門を出て、甲州街道へと続く緩やかな坂道を下る。午後の日差しはすでに傾き始め、長く伸びた影がアスファルトの上を横切っていく。駅へ向かう学生たちの流れに逆らうように、僕は一本脇道に入った。目指す場所は決まっている。
 やがて、見慣れた古い看板が目に入った。
 ――『橘書店』。八王子駅北口の喧騒から少し離れた、古くからの商店が軒を連ねる路地裏に、その店はひっそりと息づいていた。
 
 僕がこの街で唯一、深く息ができると感じられる場所だ。年季の入った木製の引き戸は、今日も軋んだ音を立てて僕を迎える。埃と古紙、そして微かなインクの匂いが混じり合った、独特の空気がそこにはあった。それは僕にとって、一種の鎮静剤のような匂いだった。

「……こんにちは」

 入り口近くのカウンターの奥で、店主の橘さんが、いつものように分厚い文庫本から顔を上げた。銀縁の老眼鏡の奥の瞳が、僕を捉えて静かに細められる。彼は何も言わずに小さく頷き、すぐに視線を本に戻した。僕も無言で会釈を返す。

 この店では、この沈黙が心地よい。橘さんは、僕のような口数の少ない学生が、なぜ授業が終わるとここに吸い寄せられるようにやって来るのか、きっと言葉にしなくても理解してくれている。そんな気がした。

 店内は、本の迷宮だ。天井まで届く書架には、新旧様々なジャンルの本が、ぎっしりと、しかし不思議な秩序を持って並べられている。僕はまっすぐ、店の奥にある文芸書のコーナーへと向かった。話題の新刊が並ぶ平台には目もくれず、少し色褪せた書架に並ぶ背表紙のタイトルを、ゆっくりと指でなぞるように目で追う。

 誰にも急かされず、無数の物語の気配に包まれるこの時間を、僕は貪るように求めていた。言葉から逃げ出したはずなのに、皮肉なことに、僕は言葉の海の中でしか呼吸ができないのかもしれない。

 ふと、ある一角で足が止まった。最近増設されたらしい、地元作家のコーナー。そこに、ひときわ目立つ形で平積みされている一冊があった。白いカバーに、淡いブルーのタイトル文字。記憶の中のそれよりも、ずっと立派で、堂々として見える。

『海辺のソラネル』柊 雪乃。

  帯には「異例の新人賞受賞から一年、待望の第一長編!」「天才女子高生作家、ここに降臨」という煽り文句と共に、著名な作家や書評家からの賛辞が、これでもかと並べられていた。 僕は、その本の前に立ち尽くした。まるで蛇に睨まれた蛙のように、動けなくなる。

 すごいよ、君は。本当に

 心の中で呟く言葉は、紛れもない本心だ。

 あの頃から、彼女の才能は突出していた。僕がどれだけ足掻いても辿り着けない場所に、彼女は軽々と立っていた。
 だから、彼女の成功は、祝福すべきことなのだ。 けれど、素直にそう思えない自分がいる。鉛のように重い何かが、僕の胸の奥底へと沈んでいく。それは嫉妬とは違う。もっと個人的で、もっと根深い感情。失われた時間。変わってしまった関係性。

 そして、彼女の輝きを前にした時の、僕自身のどうしようもないほどの矮小さ。 だから、僕はまだ、この本を手に取れない。ページを開くことができない。彼女が紡いだ世界に触れることが、僕の中に辛うじて残っている何かを、完全に破壊してしまうことを恐れているのだ。

 品出しをしていた橘さんが、すぐ近くの通路を通りかかった。僕が雪乃の本の前で硬直していることに気づいたのだろう、彼の動きが一瞬止まったように見えた。だが、彼は何も言わず、ただ静かに僕の横を通り過ぎていった。その沈黙が、かえって僕の惨めさを際立たせるようだった。

 その場から逃げるように、僕は書架の陰へと身を隠そうとした。その瞬間だった。 からん、と乾いたドアベルの音が響き、高いヒールの靴音が店内に響いた。反射的に顔を上げる。そこに立っていたのは――。

