はじまりは蝶

 フランクさんは、残像が見えるレベルの速さで夢碧さんに駆け寄った。

 「お嬢様、本当にお嬢様なんですね」

 フランクさんは、夢碧さんの脇に手を入れて持ち上げたままクルリと回って、俺から2メートルくらい離れた所に彼女を降ろしたんだ。なんなんだ一体? 

 俺はやっとのことでジュースを飲み込むと、椅子から降りて二人を眺めた。
 フランクさんは、よくご無事でとか何とか言いながら、夢碧さんの頭や肩に触れてから持ち上げて、「本物だーー!」と歓喜の声を上げた。
 フランクさんが探してた人って夢碧さんなの?

  夢碧さんはフランクさんの名前を何回も呼んでるし、やっぱり二人は知り合いなんだ。
 もっとも、夢碧さんの声は興奮したフランクさんの耳には全く入っていないんだけど。

 「ああ本当に良かった。これで! これでよーやくフランクは救われます。お嬢様、とても心配していたんですよ」

 お嬢様かー、夢碧さんの無垢な雰囲気はそういうことだったんだと妙に納得できた。
 でも、行方不明って、それも一年もの間ってどういうことなんだ?
 フランクさんと、夢碧さんのやりとりは平行線だ。全く意思疎通ができていない。

 ここで「あの~」なんてったって、少しも俺の声なんて聞こえやしないんだな。
 一応言ってみたんだけどね、こういう時は大きい声が出ないもんなのよ。
 結局声が掠れちゃったんだ。ちぇっ。

 で、仕方がないからさ、フランクさんの席にある、さっきくれなかったチョコレートの皿を引き寄せて、次から次へと口に運んでやったね。
 ほんとうの事言うとさ、自分だけ仲間外れにされてる気がして、気に食わなかったんだよ。
 実に子供っぽいことをしてるってわかってはいるんだけどね。こういう時は口に物を運ぶくらいしか方法がないんだな。

 それでびっくりしたんだけど、これが今まで食べた中で最も不味いチョコレートだったんだ。こんな代物食べたことがない。ドロドロした苦いのが入ってて、いやまいったまいった。トマトジュースはもうないし、マスターも奥に行ったきり戻ってこない。今すぐ飲み物で流し込みたい気持ちになりながら、俺は二人を見続けた。

 「お嬢様、皆も心配しています。今すぐにでもここを出ましょう」
 「フランクッ」

 フランクさん、相変わらず夢緑さんのことが目に入ってない。

 「さあ、船はもう用意してあるんです。そうだそうだ。あいつらも今すぐ呼び戻さないと」
 「フランクッたら!」

 夢緑さんは両手をフランクさんの頬に伸ばすと、無理やり自分の方顔を向かせた。

 「あっはいなんでしょうお嬢様」

 ここでフランクさんは、初めて夢碧さんを見たんだな。

 「何度も言ってるけど私、帰らないから」
 「そんなあああ」
 「だから言ってるじゃないっ」
 「というと、お嬢様の想い人というのは……?」

 ギョッとしたような顔をしたフランクさんと目が合った。

 「そう、彼が私の好きな尾長くん」

 こっちに夢碧さんがやってきた。輪に入る準備なんてちっともしてなかったんだけどね、手を引かれてフランクさんの元に連れてかれた。

 考えてみると、手を繋ぐのは二回目だな。なんて、ふわふわした気持ちになって、手も多分顔も赤くなった。

 「尾長くん……」

 夢碧さんの言葉をオウム返しにしたフランクさんと、苦いチョコレートを必死で嚙み砕いている照れ気味の俺は、数秒間見つめ合った。
 まさか夢碧さんと知り合いだとは思わなかったからさ、恥ずかしいんだよ。

 フランクさんは、放心したように俺を見ていたけど、途端に魂が戻ってきて表情を一返させた。

 「お、お嬢様はこんなションベン臭いガキが好きなんですか?!」

 「なんだって」って言いたかったんだけど、口ん中がチョコまみれでね、もごもごしたっきり叶わなかった。

 「フランク、尾長君はションベン臭くなんかないからね」

 もちろんそうなんだけど、そうなんだけどさ。別にそこをフォローして欲しいわけじゃないんだな。俺は急いで、この世の不幸を詰め込んだような味のしたチョコを飲み込んで言い返した。

 「そうだぞ! それに応援するって、さっき言ってたじゃないですか」
 「えっ、本当なのフランク?」
 「違う違う違う違う、それとこれとはわけが違うんだよ坊主」

 なぬぅ。友情が砕けた気がした。俺はがっかりした顔をしてたんだと思う。少し表情を和らげて、諭すようにフランクさんは言った。

 「確かに俺は応援してる、心の底からしてるさ。だがお嬢様は例外だ。いいか坊主、もっと外に目を向けてみろ。青春ってのはな~、例えると空に浮かぶ小さな星のような一瞬の瞬きを」
 「もう、フランクのわからずやっ」
 「ああ、お嬢様っ」

 夢碧さんは、フランクさんの長くなりそうな話を遮ると、俺の左腕に手を回した。ちょっとばかりやわらかい感じがして、俺の思考回路が僅かに停止した。

 「何度も言ってるけど私、尾長君が好きなの」
 「お嬢様……」

 ため息をつくようにフランクさんは言った。

 「俺も夢碧さんが好きなんです」

 再び思考が動き出して、俺も負けじと大きな声で言った。

 「ダメだ、ダメだ。今すぐ別れるんだこの分からずやっ」
 「いやだっ!」

 これだけは絶対に譲れないって、余計に俺は思った。

 「別れてください!」

 と、フランクさんは今度は夢碧さんに言う。

 「だから嫌だって言ってるでしょっ」
 「いいから二人とも別れろおおおお!」
 「「いやだったらいやだぁああああ!」」

 力を出し切って声を出してしまったばかりに、両者ともぜーぜー息を荒げるしかない。
 だけど、目だけは絶対に逸らさなかった。
 逸らしてしまった瞬間が負けだって、直感的に思ったからね。
 夢碧さんとこんなに心が通じ合ったんだ。それなのに離れるなんて考えたくもない。

