朝、目が覚めると不思議な感覚に襲われた。自分が自分じゃないかのような、正直よく分からない感覚。
微睡みがかった意識が晴れていくにつれて、僕が目覚めた場所が自分の家ではないことに気づく。
「ここは、病院?」
「うん、そうだよ」
声の方に視線を向けると友穂が座っていた。
「え、なんで友穂がここに?」
目覚めたらいきなり病院にいて、隣には恋人の友穂がいる。何があったんだっけ?と昨日の出来事を思い出そうとするが、特別なことをした記憶は無い。
「落ち着いて聞いてね。あなたは…交通事故にあったの。その後遺症で、記憶障害になってしまったんだ」
え?交通事故?そんなものは全く記憶にないし、痛みもない。何かのドッキリかな?と思ったがすぐに違うと確信する。だって、友穂がとても寂しそうな表情を浮かべていたから。
「祐一、今日が何月何日か分かる?」
「えーっと、4月の5日じゃないっけ?」
答えると、友穂はスマホのホーム画面を見せてきた。そこに書いてあるのは…5月11日。
5月?そんなわけがない。
「ねえどうして?記憶障害って何!?」
思わず声量が大きくなる。ここが病院なのは分かっていたが、落ち着かずにはいられなかった。
すると友穂は悲哀に満ちた表情を浮かべたまま、一冊の緑色のノートを取り出した。
「これは、あなたが記憶障害を負い始めた日からあなたが毎日書いている日記なの。これを読めば、この1ヶ月で何があったか分かるから」
怖かった。この日記すら自分で書いた記憶がない。恐る恐る中身を確認してみた。
4月6日
目覚めたら病院にいた。友穂が状況の説明をしてくれる。どうやら僕は交通事故に遭って記憶障害を持ち始めてしまったらしいです。きっとこれからも記憶を失い続けてしまうであろう未来の自分の為に、毎日日記を綴ることにします。
4月10日
今日は両親から症状の説明をされた。少しの間仕事を休んでいるらしい。親不孝な息子でごめんなさい。
4月18日
今日は亮二が朝早くからお見舞いに来てくれた。どうやら昨日の僕が亮二と会う約束を交わしていたみたい。いつものように頼もしい顔つきで憔悴する僕のことを慰めてくれた。本当、彼には頭が上がらない。
4月27日
どうして僕がこんな目に遭わなくちゃいけないいんだ。記憶を保持できないままついに1ヶ月近くが経とうとしているらしい。やり場の無い怒りに任せて友穂や親に強く当たってしまった。明日以降の僕はどうかこんなことしないでください。日記を見て少しでも心を落ち着かせて。
5月10日
気づけば僕の中に空白の1ヶ月が過ぎていた。こんな状態で生きていて何の意味がある?流石に口には出さないけれど心の中で自問自答する。そんなことばかり考えていると中々眠れない。明日の僕に迷惑をかけるのも良くないので、頑張って寝ます。
そして今日。5月11日だ。
日記を開いたまま呆然とする。筆跡や思考内容からしてこれは自分のものに間違いないのに、これを書いた記憶が微塵もない。
「前向性健忘症と言って、1、2日しか記憶を保てなくなっているの」
前向性健忘。結構昔に、医療ドラマか何かで聞いたことがあるような気がする。だがしかし、それはあくまでもドラマの中の話だと思っていた。まさか現実に、自分の身に起きてしまうだなんて。
「この日記に書いてあるんだけどさ」
真っ先に頭に浮かんだことを友穂に問いかける。
「もしかして過去の僕は何回か情緒不安定になって、友穂や亮二とかを…傷つけたことがあるの?」
途端、彼女が俯く。そりゃあそうか。「過去のあなたは現実を受け入れられなくて周りの人を傷つけました」だなんて、ストレートに言えるはずがない。
「いや、なんて言うか…もしそうだったなら、ごめん。過去の自分に代わって謝らせてほしい」
友穂が神妙な顔つきになる。
「違うの!本当に辛いのは、間違いなく祐一の方だから…!謝る必要なんてない」
彼女は僕を諭すように、優しい眼差しを向けていた。
「私が、祐一のことを守るから」
目と目が合う。それは、決意に満ちた瞳だった。
コンコン。その瞬間、扉がノックされる。
「坂根さん、定時検査の時間となっておりますので準備の方をよろしくお願いします」
扉から顔を覗かせた看護師がそう言い残していった。
「ごめん、検査に行ってくる」
「うん、ここで待ってるから」
ベッドから降りて部屋を出る。足の方の怪我は大した程では無いらしく、難なく歩くことができた。
私があなたのことを守るから。
廊下を歩く途中、先程の友穂の言葉とあの儚げな表情がリフレインして、胸の辺りが苦しくなる。
いいや、彼女をあんな風にしてしまったのは、他でもない僕自身だ。
「…あなたのことを、幸せにしたいんです」
あまり思い出したくはない、告白の時の言葉を誰にも聞こえない声量で呟く。
そうだ。僕は友穂を幸せにしたい。記憶障害を負ったって、その気持ちに間違いなんてない。
じゃあこの現状は何だ?毎日のようにお見舞いに来てもらって、それにも関わらず時に彼女を傷つけ、今日はあんな儚げな表情をさせる。これは僕がしたかったこととは、全くの逆なんじゃないか。
僕は、友穂の隣に立つ資格は無い…
そう考えた時、僕がすべきことが1つ、頭の中に浮かんだ。浮かんでしまった。
軽い検査が終わり、再び病室に戻る。
「おかえり!」
「ただいま、友穂」
あいも変わらずに病室で待っててくれていた。
「検査の方はどうだった?」
「特に異常は無いって。それで、明日退院できるらしい」
「そうなんだ!良かったね!」
少しの間会話する。記憶障害が嘘であるかのように楽しい時間を過ごした。
しかし…僕にはやらなければいけないことがある。
「友穂、ちょっと話したいことがある」
友穂は背筋をピンと伸ばして聞く姿勢を取ってくれた。一度深呼吸をし、確かな言葉を紡ぐ。
「友穂が今の状態に少しでも辛さを感じているなら、僕たち別れよう」
決して広くはない病室で、僕の声がやけに五月蝿く聞こえた。
