柔らかな朝の日差しで目が覚める。スマホを手に取り今日の日付を確認する。
 6月8日。祐一が事故にあってからいよいよ2ヶ月が経とうとしていた。そして今日もまた祐一に記憶障害について説明するのだ。
 勿論、恋人が朝起きたら前日の出来事を全て忘れているということを実感すると心が虚しくなることもある。それでも、祐一が現実を受け入れ次第、私たちは恋人らしいことをした。こうすることで私も満たされた気持ちになれるし、彼が書く日記の内容もまた楽しいものになる。
 そしていつか記憶障害から立ち直ったら、改めて彼と一緒に生きていく。私の中にはそんな漠然とした願望があった。
 そんな思いを胸に秘めて彼が起きるのを待つ。
 数分も経たないうちに少しずつ彼の体が動き始めた。
 気怠そうに体を起き上がる彼と目が合う。この時の、目に見えるもの全てに怯えているかのような彼の表情とその後の言葉を、私は一生涯忘れないだろう。

「…あなたは、誰?」

 一瞬にして背筋が強張るのが分かった。それでも怯まずに優しく声をかけた。
「祐一?私だよ、夏井友穂。実はあなたは交通事故に遭ってから記憶障害を負ってしまったの」
 焦りのせいで声が上擦る私のことを、彼は怪訝そうな目で見つめている。
「うん、交通事故に遭ったのは何となく覚えているんだ。だけれど…分からない」
 いつもと変わらぬ口調で、彼は平然と言ってのけた。
「あなたは、誰なんですか?どうして同じ部屋で寝ているの?」
 息が止まり、視界が揺れた。体の端々が現実を拒むような感覚。
 一体何が起こっている?
「…君は、自分の名前は分かる?」
「はい、坂根祐一です」
「じゃあさ、友達に星原亮二っていう人がいる?」
「そうですけど、なんで知ってるんですか」
 自分の名前と星原のことは覚えているのか。それだったら、私のことだけを忘れている筈がない。そうだ、きっとそうだ。
「じゃあ、私の名前、分かる?」
 自分でも驚くほど声が震えていた。
「すみません、分からないです」
 彼の冷たい声が私を絶望に突き落とす。彼の表情や仕草からして嘘をついているわけでもなさそうだ。
 事故のことがうっすら記憶にあると言い、更には私のことを忘れているのだ。だとしたら、間違いなく昨日以前から状態が変わっている。
 絶望を目の当たりにしている筈なのに、何故か取り乱さずにいられた。きっと、まだ脳が現実を拒み続けているのだろう。
「…ここで、待っててもらってもいいかな」
「え、どうしてですか…ていうかあなたは本当に誰?」
 私1人には、どうすることもできない。助けを借りに行く必要がある。
「私は…」
 恋人だと話したらもっと彼が混乱する可能性がある。だったら…
「私は、あなたを助けに来た者だよ」
 随分と中途半端な言い回しになってしまったが、あながち間違いでもないだろう。
「は、はぁ…分かりました。あなたのこと信じます」
「ありがとう」
 私はすぐに支度をし家を出て、とある人物のもとへ急いだ。
 その道の途中、涙が溢れたのは言うまでもない。

