「ここ、だよね?」
わかってはいるんだけど、夢碧さんに確かめずにはいられなかった。
木造りで『とどのつまり』と書かれた看板がかかる店は、バーにも関わらず和装なのがまず不釣り合いだった。
ドアの下の隙間から、マイナスイオンみたいに勢いよく異様な空気が放たれている気がする。
霊感センサーがビビッと働いて、俺はゴクリと息を呑んだ。
恐る恐る取っ手を握って固まっていると、じわっと手の甲が温かくなった。
「尾長君、一緒に開けよう」
「うん」
俺は嬉しいのと恥ずかしいので、むず痒い気持ちになりながら夢碧さんに頷いた。
ごつごつした太い取手を、せーので一緒に引いた。
キキイイイイイイ
亀が首を伸ばすときみたいに、なるべく体を外に残しながら低い姿勢で中を覗き込んだ。
何故って、そりゃいつでも逃げ出せるようにさ。
「カランカラン」と、頭上から俺たちの来店を知らせるベルが鳴り響く。
薄暗い室内は以外にも広くて、外見に似合わず思い切り西洋風だったから、違う世界に飛ばされてしまったかと思った。
「いらっしゃい、お二人様ですか?」
はっとして声をした正面に目を向けると、目深に帽子を被ったマスターらしき男性が、ボトルが壁一面に並んだカウンター越しから話しかけてきた。
これがまた、渋いっていうか、俺が到底できないような味のある声をしてるんだ。
「あ、はいっ」
俺がしゃんと姿勢を正すと、毬が連なっているような、暖簾みたいのに頭が当たって地味に痛かった。
店内の雰囲気に全く合わないそれを見上げて、二、三秒マスターがこれで何を表現しているのかを考えようとした。
けどやっぱりよく分かんなくて、もう一度頭を下げてから、俺たちは中に入った。
見るもの全てが新鮮で、いつもと違う空気にちょっとばかし気後れしてしまった。
沢山キョロキョロしてしまうが、止められない。
薄暗い店内にはジャズがしっとりとかかっていて、低い椅子と革の椅子がセットになっている席がいくつかあった。
端っこの方に、男の人がワインを飲みながら背を向けて座っていた。
俺たちは、どうすればいいのかなんてよく分からないから、とりあえずマスターがいるカウンター席に向かった。
「お好きなところへ、どうぞ」
マスターは、帽子の下でニコッと笑ったと思う。見えないけど。
どう考えても俺たちじゃ場違いだと思ってたから、ここは君たちの来る場所じゃないって言われなくて安心した。
後ろから夢碧さんが顔を出して、「あの、すいません」とマスターに遠慮がちに話しかけた。
「はい」
「えっと、お手洗いはどちらにありますか?」
「右後方の、金魚の簾がかかった奥にあります」
「簾?」
言われた通りみると、シックな雰囲気とは明らかにミスマッチな、ニシキゴイが描かれた簾がかかっていた。さすがマスター。
この人は、どういうコンセプトで作ったんだろうか。
「ありがとうございます。尾長くん、ちょっとごめんね」
「あっ、いやいやいやいや。どうぞごゆっくり」
俺ははっと返事をして、夢碧さんを見送ってから肩を落とした。
だってさ、何してんだろ俺って思うじゃん? 大人の男ってのはさ、こういうことをスマートに聞くべきなんだよと思うんだよ。
誰に聞いたわけでもないけどそう思うんだ。
ふうっとため息をつくと、今の俺よりはるかに大きいため息が聞こえてきた。
聞こえてきた方向を見ると、カウンターの一番左奥の席に、ズーンと音が聞こえんばかりに、項垂れている男の人が見えた。
顔が良く見えないのが余計に興味が掻き立てられて、俺はスーッと近くに近づいていった。
男の人は、テロテロのハワイアンなシャツに、七三分けで後ろに髪を撫でつけた髪形をしている。
服と髪への気合いの入れようが不釣り合いだ。
いわゆるちょー柄が悪い感じだ。俺は、彼を極悪オールバックさんと命名することにした。
机の周りには、セクシーなお姉さんたちの写真が広げてあって、ちびりちびりと中途半端に口をつけたグラスも氾濫している。
極悪オールバックさんはうんうん唸って、時折しゃっくりをしながら、頭を抱えて項垂れている。
彼の周りの空気が淀んでいる気がするぞ。
そうだ、この人が負の大魔神だ!