「え…どうして?」
「今の僕じゃ、友穂のことを幸せにはできない。だから」
「違うよ。幸せは、2人で作っていくものだから。私は全然辛くないよ」
僕が言い終わる前に友穂が言葉を重ねてきた。
嘘だ。辛くないはずがない。僕はもう友穂にあんな哀しげな表情をさせたくない。
「やめてくれ…友穂が無理をしてまで側にいる義務なんてないから。僕の方まで辛くなるから…」
思い思いに言葉を発す。思ったより強い口調になってしまっていたことを僕は知らなかった。
「…そう、だよね」
友穂は目に涙を浮かべていた。僕は初めて自分の言葉が彼女を傷つけたのだと知った。
「ごめん、今日は帰るね。また、来る、から」
「待って…!」
呼びかける間も無く友穂は病室を出ていった。病室の扉がカシャンと乾いた音を立てる。
ベッドの上でため息をつく。
そうだよ、これでいいじゃないか。このまま恋人関係が消滅すれば、友穂は僕から解放されるから。
気を紛らわそうと、過去の自分が書いた日記に目を通す。何となく現実を受け入れはじめてはいるが、空白の1ヶ月間に対する喪失感は未だに胸を苦しめる。胸が痛いのはそれだけが理由ではないのかもしれないけれど。
すると突然扉が開く。驚くべきことに亮二がいた。ノックしないところが彼らしい。
「よう祐一!調子はどうだ?」
目が合うなり亮二は気さくに話しかけてくれる。僕のことを少しでも元気づけようと努めてくれているのだろうか。
「おはよう亮二。僕は大丈夫。明日には退院できるんだってさ」
「そいつは良かった。差し入れのお菓子持ってきたから、腹が減ったらそれ食ってくれよな」
彼の手にはビニール袋が。日記にも書いていたが、やはり彼には頭が上がらない。
「そういえばさ、俺たちの大学に清原教授って人いるだろ?あの人、教授辞めることにしたらしいぞ」
「ええまじか。めっちゃ驚いた」
しばらくの間、二人で談笑する。記憶障害になっても変わらない接し方でいてくれる。今の僕にとってはそれが一番嬉しかった。
「ちょっと、相談したいことがあるんだけどさ」
思い切って亮二に自分の想いを打ち明ける。
「僕…友穂と別れた方が良いような気がするんだ」
亮二が顔を強張らせたように見えた。
「それはまた、どうしてだ?」
「一番最初に想いを伝えた時、友穂のことを幸せにしたいって誓ったんだ。でも、記憶障害を負った僕だともう…」
きっと、これが正しい。
「友穂を幸せにはできない。さっきまでだって、ずっと寂寥感のある表情をしていた。いや違う、僕がそうさせたんだ」
亮二は口を出さずに耳を傾けてくれていた。やがて口を開く。
「それってさ、友穂さんのことを考えた場合だよな?」
友穂のことを考えた場合?それ以外にどんな場合があるというのか。
「祐一自身の気持ちはどうなんだ?」
「え?」
「友穂さんの気持ちを考えることだって勿論大事だ。でもそれ以上に、祐一自身の気持ちを大事にして欲しい」
僕の、気持ち…?
「相手の気持ちを尊重できるのは間違いなくお前の長所だと思う。でも、それで自分の気持ちを殺してしまうのは、祐一が幸せを諦めてしまうのは、俺は耐えられない」
亮二は苦悶の表情を浮かべていた。要するにそれは自己犠牲だと言いたいのだろう。確かに亮二の言い分も理解できる。それでもだ。記憶を保持できない僕が多少の自己犠牲を払う方が一番合理的ではないのか。
頭に浮かんだことをそのまま亮二に伝える。
「お前は…友穂さんと関係を絶っても本当に大丈夫なのか?」
しつこいと思った。さっきから言っているじゃないか。僕はもういいんだ。幸せを望まない。望む資格がない。望んではいけない。望んで、は…いけない。
あれ?どうしてだろう。目から雫が滴り落ちていく。一度自覚してからはもう止まることを知らない。
「うぅっ…どうして、どうしてっ!」
「よかった、体は嘘をつかないみたいだな」
それから亮二は優しげな眼差しで僕を見ていた。
「自分が友穂さんの幸せを邪魔しているとか考えちゃだめだ。もっと自分本位で良いんだ。祐一が少しくらい自分の気持ちに正直になったって、何の罰も当たらないさ」
あぁ、やっと気づいた。僕は自分の気持ちを押し殺していたんだ。そのせいで一番幸せにしたいはずの友穂を傷つけてしまった。自分の気持ちを大切にできない人に、他人を幸せにすることなんてできないみたいだ。
今からでも、間に合うのだろうか。僕はゆっくりとベッドから立ちあがる。
「友穂のところに、行きたい」
その意気だ!と激励するかのように亮二は笑顔になる。
「ていうか、外出ってできるのか?」
「うん、申請すればいける。ただ、付き添い人が絶対必要になるらしいんだ。だから、亮二、一緒に来てもらえないかな」
改めて亮二の方を向いてお願いする。すると彼は答えた。
「勿論よ!お前の手助けなら喜んで引き受けるぞ!」
こうして僕は久しぶりに外に出ることになった。久々の暖かな陽気が体を包み込む。日記に、外出したという旨の記録が無かったため、もしかしたら1ヶ月もの間外に出ていなかったのかもしれない。
「友穂さんがどこにいるのか、見当は付くのか?」
「うん。僕の予想が正しければ…友穂は、僕らの“始まりの場所”にいるはず」
「始まりの場所…まさか、初めて友穂さんと出会ったあの山奥か!」
正直に言うと確証は無い。しかし、おそらく今の友穂は1人になりたがっている。そんな友穂が1人になれる場所。そう考えると、山奥にいるという1つの結論に結びついた。
「良いぜ。2ヶ月ぶりに2人であの山登るか!」
「ありがとう、亮二…!」
こうして僕らは山を登った。葉っぱの色が少し濃くなっているといったような、2ヶ月前…体感では1ヶ月前に登った時から微妙な変化が見られて何だか不思議な気分になった。
歩を進めること十数分。例の茂みのもとに辿り着いた。この茂みを掻き分けて進めば、友穂との出会いの場所だ。
