はじまりは蝶

 「もうちょっとで夏休みだから、ちゃんと計画的に荷物は持ち帰ってくださいね。じゃないと、最終日に持ち帰り切れなくなりますから」

 宇佐美先生が、帰りの支度中の僕らに声を掛けた。
 僕は、溜まりに溜まったミニテストのプリントとか、置き勉した教科書を青バッグにつめた。
 すごくパンパンだ。

 一人称を「俺」とは不思議と言わなくなっていた。
 だって、もうかっこよさを取り繕うための人がいなくなってしまったんだもの。

 気分が悪くなって倒れたあの日の後、起きたら家のベッドの上という、今世紀最大の謎を迎えながら僕は目を覚ました。

 意識を失う前の、悲しくてどうしようもない気持ちは少しだけ薄れた。まだ心臓はちくちく痛んだけど、気づかないふりをした。

 今は、なぜ家に帰って来られたかを知るほうが最重要だった。僕は、確かに『とどのつまり』にいたはずだったんだ。

 倒れたまま自分の足で帰ってきたとは思えないし、やっぱり家にいるのはおかしいもんだから、「僕どうやって帰ってきてた?」って、お母さんに聞いたんだ。

 そしたら、「お母さんがパートから帰ってきたときには家にいたみたいだけど。なーに香、新しいなぞなぞなのそれ?」とかどうとか、とんちんかんなことを言ったんだな。

 んでもって、「『俺』っていうのはやめたの?」って言われたもんだから、僕は途端に恥ずかしくなって、そのまま階段を駆け上がった。

 自分の部屋に閉じこもって考えた。
 もしかしたらあれは、全部夢だったのかもしれない。
 僕は不思議とそう思えてきて、悲しさも掠れていった。
 だからその時はもう眠ることにしたんだ。明日は夢碧さんに会って、嘘か本当か見極めようと思って。

 でも、夢碧さんは結局学校に来なかった。次の日も、その次の日も。
 だから、やっぱり夢じゃなかったんだってわかったし、夢碧さんに振られたんだってことも理解した。
 悲しかったな。

 美沙に夢碧さんのことを聞きたかったんだけど、あいつも夢緑さんと同じタイミングで学校に来なくなったんだ。
 あいつ、多分夢碧さんのとこにいるのかもしんない。
 夢碧さんのことは、惨めな気分だし酷いなって思ったけど、もういいやって僕は思うことにした。

 そうしないとやってられなかった。けど、そう思えば思うほど、ますます僕は惨めな気持ちになった。
 夢碧さんは、僕のことを好きじゃなかった。それだけのことなのに。 

 僕はしんみりした気分になりながら、もはや変形で青バッグと呼べない代物を引き下げて家に向かう。
 ほんとのところ、中学校初めての夏休みになったら、夢碧さんと遊びに行きたいなって思っていた。
 磯で綺麗な貝殻を集めたりできたら楽しいだろうな、なんてさ。波が打ち寄せる砂浜を走りながら、追いかけっこするのもロマンがある。僕は、実はロマンチストなのだ。

 ふーと息をつく。辺りからは、はち切れんばかりのアブラゼミの鳴き声が響いている。
 セミっていうやつが僕は好きだ。
 あの声がすると、夏がやってきたんだとわくわくする。あんなに小さい体から、もの凄い声量で鳴くんだもの。

 前に、セミは一週間しか生きられないと聞いたことがあったんだけど、何年も暗い土の下で眠っていたのにそれは無いんじゃないかと僕は少しかわいそうになったな。だからこそ、あんなに一生懸命に声を張るのかもしれない。   

 木にセミの抜け殻が付いているのを見つけてぐんとテンションが上がってしまったけれど、僕は気分が晴れないのを引きずる事に決定して、もう一度ため息をついた。

 僕の部屋には、セミの抜け殻を入れてある透明の丸いケースが沢山あって、ためにそれを眺めるんだ。
 つまんでちょいちょいと指で触って、カサカサ音を鳴らすのも好きなんだ。
 あんなに小さい殻からセミが出てくるんだもの、感心しちゃうよな。

 僕は気分を下げることに決めたからね、いつもの道草もやめようと思った。
 頭に日差しが吸収されてる感じがする。
 これからもっとずっと熱くなるだろうなぁと僕は思った。頬に流れた汗を、僕は手で拭った。

