はじまりは蝶

 目を開けたら、薄汚れた木目がすごく近くにあって、一瞬自分がどこにいるのか混乱してしまった。



 「……な……さん、おーなーがーさんっ」



 ツーンとシップのような臭いがする。

 担任の先生は、よく肩が凝るのかいつも清涼感のある匂いがする。



 覚醒しない頭のまま顔を上げたら、ぱっと頭から重さが消えた。    

 やっぱり俺の頭をツンツンしてたのは、父さんじゃなくて先生だったみたいだ。



 宇佐美先生は、今年他県からやってきたばかりの新任の先生だ。

 トレードマークの赤眼鏡がきらりと光る。

 ついでに言うと、三六名クラス全員の視線も自分に集中していた。



 「あー俺、寝てました?」



 忘れずに、一人称を「僕」から「俺」にチェンジした。

 寝てたかってのは確かめるまでもないんだけどさ。念のため言わずにはいられなかったんだよ。



 「それはもうぐっすりとね」



 宇佐美先生を見上げると、先生はふっと息をついて言った。

 やばいな、これはかなり怒ってるぞ。



 ここ何か月かで知ったんだけどさ、先生、怒るとフチをくいっと上げる癖があるんだ。

 なんで知ってるかって言うとだな、前にもやったことがあるんだ。

 今この瞬間も、くいくいっと上げてるよ。



 教室中に小さな笑い声がだんだん広がって、大きくなっていく。

 クラスに一人はいそうなおふざけキャラだと思われてたら困るんだけどさ、俺は至って真面目なんだ。ただそれがわかってもらえないだけでね。



 「尾長さん、今月の学級目標は?  一つでも覚えていますか?」



 もちろんそんなもの覚えていないや。知ってるわけがないのさ。

 俺が知ってるのは、学校の献立ぐらいのもんだな。

 こういうのはさ、きっと先生か考えた学級委員か、それか一番前の席で毎日張り紙と睨めっこしてる人だね。



 教室の前に貼ってある学級目標を見ようと思ってね、体をちょいと横に動かしたら、先生も同じ方向に動いたのよ。これにはまいっちゃったよね。

 仕方がないから、今日の給食なんだっけな~と考えることにした。

 なんだかお腹が空いてきた気がしてね。



 先生から目線を外すと、小学校時代から腐れ縁の美沙が、ニタニタと俺を笑っているのが見えた。

 あいつは何かとオレのことを弄ってくるんだ。

 それでいてさ、尾長は子供っぽいっていつも言ってくるんだぜ。

 何か言い返してやらなきゃいかんなと思うんだけど、できないんだよなこれが。



 「お前のはねっ毛どうにかしろよ」って言ったって、もともとなんだからどうにもならんだろ?