「じゃ、頑張れよ」
「え」
「え、って何だよ。俺はここで待ってるから、2人で話してくるんだ。無責任な言い方にはなるが、これは祐一と友穂さんの問題だからな」
薄々こうなることは分かっていたけれど、いざ目の前にすると緊張する。
「分かった。行ってくる」
茂みを1人で掻き分けて進む。やけに時間の進みが遅く感じられた。
刹那、視界が開けた。あの時と同じ、やけに広い草原のような場所。そしてその真ん中にいるのは…
「友穂!」
愛しい人の名前を叫ぶ。友穂もこちらに気づいたようで、驚き、目を丸くしていた。友穂のところへ駆け出していく。
「どうして、ここが…!?」
「もしかしたらここなんじゃないかって思ってね。それでさ、話したいことがあるんだ」
一呼吸置いて、話し始める。
「さっきはごめん。すごく感情的になっちゃって…本当はもっと冷静に話し合うべきだったのに、友穂のことを傷つけた。本当に、ごめん!」
「私の、方も…」
友穂が呟いたのを聞き逃さなかった。
「私も、あなたのことを幸せにするって、一緒に幸せになろうって、ずっと言ってきたけど…ただの押し付けに過ぎないんだって気づいた。あなたに寄り添っていられなかったのは、私の方なの!」
いや、違うんだ。友穂が謝る必要なんてない。
「さっき亮二から怒られちゃったよ。僕が自己犠牲しているって。相手のことだけを考え過ぎて、自分の幸せを諦めてしまっているって。自分の気持ちに正直になって大丈夫だって」
「そう、だったんだ」
「だからさ…僕の我儘を聞いてもらえませんか」
胸がドクドクと鼓動している。それもそのはず、僕は今から酷く青くさい台詞を言おうとしているのだから。
「これから2人で、幸せになりたいです」
確かな言葉で、そう伝えた。その瞬間体に温もりを感じた。友穂が抱きしめてきたのだ。
「うん、ありがとう…!幸せに、なろうね」
耳元で友穂が鼻を啜る音が聞こえた。表情が見えないから、泣いているのかどうかは分からなかった。
こうして僕らは仲直りをして、再び病室に戻ってきた。亮二は「また明日来る」と言って帰っていった。申し訳ないと思いつつも、今は彼の優しさに甘えることにした。
外では日が沈み始めている。この太陽が次登る頃には、僕は今日のことを忘れているんだろうか。
そんな弱気なことを考えているのが伝わったのか、友穂が僕の手を握ってくれた。
「明日退院できるんでしょ。退院したらさ、今度こそ色々なところに遊びに行こうよ」
明日以降の僕の未来を信じてくれている。それは一寸先も見えない今の僕にとって暖かな言葉だった。
「今度は交通事故に遭わないようにしないとね」
「もう、不謹慎なんだから」
冗談めかして言うと友穂も冗談に乗ってくれる。
「あれ、そろそろ面会時間終わりじゃない?」
時計を見て言う。
「あ、本当だ…寂しくなるね」
“寂しくなるね”。単に会えないことが寂しいんじゃなくて、もうこの記憶を保持した僕とは会えなくなるから…。そのような思いも含まれているのかもしれない。
「それじゃあ…明日の僕のことも、どうかよろしく」
「私に任せて。…それじゃあね」
明日から退院。記憶障害が治っていないとはいえ、毎日病院で目が覚めるよりはマシか。
そこまで考えて、ふと頭に疑問符が浮かぶ。
僕は退院した後、どこに帰るのだろう?
5月11日
友穂と喧嘩してしまった。亮二に打ち明けたところ、もっと自分の気持ちに正直になった方が良いと言われた。そこでやっと自分の気持ちに気づいた。僕は友穂と一緒にいたい。友穂にその気持ちを面と向かって伝えて、仲直りした。
未来の自分へ。たまにはもう少し我儘になって大丈夫です。僕が保証します。あともう一つ。僕は明日で退院になるみたいなので、色々大変かもしれないけど頑張って。それじゃあ、おやすみ。
*
朝、目が覚めると不思議な感覚に襲われた。自分が自分じゃないかのような、正直よく分からない感覚。
微睡みがかった意識が晴れていくにつれて、僕が目覚めた場所が自分の家ではないことに気づく。
ゆっくりと起き上がると、2人の人物が目に映った。
優しげな目つきが印象的な父さん。そして、何故だか心ここに在らずといった様子の母さん。
「あれ、父さんに母さん…どうしたの?」
心配そうな顔をする2人に素朴な疑問を投げかけると、父さんが答えた。
「祐一。落ち着いて聞いてくれ。祐一は…交通事故に遭って記憶障害を負ってしまったんだ」
開いた口が塞がらないとはまさにこのことだろう。真偽を確かめようと母さんに目をやると、母さんは小さく頷いた。
「事故に遭った記憶なんて全く無い。怖い、怖いよ2人とも」
すると父さんが緑色のノートを取り出した。
「これは祐一が毎日付けていた日記だ。俺たちは日記の内容を知らないけれど、きっと過去の祐一の色んな感情が記されていると思う。少し、読んでみてくれないか?」
恐る恐るページをめくる。
そこには、記憶障害を負ってから今日に至るまでの様子が克明に書かれていた。無我夢中で読み進める。最後に書かれたのが5月11日。ということは、現時点で事故から1ヶ月以上が経っているというのか。
「受け入れられないのは当然だと思う。もし落ち着いたら、声をかけてくれるか?今日は、遂に退院の日なんだ」
5月11日の日記に書いていた通り、本当に今日が退院なのか。
「うん分かった。まだ実感が湧いていないからかもしれないけど、何故かあまりショックじゃないんだ」
「おおそうか。それは良かった。それで…一度大学は休んで、実家の方で療養するのが良いと思っているんだが、それで大丈夫か?」
この状態ではまともに大学に通えないだろうし、治る可能性が出てくるまで安静にしてるのが最適なように思えた。
しかし。
頭の中のもう1人の自分が、「それは違う」と語りかけてくる。どうしてだろう。今は療養に専念するべきな筈だ。
思案していると、ドアがノックされた。看護師だろうか?