「ああ? なんだぁ?」
「ああっ、すいません」
しまった、いつの間にか真横で呟いてしまってたらしい。
極悪オールバックさんは振り向いた瞬間目を引ん剝くと、今までの様子がウソみたいに、素早く動いてセクシー女優の写真を机の端にまとめた。
極悪オールバックさんは、数回咳ばらいをして言った。
「な、なんだね君は」
「ええっとそのー、ため息をしていたから大丈夫かなーと思って」
「はぁああああーーーー」
柄悪オールバックさんはひと際大きいため息をつくと、テカテカにセットした髪を後ろに掻き撫でながら、椅子に体重を預けた。
「坊主~これが大丈夫そうに見えるかい?」
「いえ、全然」
「だよなぁあああ~」
極悪オールバックさんは、天を見上げて気の抜けたよう声を出した。
顔は赤くないけど(むしろ青緑っぽく見える。大丈夫だろうか)、興奮気味に声を上げる様子からすると、かなり出来上がっているように見えた。
父さんも普段はあまり話さないけど、お酒を飲んだ時だけ狂ったように話し出すからわかるんだ。
あまりに別人だから、僕はそん時だけ別の誰かが降臨していると思ってるんだけどさ。
極悪オールバックさんはお酒を飲もうとしてグラスを傾けたんだけど、あまりに急な角度だったもんで見事にむせてしまった。
一口飲むごとにせわしなくグラスの種類を変えてるもんだから、目の前で手品を披露されているみたいだ。
「坊主~良かったら俺の話を聞いてくれないか?」
あれ、なんか全然大魔神じゃない? 実際俺も落ち込んでるから影響がないのかもしれない。
全然悪い人ではなさそうだし、夢碧さんもトイレに行ってるから、それまで丁度いいかもしれない。
俺はちょっと間の後に、「ええ、いいですよ」と実にスマートな返事をした。
「君、いいやつだな~。ちきゅうもまだまだ捨てたもんじゃないね。お~い、ますたぁ~。この坊主に一杯」
「フランクさん、先ずはその子を座らせてあげないと」
戸惑っていると、渋いマスターが近くに来て極悪オールバックさんもといフランクさんに言ってくれた。
「あはーはー、そうだった、そうだよな。まあ隣、座んなよ」
黒髪に黒い瞳をしているけど、フランクさんって名前的にやっぱり海外の人なのかな?
言われるがままに、でもこわごわと少し高めの丸椅子に腰かけた。
足が宙にプラプラするんだけど、宙に浮かないようになるべく浅く座った。それでも足の長さが足んなかったけど。
「ええっと、俺お酒はちょっと」
「そりゃ見りゃわかるさ」
内心ホッとしたね。
「あの、お酒以外ってあったりしますか」
「もちろんございますよ。オレンジジュース、トマトジュース、ミルクティーのご用意があります」
とマスター。
「あの、ちなみにお値段っていうのは」
「なんだ坊主、そんなもん気にしてたのか。俺の奢りだよ、お・ご・り」
「え、でも」
母さんには、人にお金を借りるなって言われてるし。
「フランクさんはこうなると、言うこと聞きませんから」
マスターの顔は帽子で見えないけど、柔らかい表情をしている気がした。
思ったより優しいおじさんって感じなのかも。フランクさんがそれに対して満足そうに頷いている。どうやら本当みたいだ。
「がーはっはっはっ、そうだぞ。これも社会勉強だ、な?」
フランクさんに背中をバシバシ叩かれて、どうしようかと俺はマスターの方を見ると、一度深く頷いてくれた。
「えっとじゃあ、トマトジュースで」
大人のやり取りはこうやって始まるんだな、と俺は感心した。ほんとはオレンジジュースが良かったんだけど、夢碧さんの手前子供っぽい気がしたからやめたんだ。
大人の世界に入るなら大人なものをってね。
それにしても、中学生が飲めるものがあるとはいえ、三つともずいぶん極端なチョイスだ。やっぱりマスターは変わった人なんだな。