 声よりも先に、空気が変わったのを肌で感じた。凛とした佇まい。
 古い書店のくすんだ空気の中で、そこだけがスポットライトを浴びているかのような、鮮烈な存在感。

 数歩先に立つ彼女は、最後に間近で見た高校時代よりも、確かに少し大人びて見えたけれど、その全てを見透かすような強い眼差しは、記憶の中のそれと少しも変わっていなかった。
 
 ――柊 雪乃。 その名前が、舌の上で苦い味を伴って転がる。
 隣には、黒いパンツスーツを隙なく着こなした、いかにも仕事ができそうな印象の女性が立っている。
 おそらく、噂に聞く担当編集者の小野寺だろう

 。彼女は周囲――といっても、この時間、客は僕くらいしかいないのだが――の空気を値踏みするように一瞥すると、雪乃に何か小声で話しかけている。雪乃は、その言葉に小さく頷きながら、ゆっくりと店内を見渡した。そして――その黒曜石のような瞳が、寸分の狂いもなく、書架の間に立ち尽くす僕を捉えたのだ。

 時間が、引き伸ばされたゴムのように、奇妙に伸長する感覚。彼女の瞳に、ほんの一瞬、純粋な驚きの色が浮かんだのを、僕は確かに見た。だが、それは本当に瞬きほどの間のこと。

 すぐにその微かな揺らぎは、完璧なまでのポーカーフェイスの奥深くへと隠され、僕に向けられたのは、公の場で偶然知人に出会った際の、当たり障りのない、ごく微かな会釈だけだった。まるで、僕がそこにいることが、取るに足らない偶然であるかのように。

 心臓が、嫌な音を立てて脈打つのを感じた。思考が麻痺し、手足の先から急速に血の気が引いていく。まずい、と思った。今、この場所で、彼女と顔を合わせるのは。一番見られたくない場所で、一番会いたくない人間に。僕の逃げ場所であるはずのこの『橘書店』が、一瞬にして息苦しい檻に変わってしまった。

 カウンターの奥で、文庫本に視線を落としていたはずの橘さんが、いつの間にか顔を上げ、こちらの様子を静かに窺っている気配がした。老眼鏡の奥の目が、僕の尋常でない動揺と、突然現れた異質な二人組の間に流れる、見えない空気の歪みを、正確に捉えているような気がした。いつもは心地よい彼の沈黙が、今は僕の狼狽ぶりを際立たせるようで、居たたまれなかった。

 逃げ場はない。僕は観念して、浅く、ほとんど無意識に息を吸い込んだ。乾いた喉の奥がひりつく。

「……佐伯、先輩?」
 彼女の声が、静かな店内に響いた。記憶の中の、少し高くて快活な響きとは違う。わずかに低く、落ち着いた、けれどどこか硬質な響き。その呼びかけには、やはり、探るような、確信の持てないようなニュアンスが奇妙に含まれているように聞こえた。

「ああ……柊さん。久しぶり」

 自分の声が、まるで他人事のように遠くから聞こえてくる。平静を装おうとすればするほど、喉が奇妙に締め付けられ、声が上ずる。無様に。

「デビュー、おめでとう。……すごい活躍だね。本、平積みになってたよ」

 口から出たのは、用意していたわけでもない、ありきたりで空虚な賛辞だった。言葉が、意味の重みを失って、ただ表層を滑っていくのが自分でも分かる。情けない。

「ありがとうございます」

 雪乃は短く応じる。その声の温度は、まるで冬の朝の薄氷のように、どこまでもフラットで、感情の色を読み取らせない。僕の言葉など、彼女の耳には届いていないのかもしれない。 隣にいた編集者の小野寺氏が、僕に向かってすっと名刺を差し出した。その動きには淀みがなく、洗練されている。僕は反射的にそれを受け取った。『株式会社 集英社 文芸編集部 小野寺 梓』と印刷されている。