と思っていたのも束の間、中に入ってきたのは…
「おはようございます。祐一の、お父さんにお母さん」
「おお、今日も来てくれてありがとうございます。幸い、息子も今日は記憶障害のことを受け入れているようで」
友穂だった。うちの親と面識なんてあったっけ?あぁ、もしかして、こうして面会に来る時に知り合ったのかもしれない。
「おはよう祐一。今日で退院だってね、おめでとう!」
「うん、ありがと」
ふと思い当たる。実家に帰ったら、友穂との関係はどうなるのだろう。普通なら遠距離恋愛という形になるのだろう。しかし、僕は記憶が1日2日しか持たない。そんな状態で遠距離恋愛をするのは、どう考えても現実的ではない。だとしたらやはり…
「お気の毒ですが、祐一は実家の方に連れて帰りたいと思います。母さんとも話し合って、今は祐一の体を一番に考えようという結論に至りました。ですので、どうかご理解ください」
父さんが友穂にそう伝えた。友穂は、憂いを帯びた表情で小さく頷いていた。
その表情を見て、胸の辺りが苦しくなる。
“未来の自分へ。たまにはもう少し我儘になって大丈夫です”。
昨日の日記に書いてあったあの文章が脳を掠める。
僕は、今ここで、我儘になって良いだろうか。両親や友穂のことを困らせてしまうかもしれない。それでも…
ーーー僕が保証します。
記憶にはない昨日の僕が、背中を押してくれたような気がした。
「いやだ」
病室に、僕の声が響いた。
「いやだって…どういうことだ?」
父さんが尋ねてくる。
「僕は実家には帰りたくない。友穂と、一緒に居たいんだ」
友穂が目を見開いた。それもそのはず、この言葉は半ばプロポーズのようなものだ。
「その気持ちは痛いほど分かる。だが…こっちに残ると不測の事態が起きた時に親がすぐに対応できない。それに何より…祐一自身が苦労する」
「苦労しない人生なんて、無いと思う」
気づいたら反射的に口から出ていた。
「仮に実家に戻って障害が治ったとしても、その後にどうするのかとか…どんな道を選んでもやっぱり苦労は尽きないと思うんだ」
この場にいる全員が僕の方を見ている。ここまで口に出したからにはもう止まれない。いや、止まらない。
「それに、たくさん苦労すればするほど、その後には大きな幸せを感じられる筈だから。僕は、友穂と一緒にそんな幸せを見つけていきたい」
皆が沈黙する。病室の外で響くスリッパの音がやけに耳に響く。
最初に沈黙を破ったのは、父さんだった。
「苦労しない人生はない、か…確かにそうなのかもな」
父さんが続ける。
「祐一は子供の頃から滅多に親の意見に反抗してくることが無かった。だからこうして反対されたのは初めてだ。それくらい、本気なんだろ?」
父さんが口角を上げて僕の方を向く。それに応えるようにして深く頷いた。
「私も、祐一と同じ気持ちです。私が彼の側にいます。だから、彼の気持ちを尊重させてあげたいです。それに…私も彼と一緒にいたいです」
友穂…!
「分かりました。友穂さんに祐一のことを託します。母さんも、それで良いか?」
「ええ。息子が大切な人に出会えたようで、こんな状況ですが私は嬉しく思います」
父さん、母さん…!
