はじまりは蝶

「ゴホッゴホッ。してやられた」
「鼻がっ……バッカショイッ!」
「うるさいぞタタン。うわ、けむっ」
「夢碧さんどこにいる?」

 フランクさんたちの声を聞きながら、居場所がばれないように俺は小声を出した。

「尾長くんこっち」

 近くにいるはずの夢碧さんに手を伸ばすんだけど、一向に掴めないんだ。うううっ、煙臭い。
 俺は鼻をつまんだまま声を出した。

「わかんないよ。どこ?」
「待って、今行くから。きゃあっ」

「ゆ、夢碧さんっ⁉」

 俺はフランクさんに夢碧さんが捕まっちゃったんだと思ったけど、「お嬢様どうされましたっ」ていう焦り声で、そうじゃないってことがわかった。

「夢碧さん、夢碧さんどうしたのっ」
「タタン、煙を吸い取るんだ」
「は、はいっ」

キュィイイイイイイン

 視界が開けてくると、タタンが鼻をつまみながら、片手で掃除機のようなものを空中で動かしているのが見えた。
 掃除機って言ったけど、俺のうちにあるようなのじゃなくて、トンカチ頭のシュモクザメを、まんま振り回しているような感じのやつ。

 「ごほっ、夢碧さんどうしたの? 大丈夫なのっ?」
 「お嬢様っ、ご無事ですか、ゴホッゴホッ」

 ジェット機みたいな爆音が響く中、俺たちは必死で声を出した。
 俺の近くには夢碧さんはいない。
 トンカチ頭の機械に、煙が吸い込まれていく。
 目を凝らすと、少し離れたところに黒っぽい塊が見えてきた。

 「夢碧さんっ」
 「お嬢様!」

 さっき夢碧さんがトイレに行った簾の近くで、男の人に夢緑さんが捕まっていた。
 あんなに所にいたんじゃ、いくら手を伸ばしても届くわけがない。

 夢碧さんは後ろ手に腕を掴まれていた。あの男の人は、確か端っこでテーブル席に座ってた人だ。
 背を向けて座っていたから顔なんてわからないけど、フランクさん以外にお客さんはいなかったから、この人しかいない。

 夢碧さんは体をよじらせて逃げようとしているけど、子どもの力じゃ全然敵わない。

 「お嬢様に何をしている貴様っ」

 フランクさんの声に俺はびくっとした。

 「何って捕まえたのさ、クックックッ」

 ピキリ、とフランクさんが額に筋を立てた音が聞こえた気がした。
 男の目は、弧を描くように笑っているのに、なんだか笑ってないように見えた。
 まさに、目にハイライトが入ってないっていうのは、こういう人のことをいうんだな。それが恐ろしくて、不自然でもあった。

 「てめーっ、一体何者だ」

 サドが続けて言い放つ。

 「俺かい? おれっちはな、ヨモヤマ星のお尋ね者よ」

 聞き間違いかと思ったんだけど、ヨモヤマ星ってやっぱりこの人は言ってたんだな。
 県とか市とか町じゃなくて星? っていうのがよくわかんないや。そういう場所が日本にあるんだろうか。
 少なくとも、俺は今まで聞いたことがない。
 もうちょっと、社会の授業を頑張っておけばよかったかもしれない。

 フランクさんたちを見ると、やっぱり驚いた顔をして固まっている。

 「何っ、お前まさかっ」

 え、フランクさん何か知ってるの?

 「そう、おれっちはヨモヤマ星のネルヴァル様だ」

 わからん。知らないうちに、この土地は物凄く国際化された市になっていたらしい。
 一日でこんだけ沢山の海外の人にあったのは始めてだ。
 まあ最近旅行客が多いっていうもんな。俺は、聞いても全くもってピンと来なくて、黙っている他ない。

 「でもネルヴァルは監獄の中なんじゃ……」

 遠慮がちにタタンが声を出した。

 「けっ、あんなもんおれっちみたいな天才には朝飯前よ」
 「お嬢様を離せネルヴァル!」

 刑務所からの脱獄囚だなんてとんでもないやつだよ。
 超危ないって。早く夢碧さんを助けて。
 フランクさんたちに、俺は視線を送る。
 すると、フランクさんたちへの興味を失ったように、ネルヴァルが俺に視線を移した。
 ひょえええ、と俺は心の中で悲鳴を上げた。

 ネルヴァルのギロギロした黄金の目が、舐めるように僕を見た。

 「へ~ボクちゃんそうなんだね」
 「な、なにがですか?」

 くそぉ、夢碧さんの前だって言うのに声が震えてるんだ。

 「可哀そうにね、何が何だかわかんないよな~。でも仕方ない、発展途上惑星の住人なんだもの、ねぇ?」

 ネルヴァルが舌なめずりをする。何の話なのかさっぱりだ。

 「おいやめろっ」

 フランクさんが叫ぶのをネルヴァルはちらと見ると、今度こそ面白そうに眼を細めた。

 「そんな低能のお前に、この俺様が特別に教えてやろう」

 「なにを教えるって言うんだ」と言い返したかったところで、俺は言葉を失ってしまった。

 ネルヴァルの体がぼこぼこと蠢き始めた。
 ホットケーキを焼くときに、生地がぷつぷつなるときみたいな具合だ。顔が横長に変形していく。
 盛り上がった皮膚から鱗のようなものが生まれてきて、全身が爬虫類のような鈍く光る色に変わった。
 ズボンを突き破って、トカゲのしっぽみたいのが出てきた。先っちょに爪みたいな尖ったのがついている。