 少し呼吸が落ち着くと、頭を掻き上げてフランクさんは唸った。

 「とにかくだな、何をどう言ったってこの決定は変わらん。いいか。お嬢様はなぁ、嬢様はいずれ……」

 バカアアアアアックショイッ

 でかいくしゃみの音と共に、あんなに重そうだった『とどのつまり』のドアが、いとも簡単に倒れた。しかも内側に。

 「なーにやってんですか、タタン。いい加減その変なくしゃみをやめてください」
 「すびません。あのおばあさん、変な粉撒きませんでした? ハクショイ、バクショイ、アークショイッ!」

 あの教室に来た二人組がもう追いついてきたんだ。あの二人の名前はサドとタタンだった! なんで今まで思い出せなかったんだろう。

 サドは、入口付近でくしゃみを繰り返すタタンを置き去りにして、ツカツカこちらに向かってきた。
 どうしよう、捕まっちゃう。
 思いつつも、俺はその場から動けなかった。けど、サドは俺たちの方は見向きもしなかった。

 フランクさんの前に立つと、サドは精一杯顎を上げて頭一個分上のフランクさんを睨みつけた。

 「よぉー。お前、こんなとこで何やってんだよ」

 俺はそれを聞いてぎょっとした。フランクさんも彼らと知り合いなんだ。

 「見ての通り任務中だ」

 フランクさんはさっきまでの表情と一変して硬い表情で言った。

 「見ての通りって……、ああっお嬢さま!」

 始めて気が付いたように、サドがこちらを見て目を丸くした。夢碧さんがびくっとして俺の後ろに隠れた。俺も、さっきと同じように手を広げて、夢碧さんを傷つけさせないようにガードした。もうここには俺たちの味方はいない。

 「おい、何手間取ってんだよ」

 サドは、覗き込むように夢碧さんを一瞥してからまたフランクさんを睨んだ。

 「お嬢様を説得中だ。だいたい確保はお前らの役目ってことじゃなかったのか?」

 言われた途端、サドは居心地の悪いように身動きして口ごもった。

 「確かに学校にお嬢様がいたから、連れ帰ろうとした。そしたらあいつがポカした」

 親指でサドがくいっと後ろを指すと、鼻をすすりながら、タタンがこちらに駆け寄ってくる。

 「隊長~。さっちゃんがね、ボクのことを叩くんですよ~」
 「お前、さっちゃんはやめろって言っただろ」
 「うえーーん、またやられた」
 「サドお前……」

 責めるようにフランクさんが見ると、サドはツーンと上を向いた。

 「ア、アンタたち一体何者なんだっ」
 「坊主には関係のない話だ」

 冷たくフランクさんにあしらわれて、俺はショックだった。あんなに気さくに話してくれたフランクさんを、敵だと思いたくない自分がいるんだ。

 フランクさんの言う通り、夢碧さんが一年も姿をくらませていたんだとしたら、よっぽどの理由があるに違いない。目的はなんなんだろう。夢碧さんに目線を向けたけど、じっと強い目でフランクさん達を見つめているだけだ。何にも聞けそうにないや。

 今頃になって、チョコレートの苦みが更に酷いことになって、口の中が宇宙を制したみたいな味になった。

 「やれやれ、これだから庶民は役に立たん。フランク、この任務はオレが引き受けた。いいかよく見とけよ。こういう部類の交渉は、粘り強さというものがものをいうんだ。格の違いというものをお前に見せつけてやる」

 サドはフランクさんを指差すと、とびっきりの笑顔で俺の後ろにいる夢碧さんに話しかけた。

 「さあお嬢様、私たちと一緒に帰りましょう」
 「嫌!」
 「まあまあそうおっしゃらずに」

 サドは、懐に飛び込んでこいと言わんばかりに腕を広げた。

 「嫌だったら嫌!尾長君と一緒にいるっ」
 「そんなこと仰らずに。行きましょうよお嬢様、ね?」

 と、今度は片膝を立てて腕を広げてみせる。

 「い、や!」

 すくっと立ち上がると、サドはフランクさんを振り返った。

 「おいこれどーすんだよ」
 「格の違いはどうした格の違いは」

 フランクさんは、呆れたように右手を腰に当てる。

 「うるせぇ! だいたいオレが隊長になるはずだったんだぞ。俺は、なんてったって貴族出身だからなあ」
 「なるほど、成績が伴わなかったんですね」
 「いらんことは言うなタタンッ」
 「うぇーーん」

 ざ、残念なやつすぎる。フランクさんはもちろん、チョコのまずさに悶絶していた俺も半目になった。

 「とにかく」

 夢碧さんが言葉を発した途端、シンと静まり返る。

 「私は帰らないから」

 俺と夢碧さんは、素早くカウンター側に後ずさると三人と距離をとった。フランクさんが顎をしゃくると、タタンとサドが両側から詰め寄ってくる。

 「夢碧さん、どうしよう」
 「私に任せて」

 夢碧さんは、俺から少し離れると、両手を制服のポケットに突っ込んでから手を高く掲げた。

 「あ、お嬢様何を……」
 「えいっ」

 ボフンッ!

 ラムネの瓶に入ってるような、空色がかったビー玉のようなものが地面に立て続けに落ちると、一瞬にして視界が白い煙で塗りつぶされた。