「ありがとう。僕の我儘を聞いてくれて」
こうして、僕はここに残ることになった。
退院の手続きをして、両親や友穂と共に今後について話し合った。その結果、しばらくの間友穂の家に泊めてもらうことになった。病院が近く、不測の事態に対応できるという理由で、だ。
両親と別れて友穂の家へ。玄関を開けて中に入る。木造建築らしい木の匂いが鼻を刺激する。
「お世話になります」
「そんなにかしこまらなくて大丈夫だよ」
2人で会話をしながら、2人が最低限住める程度の空間を整備していく。と言っても僕は見てるだけなのだが。
家の整備をして、ご飯を食べて、長かった1日が終わろうとしていた。
「祐一、本当にソファで寝て大丈夫なの?」
寝る準備をしていると友穂が尋ねてきた。
「流石にベッド使うわけにもいかないって」
「はたまた、一緒のベッドで寝ちゃったりする?」
「いやちょっと良いかな…」
「え、断るの早いわよ」
そんな冗談めかした会話をする。
「もう寝ようよ。…それじゃ、明日の僕のことも、よろしく」
これだけ濃い1日を過ごしたにも関わらず、明日には記憶から抜けているんだろう。そう考えるとなんとも言い表せない気持ちになる。
「うん任せて。それじゃあおやすみ」
5月12日
退院した。親の意見に反対して、友穂のもとに残ることにした。過去の自分が勇気をくれたから、自分の気持ちを話すことができた。やはり過去の自分は一番信頼できるらしい。友穂との同棲生活、不安もあるけれど、明日の自分に託します。どうか、頑張って。
微睡みがかった意識が晴れていくにつれて、僕が目覚めた場所が自分の家ではないことに気づく。
「ここは、病院?」
「うん、そうだよ」
声の方に視線を向けると友穂が座っていた。
「え、なんで友穂がここに?」
目覚めたらいきなり病院にいて、隣には恋人の友穂がいる。何があったんだっけ?と昨日の出来事を思い出そうとするが、特別なことをした記憶は無い。
「落ち着いて聞いてね。あなたは…交通事故にあったの。その後遺症で、記憶障害になってしまったんだ」
え?交通事故?そんなものは全く記憶にないし、痛みもない。何かのドッキリかな?と思ったがすぐに違うと確信する。だって、友穂がとても寂しそうな表情を浮かべていたから。
「祐一、今日が何月何日か分かる?」
「えーっと、4月の5日じゃないっけ?」
答えると、友穂はスマホのホーム画面を見せてきた。そこに書いてあるのは…5月11日。
5月?そんなわけがない。
「ねえどうして?記憶障害って何!?」
思わず声量が大きくなる。ここが病院なのは分かっていたが、落ち着かずにはいられなかった。
すると友穂は悲哀に満ちた表情を浮かべたまま、一冊の緑色のノートを取り出した。
「これは、あなたが記憶障害を負い始めた日からあなたが毎日書いている日記なの。これを読めば、この1ヶ月で何があったか分かるから」
怖かった。この日記すら自分で書いた記憶がない。恐る恐る中身を確認してみた。
4月6日
目覚めたら病院にいた。友穂が状況の説明をしてくれる。どうやら僕は交通事故に遭って記憶障害を持ち始めてしまったらしいです。きっとこれからも記憶を失い続けてしまうであろう未来の自分の為に、毎日日記を綴ることにします。
4月10日
今日は両親から症状の説明をされた。少しの間仕事を休んでいるらしい。親不孝な息子でごめんなさい。
4月18日
今日は亮二が朝早くからお見舞いに来てくれた。どうやら昨日の僕が亮二と会う約束を交わしていたみたい。いつものように頼もしい顔つきで憔悴する僕のことを慰めてくれた。本当、彼には頭が上がらない。
4月27日
どうして僕がこんな目に遭わなくちゃいけないいんだ。記憶を保持できないままついに1ヶ月近くが経とうとしているらしい。やり場の無い怒りに任せて友穂や親に強く当たってしまった。明日以降の僕はどうかこんなことしないでください。日記を見て少しでも心を落ち着かせて。
5月10日
気づけば僕の中に空白の1ヶ月が過ぎていた。こんな状態で生きていて何の意味がある?流石に口には出さないけれど心の中で自問自答する。そんなことばかり考えていると中々眠れない。明日の僕に迷惑をかけるのも良くないので、頑張って寝ます。
そして今日。5月11日だ。
日記を開いたまま呆然とする。筆跡や思考内容からしてこれは自分のものに間違いないのに、これを書いた記憶が微塵もない。
「前向性健忘症と言って、1、2日しか記憶を保てなくなっているの」
前向性健忘。結構昔に、医療ドラマか何かで聞いたことがあるような気がする。だがしかし、それはあくまでもドラマの中の話だと思っていた。まさか現実に、自分の身に起きてしまうだなんて。
「この日記に書いてあるんだけどさ」
真っ先に頭に浮かんだことを友穂に問いかける。
「もしかして過去の僕は何回か情緒不安定になって、友穂や亮二とかを…傷つけたことがあるの?」
途端、彼女が俯く。そりゃあそうか。「過去のあなたは現実を受け入れられなくて周りの人を傷つけました」だなんて、ストレートに言えるはずがない。
「いや、なんて言うか…もしそうだったなら、ごめん。過去の自分に代わって謝らせてほしい」
友穂が神妙な顔つきになる。
「違うの!本当に辛いのは、間違いなく祐一の方だから…!謝る必要なんてない」
彼女は僕を諭すように、優しい眼差しを向けていた。
「私が、祐一のことを守るから」
目と目が合う。それは、決意に満ちた瞳だった。
コンコン。その瞬間、扉がノックされる。
「坂根さん、定時検査の時間となっておりますので準備の方をよろしくお願いします」
扉から顔を覗かせた看護師がそう言い残していった。
「ごめん、検査に行ってくる」
「うん、ここで待ってるから」
ベッドから降りて部屋を出る。足の方の怪我は大した程では無いらしく、難なく歩くことができた。
私があなたのことを守るから。
廊下を歩く途中、先程の友穂の言葉とあの儚げな表情がリフレインして、胸の辺りが苦しくなる。
いいや、彼女をあんな風にしてしまったのは、他でもない僕自身だ。
「…あなたのことを、幸せにしたいんです」
あまり思い出したくはない、告白の時の言葉を誰にも聞こえない声量で呟く。
そうだ。僕は友穂を幸せにしたい。記憶障害を負ったって、その気持ちに間違いなんてない。
