僕は、夢を見ていた。年長の夏、筑波山に登った日のことだ。

 今僕は中学二年生なんだけど、僕じゃなくて、「俺」って最近は言ってるんだ。

 けど、夢の中では自然と「僕」の気分になってたんだな。

 ぶっちゃけちゃうと、好きな子にちょっとばかしかっこよく思われたくて、「俺」なんて言い出したんだけどさ。とにかく今は年長なんだから「僕」だ。

 でね、その日は家族とおじいちゃんとおばあちゃん、それにおじさんと一緒に筑波山に行ったんだ。

 みんなには、「はじめてだから(かおる)には難しいかもね」なんて言われたけど、なおさらそれが僕を奮い立たせたんだ。 

 あ、香っていうのは僕の名前ね。

 近所の人には、顔のせいで女の子に間違えられたことがあるくらいなんだけど、「香」って書くから余計に勘違いされるんだよね。

 「香」で「かおる」って読むわけよ。

 これ何かの冗談じゃないかって思うんだけど、マジなんだよな。

 僕はそんなにがっちりとした体形じゃないからね、弱っちいって思われてると思うんだけど、実はそうでもないんだぞ。やるときゃやるんだ。

 だからこそ、みんなに筑波山を登るなんて朝飯前さってとこを見せたくなったんだな(あとから気づいたんだけど、一人っ子ってめちゃめちゃ負けず嫌いなんだ)。

 それで車から降りて登りだしたんだけどさ、母さんとお祖母ちゃん、父さんもぜーぜー息を上げてたよ。

 けどね、僕の足はどんどん先へ先へと進んでいった。時間の流れなんて感じない、呼吸だっていつも通りさ、不思議なくらいにね。

 やってやるって気持ちのせいもあるけど、これが自然のマジックってやつなんじゃないかな。

 どこ見てもきれいなんだ。足元はぬかるんでいて、歩いている周りを見渡す限り、どの植物たちも雨粒のドレスを身に纏ってキラキラしてるんだ。

 見て、私のことを見てって、おめかしした舞踏会のお嬢様みたいだったな。映画しかみたことないけどね。

 それからね、草の先についている透明の粒に指で触れると、ポロって真珠が地面に吸い込まれるんだ。歩きながらぽろんぽろんと落とすのが楽しいのなんのって。

 「あらいいわね」って母さんが言ったから、「母さんもやってみてよ」って、僕は母さんの指を露草の先にちょんと持ってったんだ。

 冷たい水が指を撫でていって面白かったから、しばらく二人ではまってたね。

 苔のついた木々の幹を見ながら視線を上にやると、鳥たちのお喋りが森いっぱいに響いていた。

 姿は見えないから、どんな鳥なんだろうって想像した。カラフルなのだったら良いなって思う。

 鳥たちは何の話をしてるのかなって思ったけど、やっぱり人間の僕にはよくわからない。

 「やっと晴れたわね~」「これからどこ行こうか?」って感じかもしれない。

 ちょっと先に行くと、橋から離れたところに、少し浅めの川が流れているのが見えた。

 僕はロマンってやつを感じちゃって、思わず「母さん、オオサンショウウオいるかな?」ってちょっと後ろを見て声を張ったんだ。

 ところでオオサンショウウオって知ってる?

 上野動物園に連れて行ってもらったとき見たんだけど、その時から僕のお気に入りなんだ。

 あの顔といい、小っちゃい手足にもうビビッときちゃったんだから。

 「そうね、ここならいるかもしれないわね」

 母さんはニッコリ笑って答えた。僕はとっても嬉しくなって、川を上から下まで見えるところは全部見た。

 川の途中に流木が倒れてて、隠れ場所も沢山ある。

 いかにも彼らの好きそうな住処じゃないか。

 一生懸命目を凝らしてみたけどさ、オオサンショウウオは出てこなかった。

 僕が思うに、彼らはとんでもなくシャイなんだと思う。

 仕方がないから、心の中でまだ見ぬオオサンショウウオに挨拶をして、それから手を振っておいた。

 僕は何にもいなくても手を振るのが好きなんだ。例え目と鼻の先にいたって僕はとにかく手を振っちまうんだ。

 これは性分だからね。直せったって仕方ないんだ。

 とにかくだな、どこかにいるはずだって僕は確信したね。

 オオサンショウウオの住処を見つけられたものだから、テンションが高ぶって、ますます歩くのが楽しくなってきた。 

 そうしたら、出会ってしまったんだ。大きな大きな蜘蛛の巣に。

 いつの間にか近くにいた父さんが、「香より大きいんじゃないか」って言ったけど、ほんとにその通りだ。

 そのまま突っ込んだら、糸に捕まっちゃうかと思ったもんね。

 蜘蛛の巣の真ん中にはでっかい主が居座っていて、長い足でオレが王様だぞって主張してるみたいだった。

 そしたらさ、端のほうに蝶が引っかかっているのに気づいたんだ。

 アオスジアゲハみたいなんだけど、よく見ると蛍光色っぽくないペパーミント色をしている。

 だから、アオスジアゲハとはちょっと違うんだな。図鑑でも見たことがない蝶だったから父さんに聞いたんだけど、父さんも知らないって。 

 そこまで大きさはないし、強そうにも見えない。

 じっと動かないから、蜘蛛も獲物がかかったことを知らないみたいだった。

 動かないから死んじゃったのかなって一瞬思ったんだけど、蝶が急に足をジタバタさせ始めたから生きてるってわかったんだ。

 振動で巣がぐわんぐわんって揺れて、蜘蛛が蝶に向かって襲い掛かった。

 「やあっ!」

 僕は、地面に素早く屈んで、ちょうど落ちていた石を拾うと、蜘蛛と蝶の間に投げこんでいた。

 もう無意識だったんだよ。

 そのまま続けて蝶の近くにもう一発。

 バタバタと力いっぱい蝶が動いたので、近くにさらに一発投げ込んだ。

 巣から解放された蝶々は、森の中へと姿を消してしまった。

 一方の家をぶっ壊された蜘蛛は、何事も無かったかのように、またせっせと糸を張り始めた。

 「香、蝶の命を助けたな」

 父さんの温かくて大きな手がポンと頭に乗った。

 父さんはそんなに口が上手くないんだけど、だからこそ褒めてくれるときは特別に感じるんだ。

 あのときは、僕は自分がヒーローに思えたね。

 僕は時々思うんだ。

 逃げた蝶は、あの後も元気にやってるんだろうか? 幸せにしてるかなってね。

 ところで、父さんの手ってこんな感触だったっけって僕は思った。

 こんなに頭をツンツン叩かれている記憶はないんだけどな。

 僕の記憶だと、森もここまで騒がしくはなかったな。ざわざわしすぎて、マイナスイオンのマの字もないよ。 

 それで周りを見回してあれ? と思ったんだ。

 周りの景色がぼんやりしてきて、目の前の父さんもスッと消えて、一度全部が真っ黒になった。

 その次には、朝日が差し込んだような光に包まれて、ざわざわとした音がさらに大きくなる。

 そんで僕は気づいたんだ、そうだ夢を見ていたんだって。

 あまりにリアルだから、すっかり忘れてしまってた。

 途端にふっと体が上に浮いてくるような感じがして、僕は目を開けた。