 幸い、その人物の家には祐一と一緒に訪れたことがあるため場所は分かった。
 数分もすると目的の場所が見えてくる。インターフォンを押し、はやる気持ちを抑えてじっと待つ。
「あれ、友穂さんどうした?っていうか大丈夫か!?」
 道中泣いてきたのが丸分かりだったのだろう。目的の人物、星原は私を見るや否や心配の言葉を投げかけてきた。
「助けてほしいの…祐一が、大変なの!」
「ただ事じゃあ無さそうだな。一旦中に入ろう」
 彼の好意に甘えて家の中に入れさせてもらう。
 私は彼に、今の祐一の現状を話した。朝起きたら祐一が私を忘れていたこと、今までは忘れていた事故当時のことを記憶しているということ。
「そんな…昨日からの前兆みたいなものって無かったのか?」
 昨日のことを出来る限り鮮明に思い出すが、残念ながらおかしな点は思い浮かばない。
「分からない。本当に急な出来事で…あ、でも星原のことは覚えてた」
「そうか。それなら俺がいれば大丈夫だな。とりあえず病院に連れて行こう」
 亮二の判断力に脱帽する。この状況下で冷静に判断できるのは私と大違いだ。
 2人で祐一の下へ急ぐ。
 小走りで移動したためすぐに家に着いた。彼が混乱しないように星原に先に中へ入ってもらう。
「おーい祐一、大丈夫なのか?俺だ、亮二だ」
「その声は亮二…?」
 祐一の声色はさっきよりも落ち着いているように思えた。本当に亮二のことは覚えているようだ。
 2人で部屋の中へと足を踏み入れる。
「なあ祐一、お前本当にこの女の人のこと覚えていないのか?」
 この女の人というのは勿論私のことだ。亮二が来てくれたことで祐一の反応に何か変化が生まれていないだろうか。
「思い出した気がするよ」
 まさか、本当に思い出してくれた!?
「もしかして、あなたは京花?」
 私の希望も虚しく、彼は全く予想外の人物の名を口にした。というかそもそも…
「きょうか…?」
 京花とは、誰だ?
「うん、京花。良かった、海外に引っ越してからもう会えないと思ってたよ」
 間違いない、彼は重大な勘違いをしている。
「京花…だと?」
 そんな驚きに満ちた声を零したのは私ではなく星原だった。
「京花…?さんのこと、知ってるの?」
「ああ、俺と祐一の知り合い、いや、幼馴染だ」
 知らなかった。祐一の口からそのような幼馴染の存在を聞いたことが無かった。
「それは初耳なんだけど…じゃあその人の助けを借りれば、祐一の記憶が戻るんじゃないかな!?」
 幼馴染である星原のことを覚えているのなら、京花さんのことも覚えているのではなかろうか。
 一縷の望みを託して星原に問いかける。すると彼は今までに見たこともないような苦痛の表情を浮かべた。
「無理だ」
「え、なんで!?」
「京花は…小学生の頃に海外に引っ越してしまったんだ」
 希望が見えたと思ったらすぐに壊れていく。人生というのは、つくづく上手くいかない。
「そんな…」
「今はひとまず祐一を病院に連れて行こう」
 引っ越して離れ離れになった幼馴染のことを思い出したのか、はたまた祐一の現状を目の当たりにしてショックを受けているのか、星原も目に見えて憔悴していた。
 私が、頑張らなければ。
「祐一。私の素性を知りたかったら一緒に病院に行こう」
「え、病院ですか…分かりました」
 梅雨らしい曇り空の下、私たちは病院へと向かった。