「編集を担当しております、小野寺と申します。柊先生からは、高校時代に大変お世話になったと伺っております」

 流れるようなビジネススマイル。その完璧さが、僕と雪乃の間に横たわる、埋めようのない溝と時間の経過を、くっきりと浮かび上がらせる。僕はただ、「いえ、そんな……僕の方こそ……」と曖昧に口ごもるしかなかった。小野寺氏の視線が、僕の着ているくたびれたパーカーや、色褪せたジーンズを一瞬だけ値踏みするように走ったのを、僕は見逃さなかった。その視線が、無言のうちに僕たちの立場の違いを物語っている。惨めさが、じわじわと胸に広がった。

「先輩も、お元気そうで」

 雪乃が、再び口を開いた。その視線は、僕の顔を捉えているようでいて、その実、僕の肩越しにある書架を見ているかのような、奇妙な浮遊感を伴っていた。まるで、僕という存在が、背景の一部に溶けてしまっているかのようだ。

「ああ、まあ……。大学は、八王子だから」

 何を言っているのだろう、僕は。彼女の活躍を前にして、自分の近況を尋ねられてもいないのに、平凡な大学生活を報告する意味などないというのに。言葉が続かない。何を話せばいい? この若き天才作家に対して、単位を取ることに汲々としているだけの僕が、何を語れるというのだろう。沈黙が、重く、気まずく、のしかかる。書店の古本の匂いと、彼女から微かに香る、知らない種類の香水の匂いだけが、やけにリアルに感じられた。

「あの、本……」

 雪乃が、わずかに躊躇いがちに切り出した。読んでくれたか、と問われるのだろう。その質問が来ることを、僕は心のどこかで予期し、そして何よりも恐れていた。僕の心臓が、痛いほど大きく跳ねた。

「――もちろん! すごい反響だって聞いたよ! さすがだなって! 本当に……君は、やっぱりすごいよ!」

 僕は、彼女の言葉を遮るように、早口でまくし立てた。核心に触れることから逃げるために。賞賛の言葉を重ねれば重ねるほど、僕の内面は空っぽになっていく。読んでもいないのに。その嘘が、自分の声色に滲んでしまっていないか、それだけが気がかりだった。 雪乃の瞳が、ほんのわずかに伏せられたように見えた。長い睫毛が、白い頬に影を落とす。それは諦めか、失望か、あるいは、最初から何も期待していなかったという諦観か。僕には判別できない。ただ、彼女の纏う空気が、さらに冷たくなったような気がした。

「……そうですか」

 彼女は、それ以上何も言わなかった。その短い肯定とも否定ともつかない言葉と、その後の沈黙が、僕の嘘と空虚さを、静かに、しかし決定的に暴いていた。

「それでは、そろそろ時間ですので」

 絶妙なタイミングで、小野寺氏が冷静な声で会話を断ち切る。まるで、これ以上、この不毛で痛々しいやり取りが続くのを防ぐかのように。あるいは、作家・柊 雪乃の時間を、僕のような人間に割くのは無駄だと判断したかのように。 雪乃は、僕に再び軽く一礼すると、編集者に促されるまま、背を向けた。その背中は、僕が記憶しているよりもずっと小さく、そして張り詰めているように見えた。人々の視線の中を、彼女たちは足早に出口へと向かう。

 僕は、ただ、その場に立ち尽くしていた。遠ざかっていく二つの背中を、目で追うことしかできない。彼女が残していった、甘く知らない香水の残り香と、僕自身の言葉の残骸の中で。
 彼女たちの姿が、古びた引き戸の向こうに完全に消えると、まるで魔法が解けたかのように、書店の止まっていた時間が再びゆっくりと流れ始めた気がした。

 棚に並ぶ本の背文字が、壁にかけられた古時計の振り子の音が、そしてカウンターの奥でページをめくる橘さんの微かな気配が、急に現実味を帯びて僕の感覚に流れ込んでくる。

  しかし、僕の中では、何かが決定的に終わってしまったような、あるいは、見たくない現実を真正面から突きつけられてしまったような、そんな鈍い痛みを伴う感覚があった。胸の奥に、冷たくて重いものが沈んでいく感覚。