 かと言って、「お前の母ちゃんでべそ」って、関係ない人を巻き込むのはなんか違うと思うんだな、うん。



 だからさ、「俺」って言ったり俺なりのささやかな抵抗はしてみるんだけど、あいつは憎たらしくぷぷっと笑うだけなんだぜ、きっと。

 ケッと心の中で俺は呟いた。

 心の中だったらいくらでも言えんのにさ。



 「尾長さん、覚えてるの」って先生に言われたから、俺は素早く背伸びして前の張り紙に目を移した。



 「積極的に授業に参加しようです、先生」

 「よろしい。君は今日寝るのは何回目ですか?」

 「え? ええーと、それは……」



 そう来るとは思わなかったな。

 俺はさ、実を言うと今日数回寝てるんだ。

 誰しもさ、今日何回息をしましたかって聞かれても、絶対答えらんないと思うんだよな。

 それとおんなじだよ。



 頑張って思い出そうと空を仰ぐ途中で、美沙の少し後ろの席で、さんが遠慮がちに笑っているのが見えたんだ。

 その証拠に、夢碧さんのポニーテールと一緒に薄緑のリボンが小刻みに揺れている。



 うおー、これは恥ずかしいって。

 こればかりは、俺もどこかに穴を掘って冬眠したくなったな。



 何を隠そう、彼女は俺の意中の女の子なんだ。



 夢碧さんは、俺が小学校六年生のときに転校してきた。

 夢緑さんを一言で表すと、清楚寄りのかわいい女の子だ。かと言って、お嬢様っぽいお高くまとった近寄りがたさはないんだ(美沙のガードが固すぎて近づけないんだけどね)。



 おとなしそうに見えて少しはしゃぐところとか、ギャップがとっても可愛くて、そこんとこが俺は好きだなと思う。 



 夢碧さん、前は東京にいたらしいけど、ここには不釣り合いなほどの輝きようで、いるだけでオーラがあるんだ。

 男子だったら、一度は夢碧さんが好きになると思うけど、俺は一度とは言わず、ずうっと夢碧さん一筋だ。



 「三回です尾長君、君はもう三回も寝ているんですよ」



 とはいえ、俺は告白までする勇気などないんだ。

 意気地なしなんて言わないでほしいね。

 夢碧さんは、みんなにとってもはやアイドル的存在なんだ。隙あらばサインをもらおうってくらいにね。



 でもね、そんな真似は、命が何個あってもできやしないよ、俺が保証する。

 何故ってあの美沙がガードしてるからな。

 あいつは普段からゴリラみたいなやつだけど、夢碧さんに関わる事となるとものすごいんだ。ほんと見せてやりたいよ。

 夢碧さんに近づく雰囲気を出そうものならば、もの凄い眼力で威圧するんだ。

 まるで爪をシャーシャーって引っ立てた、現代版ねこ娘だね。

 だが驚いて欲しい。

 その脅威を退けて、俺はその夢碧さんと修学旅行でツーショットを撮ったことがあるんだよ。



 京都だったんだけどね、そんときは何故だか班行動じゃなくて、夢碧さんと美沙と行動してたんだ。

 それで、集合時間に近づいてきたときに、どうしても夢碧さんが買いたいものがあるから戻るって言いだしたわけ。



 そしたら美沙が、「夢碧さんの着物が汚れたら大変ですから、あたし行ってきます」って夢碧さんに言って、あっという間にどっかへ行っちゃったんだ。

 きっと、夢碧さんの着物のことで頭がいっぱいだったんだな。

 ざわざわした中にポツンと二人残されてさ。

 心臓のバクバクが人ごみに紛れて安心したよ。

 夢碧さんをちょっと見たら、彼女もこっちを見ててね、本当どうしようかと思った。

 そしたらね、「尾長くん、写真一緒に撮らない?」って。

 断る理由なんか無かったさ。

 美沙は、最後まで俺と彼女を二人きりにしたことに気が付いていなかったと思うよ。

 あとで夢碧さんがさ、その時撮った写真を印刷して、こっそりくれたんだ。

 もちろん、今も家の机の中にしまったままにしている。

 俺の勉強机についてる引き出しの、右の方。

 引き出しを引くとね、「これ以上開けたものは呪われる」って大きい付箋に書いて張ってあるんだよ。取られないようにね。

 俺はすごい発明したと思う。

 金をかけない画期的なセキュリティ対策さ。

 泥棒だって、怖くて開けないに違いないよ。

 とにかく、その写真は大切な宝物であり、今一緒のクラスにいるってだけでも奇跡といっていいんだ。

 よって、この想いは墓場まで持っていく所存である。

「聞いてますかっ、尾長君」

 「えっと、はい」

 危ない危ない、ついつい思考が違うところに遊びに行っちゃったぞ。

 「もうすぐ夏休みも近いんですから、あと少し頑張りましょう。わかりましたか?」

 そうか、あと少しで夏休みなんだな。

 みんなそうだと思うけど、俺も例に漏れず休みは大好きだ。

 夏はさ、熱いけどやることがいっぱいあるんだ。

 虫も沢山出てくるからな。僕は、いつも黄色い虫取り網を使ってるんだ。

 家の近くにある木は、カブトムシやクワガタがわんさか見られる木があってね。

 俺の中じゃ有難いスポットなんだ。

 で、俺は思い出したんだ。

 何って、今日寝た回数をさ。三回なんかじゃないってね。