 事情を説明するとすぐに待合室へ促された。数分すると呼び出される。
 診察室に行くと、祐一の担当医である宮沢理奈先生が見えた。
「宮沢先生、実は…」
 勇気を振り絞り、拙い言葉で今日あったことを伝える。
「なるほど、事情は理解しました」
 先生はそう答えると祐一の方に向き直った。
「坂根さん、昨日の自分が何をしていたか、記憶にありますか?」
「えっと…交通事故に遭ったのはぼんやりと覚えています」
 厳密に言えば昨日のことではないのだが、事故をきっかけに記憶障害を負ったので、彼の脳が記録している最後の記憶がその事故のことなのかもしれない。
「どんな交通事故だったのか覚えているかな?」
「はい、街の公園に向かって歩いてて、確か信号待ちしている時にトラックが突っ込んできました」
 驚いた。思っていたよりも鮮明に事故のことを記憶している。しかし、彼は重大なことを忘れている。
「その時に周りに人はいましたか?」
「いえ、僕1人でした。今思えばなんで1人で公園に行こうとしたか、思い出せないんですけどね」
 やはりだ。彼の記憶から、私に関する情報だけが抜け落ちている。星原や京花さんのことは覚えていて、私だけを忘れている。一体何が起こっている?
「坂根さん、脳の状態を確認したいのでX線検査をお願いできますか?」
「はい、分かりました」
 すると別の医師がやってきて彼を検査室へと連れて行った。私と星原と宮沢先生だけが部屋に残る。
 3人で会話をしたようなしていないような、朧げな時間を過ごすとやがて祐一が戻ってきた。
 宮沢先生と他の医師で何やらやりとりをしている。心臓の動悸が治らない。一体これからどんな事実が伝えられるのか。
「お待たせしました。検査の結果をお知らせします」
 私も星原も、緊張の糸が張り詰めている。
「坂根さんは、前向性健忘症が治り、新たに解離性健忘症という状態になりました」
 解離性、健忘?前向性健忘と名前が似ているし恐らく記憶障害の一種のような気がする。
「解離性健忘というのは、強いストレスやトラウマに関連した記憶の一部または全部を一時的に失う現象です。 これは心理的な要因によるもので、自己防衛の手段としてそれを記憶から遠ざけることで心の安定を図ろうとする働きだというのが分かっています」
 強いストレス、自己防衛、心の安定…。
 私のことだけを忘れているということは、まさか私が彼の強いストレスの原因?
 流石に信じたくなかった。そんな筈がない。そんなこと、あってはならない。
「しかし一時的なものなので、恐らくそのストレスの原因を取り除き、しばらく安静にすれば治る兆しも見えてくるかと思われます」
 最も、ストレスの原因を見つけるのが至難の業なんですけどね、と宮沢先生は付け足した。

 帰り道。
「ごめん、何だか迷惑かけちゃって」
「大丈夫だ。俺たち幼馴染だろ?これくらいお安いご用だ!」
 私と星原で、祐一を家に送り届けることにした。そう、私たちは同棲を辞めることにした。
 祐一にとっての私は赤の他人だし、前向性健忘が治ったのならば1人暮らしも問題は無いだろうという結論に至った。私にとっては残酷な話だが、彼は私のことを記憶していないというだけで、他は至って健康なのだ。
 やがて祐一の家に着く。
「ありがとう亮二。あと…」
 彼は私の方を向く。
「あなたも、ありがとうございました」
 彼の目は完全に他人を見ている目だった。見知らぬ人に道を教えてもらって、それに感謝する時のような感覚。
 星原の協力を経ても、宮沢先生の助けを借りても、私の心は穴が空いたままだった。

 翌日。
 私は独りで目を覚ました。私が好きな彼はもういない。彼の世界に、私はいない。
 非情な現実に打ちひしがれていても、変わらずに世は明けて、明日が来る。なんでだろう、思わず渇いた笑いが零れる。
 星原と話し合った結果、私はしばらく祐一と会わないことにした。私が彼のストレスの原因である可能性が排除しきれないというのと、私自身も祐一を見て傷つくことがあるだろうから、ということだった。
 それからは虚無の日々が過ぎていった。朝起きて、大学で必要な講義を受けて、ただひたすら無為に日々を消費する。実際には祐一と出会う前の生活に戻っただけの筈だ。しかし何日経っても私の心が満たされることはなかった。
 しかし時には、そんな日々にも変化が起きる。星原が私の家を尋ねた。
「単刀直入に言うんだが、友穂さんを遠ざけてから3週間が経っても祐一に変化が起きない」
 つまり、私が解離性健忘の原因では無いと言いたいのだろうか。
「そうなんだ。それじゃあ…解離性健忘の原因は一体何なの?」
「そう、そこなんだよ。友穂さんが原因である可能性が高いって言われた時から何となく違和感があったんだ」
 違和感…?
「そりゃあ記憶障害のことはあったけどさ、基本的に祐一はずっと楽しそうにしてたから。友穂さんがあいつにストレスを与えてたってのはどうも納得がいかない」
 星原も星原なりに私のことを信じてくれていた。場違いにも少し嬉しくなった。
 それから私たちは、祐一のストレスの原因を推測し始めた。大学周りの人間関係、親戚との関係、私たちが思いつく限りの人を列挙して祐一にストレスを与える可能性があるのかということを考え続けた。
 しかし結論から言うと手がかりは得られなかった。数人の候補は挙がったが、どれもしっくり来ない人ばかりだった。
「駄目だ、全く分からねぇ」
 星原がお手上げだというように俯く。私はそれでも思考を止めなかった。
 記憶障害を負うくらいのストレスというのは、生半可なものでは無い筈だ。それほどのストレスを与えることができる人間なんて、ごく一部のような気がしてならない。
 そのごく一部を特定するには、やはり祐一自身の言動にヒントがあるように思えた。解離性健忘を患い始めたあの日の彼の一挙一動を頑張って思い出す。