 「ただいまー」

 鍵を開けて玄関に入ると、リビングから母さんが顔を出した。

 「あらおかえりなさい、香」
 「今日は一段とすごい荷物ね、それ」
 「うん、すんごく重い」

 言いながら、僕はすぐ脇の階段を二段飛ばしで上っていった。
 これはね、修行だと思っていつもやってるんだ。
 前に一段飛ばしで上ったときは、始めこそ母さんに褒められたけど、次には「あまり無理するのはやめなさい」と言われたんだ。
 だから余計にむきになった。やめなさいって言われることは、大抵かっこいいんだ。

 リズムよく上ると部屋のドアを開けて、流れるように閉めようとした。

 「帰ってきたのか坊主」
 「うぁああああっ」

 振り向きざま、僕はカバンを放り投げて飛び上がった。
 放物線を描くはずのバッグは、重いもんだからほぼそのまま落ちた。

 「フッ、フランクさん⁉」 

 あの時と少し違うのは、髪の毛が前以上にテカテカに撫でつけられていて、綺麗な黒スーツをしっかりと着こなしているってことだ。
 これが普段の仕事スタイルなんだろう。目つき以外はガラの悪い要素が薄れている。

 「フ、フランクさん。どうして僕の部屋にいるんですか?!」
 「いやそれがだな」

 フランクさんは、少し視線を逸らした。

 「香? なんなの急に大きな声出して」

 中途半端に開けっ放しにしてあったドアから、母さんが階段の下で声を上げたのが漏れ聞こえた。

 「あーっ、とね」

 フランクさんをチラチラ確認しながら、母さんにどう言っていいかわからなくて、もごもごと口ごもった。母さんはいつフランクさんを僕の部屋に上げたんだろう。

 「もう何?」

 呆れた声を出しながら、母さんが上がってくる音がする。
 母さん、僕が帰ってきたときにお客さんが来たってくらい、言ってくれてもいいのに。 

 そこで僕は気が付いた。
 フランクさんの前には、お茶も何一つ出された様子はない。
 お客さんが来た時に出す、お菓子を乗っけるちっちゃな机も出されてないんだ。
 フランクさんは、ただドアの前に立ってただけ。
 音が近づいてくる。僕は物凄く頭をフル回転させて、一つの仮説を導いた。

 「あの~フランクさん。どちらから入りましたかね」
 「窓からだ」

 俺は勢いよくドアを閉めた。わぁお。不味い、非常に不味いことになった。

 「坊主、随分乱暴じゃない……」
 「何で勝手に入ってきたんですかっ」

 僕は、フランクさんに被せるようにして、なるべく小さな声で叫んだ。

 「いや~坊主の部屋の窓、たいていは空気の入れ替えでお母さまが開けてるだろう?」

 なんでそんな情報知ってるんだ、この人は。いやいや、そんなことより。

 「どうして普通に玄関から来てくれないんです?」
 「だって、そんときゃどう俺を説明すればいいんだ?」

 ムムム。確かに、こんな見るからに怪しい巨体の男が家にきたら、母さんはビビっちまう。
 でも、勝手に僕の部屋にフランクさんがいたら、間違いなく失神してしまうだろう。
 こっちの方がもっと悪い。
 必死で忘れかけてたけど、この人は宇宙人なんだ。
 自分の部屋に宇宙人がいますなんて、言えるわけがない。

 あいにく、僕の部屋には高身長のフランクさんが隠れられそうな場所なんてなかった。
 ベッドの中に隠れても、バレてしまうだろう。縦長のタンスでもあれば良かったんだけどね。

 母さんにどうごまかすか、素早く頭の中で対策をシュミレーションをする。
 紹介するよ母さん、彼は友人でね……。いや年齢差がありすぎるっ。
 仮に友人だとして問題はその後なんだ。

 どこで出会ったのって言われて、『とどのつまり』でなんて言った日には、今度は違う部分で叱られそうだもの。
 それじゃあ、彼は新しい家庭教師になった……。いやいや元々僕に家庭教師いないしっ。
 なら、副担任の……。そもそも玄関から入ってない時点でおかしいんですけどね?!
 ああ、もうっ。

 コンコン

 「香? 大丈夫なの?」

 僕は素早くドアの隙間から顔を出した。

 「アーカアサン。マッタクモッテダイジョウブサー。ハハハ」

 グッジョブと親指を立てると、母さんの眉が訝しげに寄せられた。ええっと。

 「もう何なのっ?」
 「あ……」

 母さんのスーパーキックが炸裂し、ドアが思い切り開け放たれた。