じゃあこの現状は何だ?毎日のようにお見舞いに来てもらって、それにも関わらず時に彼女を傷つけ、今日はあんな儚げな表情をさせる。これは僕がしたかったこととは、全くの逆なんじゃないか。
僕は、友穂の隣に立つ資格は無い…
そう考えた時、僕がすべきことが1つ、頭の中に浮かんだ。浮かんでしまった。
軽い検査が終わり、再び病室に戻る。
「おかえり!」
「ただいま、友穂」
あいも変わらずに病室で待っててくれていた。
「検査の方はどうだった?」
「特に異常は無いって。それで、明日退院できるらしい」
「そうなんだ!良かったね!」
少しの間会話する。記憶障害が嘘であるかのように楽しい時間を過ごした。
しかし…僕にはやらなければいけないことがある。
「友穂、ちょっと話したいことがある」
友穂は背筋をピンと伸ばして聞く姿勢を取ってくれた。一度深呼吸をし、確かな言葉を紡ぐ。
「友穂が今の状態に少しでも辛さを感じているなら、僕たち別れよう」
決して広くはない病室で、僕の声がやけに五月蝿く聞こえた。
「え…どうして?」
「今の僕じゃ、友穂のことを幸せにはできない。だから」
「違うよ。幸せは、2人で作っていくものだから。私は全然辛くないよ」
僕が言い終わる前に友穂が言葉を重ねてきた。
嘘だ。辛くないはずがない。僕はもう友穂にあんな哀しげな表情をさせたくない。
「やめてくれ…友穂が無理をしてまで側にいる義務なんてないから。僕の方まで辛くなるから…」
思い思いに言葉を発す。思ったより強い口調になってしまっていたことを僕は知らなかった。
「…そう、だよね」
友穂は目に涙を浮かべていた。僕は初めて自分の言葉が彼女を傷つけたのだと知った。
「ごめん、今日は帰るね。また、来る、から」
「待って…!」
呼びかける間も無く友穂は病室を出ていった。病室の扉がカシャンと乾いた音を立てる。
ベッドの上でため息をつく。
そうだよ、これでいいじゃないか。このまま恋人関係が消滅すれば、友穂は僕から解放されるから。
気を紛らわそうと、過去の自分が書いた日記に目を通す。何となく現実を受け入れはじめてはいるが、空白の1ヶ月間に対する喪失感は未だに胸を苦しめる。胸が痛いのはそれだけが理由ではないのかもしれないけれど。
すると突然扉が開く。驚くべきことに亮二がいた。ノックしないところが彼らしい。
「よう祐一!調子はどうだ?」
目が合うなり亮二は気さくに話しかけてくれる。僕のことを少しでも元気づけようと努めてくれているのだろうか。
「おはよう亮二。僕は大丈夫。明日には退院できるんだってさ」
「そいつは良かった。差し入れのお菓子持ってきたから、腹が減ったらそれ食ってくれよな」
彼の手にはビニール袋が。日記にも書いていたが、やはり彼には頭が上がらない。
「そういえばさ、俺たちの大学に清原教授って人いるだろ?あの人、教授辞めることにしたらしいぞ」
「ええまじか。めっちゃ驚いた」
しばらくの間、二人で談笑する。記憶障害になっても変わらない接し方でいてくれる。今の僕にとってはそれが一番嬉しかった。
「ちょっと、相談したいことがあるんだけどさ」
思い切って亮二に自分の想いを打ち明ける。
「僕…友穂と別れた方が良いような気がするんだ」
亮二が顔を強張らせたように見えた。
「それはまた、どうしてだ?」
「一番最初に想いを伝えた時、友穂のことを幸せにしたいって誓ったんだ。でも、記憶障害を負った僕だともう…」
きっと、これが正しい。
「友穂を幸せにはできない。さっきまでだって、ずっと寂寥感のある表情をしていた。いや違う、僕がそうさせたんだ」
亮二は口を出さずに耳を傾けてくれていた。やがて口を開く。
「それってさ、友穂さんのことを考えた場合だよな?」
友穂のことを考えた場合?それ以外にどんな場合があるというのか。
「祐一自身の気持ちはどうなんだ?」
「え?」
「友穂さんの気持ちを考えることだって勿論大事だ。でもそれ以上に、祐一自身の気持ちを大事にして欲しい」
僕の、気持ち…?
「相手の気持ちを尊重できるのは間違いなくお前の長所だと思う。でも、それで自分の気持ちを殺してしまうのは、祐一が幸せを諦めてしまうのは、俺は耐えられない」
亮二は苦悶の表情を浮かべていた。要するにそれは自己犠牲だと言いたいのだろう。確かに亮二の言い分も理解できる。それでもだ。記憶を保持できない僕が多少の自己犠牲を払う方が一番合理的ではないのか。
頭に浮かんだことをそのまま亮二に伝える。
「お前は…友穂さんと関係を絶っても本当に大丈夫なのか?」
しつこいと思った。さっきから言っているじゃないか。僕はもういいんだ。幸せを望まない。望む資格がない。望んではいけない。望んで、は…いけない。
あれ?どうしてだろう。目から雫が滴り落ちていく。一度自覚してからはもう止まることを知らない。
「うぅっ…どうして、どうしてっ!」
「よかった、体は嘘をつかないみたいだな」
それから亮二は優しげな眼差しで僕を見ていた。
「自分が友穂さんの幸せを邪魔しているとか考えちゃだめだ。もっと自分本位で良いんだ。祐一が少しくらい自分の気持ちに正直になったって、何の罰も当たらないさ」
あぁ、やっと気づいた。僕は自分の気持ちを押し殺していたんだ。そのせいで一番幸せにしたいはずの友穂を傷つけてしまった。自分の気持ちを大切にできない人に、他人を幸せにすることなんてできないみたいだ。
今からでも、間に合うのだろうか。僕はゆっくりとベッドから立ちあがる。
「友穂のところに、行きたい」
その意気だ!と激励するかのように亮二は笑顔になる。
「ていうか、外出ってできるのか?」
「うん、申請すればいける。ただ、付き添い人が絶対必要になるらしいんだ。だから、亮二、一緒に来てもらえないかな」
改めて亮二の方を向いてお願いする。すると彼は答えた。
「勿論よ!お前の手助けなら喜んで引き受けるぞ!」
こうして僕は久しぶりに外に出ることになった。久々の暖かな陽気が体を包み込む。日記に、外出したという旨の記録が無かったため、もしかしたら1ヶ月もの間外に出ていなかったのかもしれない。
「友穂さんがどこにいるのか、見当は付くのか?」
「うん。僕の予想が正しければ…友穂は、僕らの“始まりの場所”にいるはず」
「始まりの場所…まさか、初めて友穂さんと出会ったあの山奥か!」
正直に言うと確証は無い。しかし、おそらく今の友穂は1人になりたがっている。そんな友穂が1人になれる場所。そう考えると、山奥にいるという1つの結論に結びついた。