ーあなたは、誰?
ー交通事故に遭ったのは何となく覚えている。
ーすみません、分からないです。
ー思い出した気がするよ。

「え?」
 何かが腑に落ちた感覚を覚えた。思い出せ。あの時の祐一は、何を思い出した?

ーもしかして、あなたは京花?

 頭の中に稲妻が走る。点と点が一本の線で繋がるような感覚。
「京花さん!!」
 思わず叫んだ。星原はいきなり叫んだ私を一瞥すると問いを投げかけてきた。
「京花がどうした?…ってまさか!?」
「そのまさかだよ!あの日祐一は、私のことを京花さんだと勘違いしていた。これはきっと偶然じゃないと思うんだ」
 しかし興奮する私と反対に、彼は表情を崩さない。
「確かにそれは一理あるけど…京花と最後に会ったのは小学生の時なんだ。仮に京花との別れが祐一にとっての苦痛だったとしても、今になってそれが原因で記憶障害になるのは何かおかしい気もする」
 なるほどと思った。つまるところ、私たちはあと少し、重大な何かを見落としているということらしい。
「家に帰って京花とのこと、少し思い出してみる。協力してくれてありがとな」
「私の方こそ!本当にありがとう。私1人じゃどうにもできないからさ」
 彼は一瞬口元を綻ばせた。
「明日、祐一の定期検査だから。検査の時くらいは立ち会っても問題ないと思う。またその時に会おう」
「うん、分かった」
 星原は帰って行った。
 彼の表情に悲しみの色が滲んでいたのは私の気のせいかもしれない。
 
 翌日。私は久しぶりに例の病院に出向いた。
 そこには祐一と星原だけでなく祐一の両親もいた。前に会った時よりも顔がやつれているように見えた。
 彼の検査が始まると彼と両親は病室を出ていく。今日は宮沢先生も病室からいなくなっており、星原と2人きりになる。
「昨日、あの後何か分かった?」
 星原に問うと、彼は何かを決意したように私の方を見た。
「祐一がこうなった原因。分かった気がする」
 あまりにも淡々と言うもので、言葉を失う。
「友穂さんの言った通り、恐らく原因は京花にあるんだ」
「でもそれだと、時系列的におかしいんじゃないっけ?」
 京花さんの引っ越しから今まで、少なくとも10年以上の時が経っているからおかしいと、昨日はそう結論づけた。
「あの後色々考えてみたらさ、辿り着いてしまったんだ。全ての辻褄が合う結論に」
 そう話す彼の表情は今にも泣きそうで、普段の頼り甲斐のある星原からは考えられないものだった。
「話すと長くなるし、俺のことを嫌いになると思う」
 星原のことを、嫌いに…?
「それでも、俺は祐一のことが大切だから。少しばかり、俺の、俺たちの昔話を聞いて欲しい」