「かしこまりました」
グラスのそばにカラフルな袋に包まれたチョコレートが盛られた皿を眺めていると、「おおっとー、君はもうちょっと大人になってからな」とフランクさんに皿を遠のけられた。
チョコレートに子どもも大人もあるもんかと思うんだけどさ。
「ここだけの話なんだが……」
フランクさんはオレの耳元に手を寄せたから、俺も近づいた。
「俺はさ、今任務中なんだよ」
「はぁ、そうなんですか」
それなのに酒を飲んでいるのかって、ほんとのとこは思ったよ。けど懸命にも俺は黙ってたね。秘密ってやつは得意なのさ。
「約束した期限が来たもんでね、ある人物を連れ帰りに来たんだ。ところがどっこい」
「どっこい?」
力強くフランクさんは手のひらでテーブルを打つと、目を潤ませた。
「ここが気に入ったから帰らないって、そういうんだぁああああ」
フランクさんは一気にグラスを煽ると、そのまま机にグラスを振り下ろした。
俺は、あまりの音の大きさにグラスが割れるんじゃないかと身構えたんだけど、何にも起きなかった。
よくよく見ると、ガラスだと思ってたのは実はプラスチックだったようなんだ。
ちょうどマスターがトマトジュースを持ってきてくれたところで、そっと顔色を伺うと、仕方ないというように首を振って、店の奥に姿を消してしまった。
きっと、フランクさんに破壊されてきた歴代のグラスたちを思い出しちゃったんだろうね。
隣では、大の大男がしくしくしてるもんだから、逆に俺は落ち着いてきちゃって、どうも元気づけないとって気がしてきた。
「なんだかその、色々と大変なんですね」
「そうだろ? そう思うよな」
圧が、すごい。一生懸命頷いていると、フランクさんが「乾杯」とグラスを掲げたから、俺も真似をする。
「説得してもいうことを聞かない。あの手この手ですり抜けて、しまいには姿をくらまして行方不明さ」
「えっ行方不明になったんですか?」
思ったよりも事態は深刻みたいだ。
「そうなんだ。かれこれもう一年近くになる」
「そんなにっ?!」
これはただ事じゃないって俺は思ったね。
「とんでもなく頭が良くてね。見つけられずに今この通りさ」
「あの、それで警察には行ったんですか?」
「え、警察? ハハハハハ、事はそんなに単純じゃないのよ」
「そう、なんですか……」
ムムム、よくわからん。世の中には、俺にはよく理解できないことがまだまだあるらしい。
「連れ帰らなきゃ、俺がとばっちりを食らうってのに」
「俺の首が危ない」と連呼するフランクさんの仕事は、そうとうな忍耐を要するものなんだろうなと俺は思った。
大人の世界って本当に謎だらけだ。
「あの、良かったら俺話聞きますよ」
フランクさんには酷だけど、自分と全く違う世界にちょっと興味があるんだ。
学校の勉強は全然好きじゃないんだけどね、図鑑を見て知らない蝶々の名前を知ったりだとか、そういう自発的なやつは好きなんだ。
「坊主だけさ、そんな風に言ってくれんのは」
「いやいや、そんなこともないでしょ」
「まさかっ、まさかこの銀河系に俺の話を聞いてくれる奴が、マスター以外にいるとは」
つーとフランクさんの瞳から涙が零れた。
ドラマでもなかなかお目にかかれないくらい綺麗な流れ方だったな。
銀河系って、フランクさんはずいぶんと変わった表現をする人だ。
「坊主、今歳いくつだ?」
フランクさんは日ごろの苦労を話すうちに気分がずいぶん落ち着いたみたいで、俺に話を振る気になってくれたらしい。
「ええと、一三歳です」
厳密に言うとまだなんだけどさ。もう少しなんだから嘘じゃないだろ。
「じゃあ、もしかして中学生かな?」
「はいそうです」
「学校の方はどうだい?」
すっかり大人の社会について考えていた俺は、突然さっきのことを思い出した。そしたら急に俺もむくむく話したくなってきたんだ。