 自己嫌悪と、そして、もう決して手の届かない過去への、どうしようもない喪失感。かつて当たり前だったはずの時間が、遠い銀河のように隔たってしまったことを、思い知らされる。

「……知り合いかい?」

 不意に、背後から橘さんの静かな声がした。いつの間にかカウンターから出てきて、彼は僕のそばに立っていた。その声には、過度な詮索も、同情もない。ただ、事実を確認するような、淡々とした響きがあった。

「あ……はい。高校の、後輩で……」

 僕は俯きながら、かろうじて答えた。彼の顔をまともに見ることができなかった。

「大変そうだったね。顔、真っ青だったよ」

 橘さんは、心配そうに僕の顔を覗き込む。その老眼鏡の奥の目は、穏やかだが、全てを見通しているかのようだ。

「いえ、そんな……ちょっと、驚いただけです」

 見え透いた嘘だと自分でも分かっていた。
「まあ、色々あるさ、若い頃は」橘さんは、僕の嘘を責めるでもなく、ただ静かに言った。「……あの子、柊雪乃さんだろ? 今、一番売れてる作家さんだ。うちにもたくさん問い合わせが来るし、サイン本が手に入らないかって、よく聞かれるよ」

 こともなげに語られるその事実に、僕は改めて現実の重さを突きつけられる。僕が感傷に浸っている間にも、彼女は手の届かない場所へと駆け上がり、世間はその輝きに熱狂しているのだ。僕だけが、過去に取り残されたまま。

「……そう、なんですね」

 力なく呟くのが精一杯だった。僕が知っている柊雪乃と、世間が知る柊雪乃との間には、もう埋めようのない距離がある。 橘さんは、それ以上何も聞かず、ただ「無理するなよ」とだけ言って、ゆっくりとカウンターの中に戻っていった。

 その短い言葉と、変わらない静かな佇まいに、少しだけ、本当に少しだけ、張り詰めていたものが緩んだような気がした。この店が僕の避難場所である理由は、この橘さんの、深入りしない優しさにあるのかもしれない。

 僕は、もう一度だけ、あの白い背表紙に目をやった。柊 雪乃『海辺のソラネル』。そのタイトルが、やけに皮肉めいて目に映った。海辺どころか、僕と彼女の間には、深く暗い、途方もない海溝が横たわっているように思えた。 結局、僕はその日、目的もなく立ち寄っただけのはずの『橘書店』で、何も買わずに店を出た。ひんやりとした夕暮れの空気が、火照った頬には心地よかった。

 甲州街道を駅とは反対方向へ、当てもなく歩く。日はとっぷりと暮れ、街灯や家々の窓から漏れる明かりが、足元の濡れたアスファルトを頼りなく照らしていた。家路を急ぐ人々の波が、僕の横を足早に通り過ぎていく。誰もが確かな目的地を持っているように見えるその流れの中で、僕だけが進むべき方向を見失った、孤独な漂流者のようだった。 今日の出来事が、何度も頭の中でリフレインする。雪乃の冷たい視線。小野寺のビジネススマイル。
 
 僕の口から出た空虚な言葉。そして、僕が結局、何も伝えられなかったという事実。

 僕の人生という、退屈で凡庸な映画のエンドロールは、きっと空白のまま流れていくのだろう。そう思った。かつて夢見たはずの自分の名前も、そして、隣にいるはずだった彼女の名前も、そこにはあってくれない。

 自室のアパートに戻っても、書店の出来事が、まるで網膜に焼き付いた残像のように、思考から離れなかった。シャワーを浴び、ベッドに潜り込んでも、思考は冴えたままだ。目を閉じれば、雪乃の顔と、書店の白い照明、そして僕自身の情けない姿が交互に明滅する。あの時、僕は本当は何を言いたかったのだろう。「面白かった」という言葉の、その先に。彼女との関係が、どうなってほしかったのだろう。答えは、暗闇の中に溶けていくばかりだった。