「良いぜ。2ヶ月ぶりに2人であの山登るか!」
「ありがとう、亮二…!」
こうして僕らは山を登った。葉っぱの色が少し濃くなっているといったような、2ヶ月前…体感では1ヶ月前に登った時から微妙な変化が見られて何だか不思議な気分になった。
歩を進めること十数分。例の茂みのもとに辿り着いた。この茂みを掻き分けて進めば、友穂との出会いの場所だ。
「じゃ、頑張れよ」
「え」
「え、って何だよ。俺はここで待ってるから、2人で話してくるんだ。無責任な言い方にはなるが、これは祐一と友穂さんの問題だからな」
薄々こうなることは分かっていたけれど、いざ目の前にすると緊張する。
「分かった。行ってくる」
茂みを1人で掻き分けて進む。やけに時間の進みが遅く感じられた。
刹那、視界が開けた。あの時と同じ、やけに広い草原のような場所。そしてその真ん中にいるのは…
「友穂!」
愛しい人の名前を叫ぶ。友穂もこちらに気づいたようで、驚き、目を丸くしていた。友穂のところへ駆け出していく。
「どうして、ここが…!?」
「もしかしたらここなんじゃないかって思ってね。それでさ、話したいことがあるんだ」
一呼吸置いて、話し始める。
「さっきはごめん。すごく感情的になっちゃって…本当はもっと冷静に話し合うべきだったのに、友穂のことを傷つけた。本当に、ごめん!」
「私の、方も…」
友穂が呟いたのを聞き逃さなかった。
「私も、あなたのことを幸せにするって、一緒に幸せになろうって、ずっと言ってきたけど…ただの押し付けに過ぎないんだって気づいた。あなたに寄り添っていられなかったのは、私の方なの!」
いや、違うんだ。友穂が謝る必要なんてない。
「さっき亮二から怒られちゃったよ。僕が自己犠牲しているって。相手のことだけを考え過ぎて、自分の幸せを諦めてしまっているって。自分の気持ちに正直になって大丈夫だって」
「そう、だったんだ」
「だからさ…僕の我儘を聞いてもらえませんか」
胸がドクドクと鼓動している。それもそのはず、僕は今から酷く青くさい台詞を言おうとしているのだから。
「これから2人で、幸せになりたいです」
確かな言葉で、そう伝えた。その瞬間体に温もりを感じた。友穂が抱きしめてきたのだ。
「うん、ありがとう…!幸せに、なろうね」
耳元で友穂が鼻を啜る音が聞こえた。表情が見えないから、泣いているのかどうかは分からなかった。
こうして僕らは仲直りをして、再び病室に戻ってきた。亮二は「また明日来る」と言って帰っていった。申し訳ないと思いつつも、今は彼の優しさに甘えることにした。
外では日が沈み始めている。この太陽が次登る頃には、僕は今日のことを忘れているんだろうか。
そんな弱気なことを考えているのが伝わったのか、友穂が僕の手を握ってくれた。
「明日退院できるんでしょ。退院したらさ、今度こそ色々なところに遊びに行こうよ」
明日以降の僕の未来を信じてくれている。それは一寸先も見えない今の僕にとって暖かな言葉だった。
「今度は交通事故に遭わないようにしないとね」
「もう、不謹慎なんだから」
冗談めかして言うと友穂も冗談に乗ってくれる。
「あれ、そろそろ面会時間終わりじゃない?」
時計を見て言う。
「あ、本当だ…寂しくなるね」
“寂しくなるね”。単に会えないことが寂しいんじゃなくて、もうこの記憶を保持した僕とは会えなくなるから…。そのような思いも含まれているのかもしれない。
「それじゃあ…明日の僕のことも、どうかよろしく」
「私に任せて。…それじゃあね」
明日から退院。記憶障害が治っていないとはいえ、毎日病院で目が覚めるよりはマシか。
そこまで考えて、ふと頭に疑問符が浮かぶ。
僕は退院した後、どこに帰るのだろう?
5月11日
友穂と喧嘩してしまった。亮二に打ち明けたところ、もっと自分の気持ちに正直になった方が良いと言われた。そこでやっと自分の気持ちに気づいた。僕は友穂と一緒にいたい。友穂にその気持ちを面と向かって伝えて、仲直りした。
未来の自分へ。たまにはもう少し我儘になって大丈夫です。僕が保証します。あともう一つ。僕は明日で退院になるみたいなので、色々大変かもしれないけど頑張って。それじゃあ、おやすみ。
*
朝、目が覚めると不思議な感覚に襲われた。自分が自分じゃないかのような、正直よく分からない感覚。
微睡みがかった意識が晴れていくにつれて、僕が目覚めた場所が自分の家ではないことに気づく。
ゆっくりと起き上がると、2人の人物が目に映った。
優しげな目つきが印象的な父さん。そして、何故だか心ここに在らずといった様子の母さん。
「あれ、父さんに母さん…どうしたの?」
心配そうな顔をする2人に素朴な疑問を投げかけると、父さんが答えた。
「祐一。落ち着いて聞いてくれ。祐一は…交通事故に遭って記憶障害を負ってしまったんだ」
開いた口が塞がらないとはまさにこのことだろう。真偽を確かめようと母さんに目をやると、母さんは小さく頷いた。
「事故に遭った記憶なんて全く無い。怖い、怖いよ2人とも」
すると父さんが緑色のノートを取り出した。
「これは祐一が毎日付けていた日記だ。俺たちは日記の内容を知らないけれど、きっと過去の祐一の色んな感情が記されていると思う。少し、読んでみてくれないか?」
恐る恐るページをめくる。
そこには、記憶障害を負ってから今日に至るまでの様子が克明に書かれていた。無我夢中で読み進める。最後に書かれたのが5月11日。ということは、現時点で事故から1ヶ月以上が経っているというのか。
「受け入れられないのは当然だと思う。もし落ち着いたら、声をかけてくれるか?今日は、遂に退院の日なんだ」
5月11日の日記に書いていた通り、本当に今日が退院なのか。
「うん分かった。まだ実感が湧いていないからかもしれないけど、何故かあまりショックじゃないんだ」
「おおそうか。それは良かった。それで…一度大学は休んで、実家の方で療養するのが良いと思っているんだが、それで大丈夫か?」
この状態ではまともに大学に通えないだろうし、治る可能性が出てくるまで安静にしてるのが最適なように思えた。
しかし。
頭の中のもう1人の自分が、「それは違う」と語りかけてくる。どうしてだろう。今は療養に専念するべきな筈だ。
思案していると、ドアがノックされた。看護師だろうか?