「ちょっと話を聞いてもらっていいですか?」
「もちのろんよ。これも俺たちの仲じゃないか、な?」
ちょいと古臭い言い方をすると、フランクさんは俺の肩を叩いた。
「あのですね、さっき俺、好きだった女の子から告白されたんです」
「くぅううううっ、そりゃ青春だなぁ」
フランクさんは、途端に目をキラキラさせ始めた。
「俺にもあったよそんな日々が。いやー、懐かしいなほんとに。いわば人生の春というような、夢を希望を抱く若人たちの限られた日常。ありゃーどのくらい前だったかな~、その子の名前は」
「あのーちょっといいですか?」
「ああーっ、スマンスマン。つい若き日の甘酸っぱい日々が戻ってきた気がしてな」
「つい先行して盛り上がってしまった」と、フランクさんは豪快に笑うと、口の前にバッテンを作って頷いた。
「君の話だった。ぜひ続けてくれ」
「えっと、じゃあ遠慮なく。それで、もちろん了承したんです。だってその子、俺がずっと好きな女の子だったんです」
フランクさんは興奮のあまりまた口を開きかけてたんだけれども、すかさず俺は言葉を被せた。
「それで、これから抱きしめようという雰囲気になったときにですね……」
「怖気づいちまったわけだ」
「違いますっ、邪魔されたんですよ」
「な、何とっ! 若者の恋路の邪魔をするとはどこのどいつだ」
「ええ~い、成敗、成敗っ」とフランクさんが机をぐーで叩くもんだから、机の上のものがガタンガタンと移動した。
ほんとうは邪魔してきた奴らの名前を言ってやりたかったんだけど。
「それがですね、はっきりとは知らないんです。スーツを着てて、とっても変わった名前をしていたと思うんですけど。ええと、なんだっけな」
俺はすっかり頭に血がのぼっちゃってたし、一度聞いただけだから思い出せなかった。
「まあ何にせよ、タイミングってもんが分かってないな」
フォローするように言い、フランクさんはチビリとお酒を飲んだ。
「そうなんですっ。ほんとのほんとにもう少しってとこだったのに」
「はぁー、それは酷いっ」
あの二人の名前が、本当に喉のすぐそこまできているっていうのにやっぱり思い出せなくて、凄く気持ちが悪かった。魚の小骨がつっかえてるみたいな。
もう一度思い出そうとしていると、フランクさんがお酒を飲んでいるのを見て、俺も急に沢山話したから喉が渇いたことに気がついてね。
ごくごくトマトジュースを飲んだ。俺んちのやつより濃い味がする気がした。
「やっぱりね、若者の恋路は邪魔しちゃあいかんよ」
「それで彼女、すんごく怖がっちゃって」
俺の方は怖かった、とはもちろん言わなかった。
「そいつら許せんな」
「許せません。今度あったらただじゃおかないつもりです」
本当にその通りだと改めて思いつつ、俺は空に高くこぶしを掲げた。
「いいぞ、その調子だ坊主。やったれやったれ」
「なんだか俺、元気出てきました」
成り行きとはいえ、ここでフランクさんに会えて良かったと思えたな。
「そうかそうか、そりゃ良かった。まあなんだ、お互い苦労してるけどさ、まあ強く生きてこうじゃないか」
「そうですね」
フランクさんが拳を出してきて、俺は合わせて拳を突き合せた。
ちょっぴりごつごつして痛かったんだけど、なんだか俺はこう、年の離れた同士ができた気がして、とても嬉しい気分になった。
「俺は君とその嬢ちゃんのこと、応援してるよ」
「いやーありがとうございます」
ちょっと照れた。いい人だなあと思いつつ、最後のトマトジュースを口に含んだ。
「お待たせー、尾長く……」
「あっ、夢碧さん」、と俺が振り返ろうとした瞬間、
「お、お嬢さまぁあああああああああ!」
と、『とどのつまり』が展開図になるんじゃないかってくらいの大声量が、隣のフランクさんから響いた。