 次の瞬間、ネルヴァルの首がろくろ首みたいにオレの方に伸びてきた。

 「うわぁああああああっ」

 今度こそ、俺は絶叫した。そして大変情けのないことに腰が抜けてしまった。
 おかげで上手く力が入らなくって、死に物狂いで後ろに手をついて下がった。

 ネルヴァルの頭がどんどん近づいてくる。手がもたついて、後ろに下がるテンポが遅れた。
 とん、と頭がさっき座っていた椅子に当たって動けなくなる。

 「うぅ……」

 真ん前にネルヴァルだったものの顔がある。獣のような独特な臭いが鼻を突いて少し顔を背けた。

 「はあっ、ばっ、化け物っ」

 思うように息が吸えなくて、走った後みたいに呼吸が乱れた。ネルヴァルは俺を見て、満足そうに笑った。

 「あは~愉快愉快。この瞬間が快感なんさ。けどよ~化け物ってのはないよな~えぇ?」

 言いながら顔が左右にゆらゆら揺れる。

 「俺はな」

 ネルヴァルは首をろくろ首みたいに上に伸ばして、俺を見下げるようにして見た。
 何をされるかわからない恐怖に、俺は必死で体を仰け反らせた。

 「おれっちはれっきとしたヨモヤマ星の住人、ネルヴァル様よ。僕前さんにとってみりゃ、宇宙人てやつだな」
 「うちゅう、じん?」

 俺は頭がおかしくなってしまうかって思ったね。いや、既に間の前で見ているこの光景事態おかしいのだけれどもさ。
 宇宙人っていうのはあれか。未確認生物ってやつ。円盤みたいのに乗ってきて、マイフレンドって人差し指を合わせてピカーンと光る、みたいなやつか?
 でも、このネルヴァルというやつ、どう見ても友好的な関係を築いてくれそうにないぞ。

 「おい貴様、条例違反だぞ」

 サドがポケットから銃みたいなものを取り出して、ネルヴァルに構えた。
 これも刑事ドラマに出てくるような形じゃないけど、あれは確かに銃だ。

 「やめるんだサド」

 フランクさんは、銃を隠すようにセドを制した。

 「オールバックの言うとおり、その危なっかしいもの、今すぐに下げてくれ。犯罪者に条例も何もないぜ。第一こっちにはお嬢さんがいるんだから、さっ」

 そう言って、ネルヴァルはしっぽを夢碧さんの体にスルスル巻きつけると、しっぽの先を首元に押し当てた。

 「うっ」

 夢碧さんの傷一つない肌に、紫の部分が食い込んで、夢緑さんは喉の奥で呻いた。

 「貴様っ!」
 「しぃーーーー」

 ネルヴァルが一瞬しっぽをに力を入れ、また夢碧さんが苦しそうに声を上げた。
 こんなの卑怯だ。俺は、自分史上一番睨みを効かせてネルヴァルを見上げた。震えてたけど。

 「おぉ~怖い怖い」

 そんなこと思ってもない癖に、ネルヴァルはククッと笑って首を上下に大きく動かした。

 「あは~。ねえ君、知りたいかい?」

 俺は無言でネルヴァルを見上げた。

 「君だけ知らされてないんだ。これってひどい話だよな?」
 「なに、が?」
 「おいやめろっ」
 「ならお前さん方から言うか?」

 フランクさんたちを見ると、気まずげに目を逸らされた。明らかに何かを隠されてる。
 確かに、フランクさんと夢碧さんが知り合いだったことは知らなかったけども。ネルヴァルが宇宙人だってことも。

 「ほらね? 一人だけ知らないなんて不平等だもんな~~」

 ネルヴァルが、二つに割れた舌をチロチロと覗かせる。

 「なぁ?」

 ネルヴァルの瞳がぎらついて俺を見つめる。知りたかったことは、何度も聞こうとしたけれど、誰も教えてくれなかった。
 関係ないとまで一喝されちまったんだ。お前は部外者だって、面と向かって言われてるようなもんだよ。

 けど、もしかしてこいつなら俺の知りたいことを教えてくれるかもしれない。
 敵だけど、最も早く色々と知ることができるかもしれないんだ。どうせ夢碧さん以外はみんな敵。

 そう思うと、ネルヴァルのは魅力的な誘いに聞こえた。
 「やめろっ」と叫ぶフランクさんの遮りも、俺には聞こえていないも同然だった。

 「聞きたいだろ?」

 静かに俺は頷いた。ネルヴァルの口が、口裂け女のように、にぃっと横にひかれた。