 だから、宇佐美先生に、「先生、今日寝たのは三回目じゃありません、国語と算数を入れると五回目です」って言ったんだ。

 先生、ちょっとばかし耳が少し遠いんだろうな、「はい?」って耳をぴくぴくさせながら言うんだ。

 だからもう一度、大きな声ではっきりこう言ったんだ。

 「今日寝るのは五回目です」ってね。

 宇佐美先生のガミガミ声をBGMに、俺は外で飛んでいる蝶々を見た。

 能力者による恐ろしい陰謀は、俺の心のうちに留めておけばいい。

 実際のところはさ、また家に宿題を忘れたのかもしれない。入れたつもりで机の上に置きっぱなしってやつだよ。

 まあいいのさ、そういうことは。

 宇佐美先生、頭にくると頭に全部血が持ってかれちゃって、目の前の人間も目に入らなくなっちゃうんだ。

 ほんとはじっと先生を観察してても良かったんだけどね、その蝶が筑波山で飛んでいた蝶にすごく似てるもんだからさ。しかも二匹もいるんだ。

 俺は虫を見るのが好きなんだけど、あの山登りした時の蝶の名は、結局分からず仕舞いだったな。

 二匹ともひらひら~ひらひら~って楽しそうに見えてさ。

 昔ならお幸せにって思えたと思うんだけど、ラブラブだなこのやろーって思っちゃうんだよ。

 どうも自分が怒りのシャワーを浴びてるとさ、人の幸せを願う余裕がなくなるらしいんだよな。

 何だか眠くなって目を閉じると、「こらっ」って宇佐美先生に怒られた。

 どうやら先生、ようやく正気に戻ったみたいだ。

 宇佐美先生から解放されると、また俺に脅威が近づいてきた。

 脅威って美沙のことさ。

 「おーい尾長っ、尾長っ」
 「うるせー」

 美沙は、手に小箱を抱えている。
 あん中にさ、絶対俺を攻撃する道具が入ってんだぜ。

 どう考えても美沙の声のトーンは、俺を馬鹿にしてる弾みようなのさ。

 目も福笑いみたいになってんだもの。今日は厄日だと確信したね。

 あるだろ? そういう日。

 いい日は面白いくらいに、次から次へといいことが舞い込んでくるんだけど、悪いときはそれの逆が起こるんだよ。

 俺はそういう日を「バッドデー」って呼んでるんだけど、美沙が来たらもう確定。

 グッバイマイハッピーライフ。

 だから美沙の一言にゃびっくりしたね。
 「お土産あげる」だってさ。

 だから俺、思わず「何だコイツ」って目で見上げちゃったんだ。

 いやだって、いつもならちゃかちゃか茶化すんだけど、今日は一言も言ってこないんだもの。
 ゾゾっってしないわけがないね。

 「なによ? なんか言ってほしい訳?」

 口調に意地悪な雰囲気がのったから、「いやいや全然! 全く」ってぶんぶん手を振って、すかさず否定した。

 あいにく俺はマゾじゃないんでね。揶揄われないなら、その方がいいに決まってる。

 「えっとあんたはね――」

 美沙が箱に手を突っ込んだ瞬間、俺はスペシウム光線を出す如く、手を構えた。

 ビームなんか出せないけど、早くガードしていた方がいいにこしたことはない。

 来るぞ、絶対来るぞ。

 美沙は片眉をくっと上げた後に、俺の垂直に構えた左手に何かを握らせようとしたので、俺は「うわっ」と変な声を出した。

 なんかが手を掠って机の上に落ちる。

 「あれ、お菓子?」

 袋に入っていたのは、見た目は茶色のカステラみたいで、何やら歪な鳥みたいな形をしている。

 「そうよ? お土産って言ってんじゃない。アンタなんだと思ったわけ」

 「わー、お菓子だー」

 ここで余計なことを言って、せっかくのお菓子が回収されたらたまったもんじゃないからね。いい感じにリアクションをした。

 「というかお前、どこ行ってきたの?」

 美沙が探ってくるような眼をしたけど、俺はさり気なーく目を逸らした。

 あいつの目を見てるとね、何だか見透かされたような気持ちになるんだよ。

 「えっとね~浅草」

 美沙の興味を逸らせるなんて、俺は天才か。
 
 「へー」

 「あんたどこか分かってないでしょ?」

 こいつ俺が物を知らない奴だと思い込んでるんだ。実に心外だな、こういうのは。

 「そ、そんくらい知ってるよ、東京だろ?」
 「なぁーんだ、知ってたんだぁー。ふーん」

 言ってなかったけど、俺は結構東京にも詳しいんだぜ。
 まだ中一だけど、大学生になったら東京に住むって決めてるんだ。

 「尾長香、夢の上京計画」も水面下で進めている。

 俺は、高校は近くのとこに行くつもりなんだ。
 それまでは、田舎にいてもいいかなって。寂しいとかじゃないよ、決して。 
 この計画には、毎日のように新たな情報が追加されている。
 今の予定としては、俺はお洒落な大学に通うつもりでいるんだ。
 なんとかっていうブランドを纏ってね。

 そんでかわいい彼女なんてできた日には、もう俺は完璧なシティーボーイだと思うんだな、うん。

 やっぱりさ、大きくなっても虫は好きなままだと思うんだ。
 だから、大学では虫について勉強できたらいいなと思う。
 ムシパニっていうのかな? 巨大化した虫が町を支配するみたいな?