と思っていたのも束の間、中に入ってきたのは…
「おはようございます。祐一の、お父さんにお母さん」
「おお、今日も来てくれてありがとうございます。幸い、息子も今日は記憶障害のことを受け入れているようで」
友穂だった。うちの親と面識なんてあったっけ?あぁ、もしかして、こうして面会に来る時に知り合ったのかもしれない。
「おはよう祐一。今日で退院だってね、おめでとう!」
「うん、ありがと」
ふと思い当たる。実家に帰ったら、友穂との関係はどうなるのだろう。普通なら遠距離恋愛という形になるのだろう。しかし、僕は記憶が1日2日しか持たない。そんな状態で遠距離恋愛をするのは、どう考えても現実的ではない。だとしたらやはり…
「お気の毒ですが、祐一は実家の方に連れて帰りたいと思います。母さんとも話し合って、今は祐一の体を一番に考えようという結論に至りました。ですので、どうかご理解ください」
父さんが友穂にそう伝えた。友穂は、憂いを帯びた表情で小さく頷いていた。
その表情を見て、胸の辺りが苦しくなる。
“未来の自分へ。たまにはもう少し我儘になって大丈夫です”。
昨日の日記に書いてあったあの文章が脳を掠める。
僕は、今ここで、我儘になって良いだろうか。両親や友穂のことを困らせてしまうかもしれない。それでも…
ーーー僕が保証します。
記憶にはない昨日の僕が、背中を押してくれたような気がした。
「いやだ」
病室に、僕の声が響いた。
「いやだって…どういうことだ?」
父さんが尋ねてくる。
「僕は実家には帰りたくない。友穂と、一緒に居たいんだ」
友穂が目を見開いた。それもそのはず、この言葉は半ばプロポーズのようなものだ。
「その気持ちは痛いほど分かる。だが…こっちに残ると不測の事態が起きた時に親がすぐに対応できない。それに何より…祐一自身が苦労する」
「苦労しない人生なんて、無いと思う」
気づいたら反射的に口から出ていた。
「仮に実家に戻って障害が治ったとしても、その後にどうするのかとか…どんな道を選んでもやっぱり苦労は尽きないと思うんだ」
この場にいる全員が僕の方を見ている。ここまで口に出したからにはもう止まれない。いや、止まらない。
「それに、たくさん苦労すればするほど、その後には大きな幸せを感じられる筈だから。僕は、友穂と一緒にそんな幸せを見つけていきたい」
皆が沈黙する。病室の外で響くスリッパの音がやけに耳に響く。
最初に沈黙を破ったのは、父さんだった。
「苦労しない人生はない、か…確かにそうなのかもな」
父さんが続ける。
「祐一は子供の頃から滅多に親の意見に反抗してくることが無かった。だからこうして反対されたのは初めてだ。それくらい、本気なんだろ?」
父さんが口角を上げて僕の方を向く。それに応えるようにして深く頷いた。
「私も、祐一と同じ気持ちです。私が彼の側にいます。だから、彼の気持ちを尊重させてあげたいです。それに…私も彼と一緒にいたいです」
友穂…!
「分かりました。友穂さんに祐一のことを託します。母さんも、それで良いか?」
「ええ。息子が大切な人に出会えたようで、こんな状況ですが私は嬉しく思います」
父さん、母さん…!
「ありがとう。僕の我儘を聞いてくれて」
こうして、僕はここに残ることになった。
退院の手続きをして、両親や友穂と共に今後について話し合った。その結果、しばらくの間友穂の家に泊めてもらうことになった。病院が近く、不測の事態に対応できるという理由で、だ。
両親と別れて友穂の家へ。玄関を開けて中に入る。木造建築らしい木の匂いが鼻を刺激する。
「お世話になります」
「そんなにかしこまらなくて大丈夫だよ」
2人で会話をしながら、2人が最低限住める程度の空間を整備していく。と言っても僕は見てるだけなのだが。
家の整備をして、ご飯を食べて、長かった1日が終わろうとしていた。
「祐一、本当にソファで寝て大丈夫なの?」
寝る準備をしていると友穂が尋ねてきた。
「流石にベッド使うわけにもいかないって」
「はたまた、一緒のベッドで寝ちゃったりする?」
「いやちょっと良いかな…」
「え、断るの早いわよ」
そんな冗談めかした会話をする。
「もう寝ようよ。…それじゃ、明日の僕のことも、よろしく」
これだけ濃い1日を過ごしたにも関わらず、明日には記憶から抜けているんだろう。そう考えるとなんとも言い表せない気持ちになる。
「うん任せて。それじゃあおやすみ」
5月12日
退院した。親の意見に反対して、友穂のもとに残ることにした。過去の自分が勇気をくれたから、自分の気持ちを話すことができた。やはり過去の自分は一番信頼できるらしい。友穂との同棲生活、不安もあるけれど、明日の自分に託します。どうか、頑張って。