 そういうハリウッド映画なみのことが、俺が上京するまでに茨城で起きなければ、無事に大学のときには東京に行ってるはずさ。

 美沙がニヤニヤと顔を近づけてくる。

 俺の計画について熱く語ってやりたかったけどさ、どうも話が通じなさそうなんでね、やめた。

 それに、美沙の力はゴリラなんだけど、目がぱっちりしててさ、顔だけはなかなかにいいんだよ、顔だけは。

 だから、あんまり近づかれるとどうも落ちつかなくてね。

 「な、何だよ」

 「べっつにぃ〜。じゃ、余ったらまたあげるね」

 「えー、いっぱいあんだろ? どうせなら好きなの選ばせろよ」

 「尾長の癖に生意気ね。いいのよ、あんたはヘンテコドリで」

 「ケッ、けちんぼ」

 言った後に、今の言い方は良くなかったなって思った。

 実に反省したよ。けちんぼっていうのはさ、いかにもこう、子どもっぽい言い方なんだな。

 どうせ美沙はニヤニヤして見てるだろうから、腹いせにくしゃくしゃって袋を開けてやったね。

 デザインはヘンテコだったな。誰がどうやって見てもヘンテコなんだ。

 きっとさ、作った人は暗闇の中でデザイン案を描いたに違いないよ。

 それとも、別れた恋人の未練を引きずりながら、視界を涙でいっぱいにしながら描いたんだろうな。

 結局採用されちゃうんだから、世の中ってわからないよな。

 けど味は美味かった。味まで外側につられてたらそりゃたまんないよ。

 生地の中にさ、こしあんが入っていて程よく甘いんだ。

 俺はお菓子を食べるときには、中身に何が入ってるか予想しながら食べるこちになってんだ。

 これはさ、お母さんがよく味噌汁の具材とか調味料をよく当てさせようとするから癖になっちゃってんだよね。今回は隠し味に醤油が入っておりますなってね。

 だからさ、案外俺の舌は案外グルミーなのよ。これについては結構な自信があるね。

 お菓子の味は、なかなかにいいとこいってるんだけど、強いて言うなら、あと三倍くらい大きくてもいいってことだな。

 そう講評しながら、美沙が夢碧さんの席に向かうのを眺めつつ、残りも口に放り込んだ。

 「夢碧さん、これお土産ですー」

 俺と夢碧さんの席はそこまで離れていないから、会話は丸聞こえだ。

 夢碧さんは目を擦って、少し眠そうにしている。

 むう、珍しい。夢碧さんも夜更かしするんだろうか。

 「これなんてお菓子?」
 「人形焼きです!」

 夢碧さんの机の前にしゃがみ込むと、美沙はお菓子の箱を夢碧さんの机に乗せて、「どれがいいですか?」なんて言って、ニコニコした。

 夢碧さんが、「う~ん」と言って首を傾げながら悩んでいる。

 表情は見えないんだけど、すっごくかわいい顔してると思うよ。

 どんなポーズだって、ちっともかわいこちゃんぶってないように見えるのが不思議なんだ。

 垂れた顔横の触覚みたいな髪を、夢碧さんは流れるような仕草で耳にかけた。

 「ねえ美沙、ほんとに好きなの選んでいいの?」
 「もっちろん、好きなだけどうぞ!」

 ケッ、美沙のやつめ。俺との扱いの差よ。

 「このトリみたいなのある? なんだかかわいい」

 これには驚いたね。

 ヘンテコドリデザイナーも失恋したかいがあったということだな。

 俺は、絵だけは人とは違う感性を持ってるのは間違いないんだけど、このヘンテコドリの作者のセンスはよくわからなかったな。ほんとにね。

 なんで僕が特別な感性の持ち主だって知ったかっていうと、君もやったことあるかもしれないけど、授業中に教科書の隅っこにネコが走っているパラパラ漫画を描いたことがあるんだ。

 けど、見た人が誰も猫って気が付いてくれないんだよな。

 みんな「怪獣が町を破壊していく様のようだ」って口を揃えて言うんだ。

 きっと、ものすごく壮大な絵に見えちゃったんだな。

 荒木田っていうちょっと面白いやつがいるんだけどさ、そいつは俺の傑作を見て、「絵は人の心を表すという」って言った後に、「フフッ、フフッ」って怪しい声で笑って満足そうに去ってたんだ。
 全く褒められてんのか全くもってよくわからなかったよね。

 まあ俺が思うに、「ダイナミックにして繊細な感性の持ち主だ」って言いたいとこだろうな。

 最後の笑いは、あまりに自分の言葉が的確過ぎるあまり、少しナルシシズムに浸ったんだろね。

 でも、夢碧さんがかわいいっていうんだからかわいいんだろうって、俺は思うことにした。

 「あれ? トリさんみたいなのもう無い?」
 「あ、ちょっと待っててくださいね」

 瞬きした時には美沙は目の前にいて、次には俺の机を両手で叩いたもんだから、おかげで無重力体験を宇宙に行かずに体験することとなった。

 「尾長、さっきのチョーかわいい鳥返して」

 お前、さっきヘンテコっつってたじゃんかよ。

 と思って美沙を見上げたが、目がマジなもんだから、言葉を飲み込むという大人の対応をした。

 「もうないよ」

 「はぁ〜っ? 今すぐ吐き出して返せ」

 美沙に首を掴まれ立ち上がらされた俺は、「夢碧さんに謝らせちまっただろぉーが」とガクガク揺さぶられるという、窒息の窮地に立たされていた。

 この圧倒的な力の差、人類とゴリラが戦ってるのが見られるのは、ここだけだぜ!

 「そんなん無理に決まってんだろ?!」

 残された酸素を何とか絞り出しながら、どうにか頑張って言い返した。

 「あのごめんなさい。私、最後の一個だって知らなくて」

 夢碧さんが、こっちに向かって言ったかわいい声に頬が緩むのも束の間、

 「いーんですよ、そんな事。全部コイツが悪いんで」
 「はっ?! お前っ……、うっ」

 首元の力がさらに強まった。やめるんだこの怪力ゴリラ、人の心を思い出せ!

 いや、ゴリラは人間じゃない。いや、元を辿ればご先祖様ってことになるんだろうか。

 あっといかんいかん、何を言ってんだ俺、しっかりするんだ俺。早く、早く酸素プリーッズ!

 「私、この鈴の形にするね」
 「夢碧さん、そんなので良いんですか?」
 「うおっ!」

 途端にゴリラの手から解放された俺は、硬い椅子に尻を衝突させた。

 下降しますっつーアナウンスが欲しかったな、ほんとに。

 すっかりうるっうるの目になった美沙は、「本当に本当にいいんですか」と、夢碧さんに駆け寄って問いかけている。二重人格かお前は。

 俺は、首がしっかりとついているか確認するために首元を撫でた。

 良かった。人間結構頑丈にできてるもんだな。

 「そりゃもちろん! 食べちゃったら見た目が違っても味は同じはずだもんね」

 ああ、なんていい子なんだろう。それに比べて……

 「尾長お前、一度夢碧さんに謝っとけや〜」
 「もう〜やめなさいってば、美沙。尾長くん、毎度毎度美沙がごめんないね」

 振り向いて夢碧さんに謝らせてしまったもんだから、「いやいやいやいや」と、咄嗟に手を振った。

 天使だ。鼻の下を伸ばしていた俺に、いつの間にか顔がつくくらい美沙が近づいていて、ぬっとのけぞった。

 「命拾いしたなぁ~尾長。ええ?」

 夢碧さんに聞こえないくらいの声量で囁くと、固まる俺にガンを飛ばしてくる。

 それから美沙はコロッと表情を変えて、お土産配りを再開した。

 こえーよ。お前、いつもそうだけど夢碧さん関わると、ほんとこえーよ。

 一通り菓子配りが終わると、美沙は夢碧さんと夏休みにどこに行きたいかを話し始めた。ふむふむ。夢碧さんは、海に行きたいのだそうだ。って、何盗み聞きしてるんだ俺は。

 海もいいなー、海。俺も夢碧さんと海に行けたらなぁと、ないことも思ったりする。

 浜辺を走って追いかけっこなんてしちゃってさ。ふふん。

 見計らったように、美沙がこちらを一瞥する。

 それにすっかり縮み上がっちまって、俺はどうもまた便所に行きたくなってきた。

 チラリと時計を確認すると、まだ授業までに余裕があった。

 美沙と目を合わせないようにしながら、俺はそそくさと廊下に出た。