「あなたのことが、好きなんです。僕と付き合ってくれませんか?」
 祐一と知り合ってから1ヶ月ほどたったある日の昼時。私は彼に告白された。
「あなたのことを、幸せにしたいんです」
 彼と連絡先を交換してから、定期的に連絡を取り合っていた。そしてあの山奥に遊びに来てくれることもあった。最初こそお互い緊張していたが、会話を重ねて行くごとに打ち解けていき、彼が優しさに溢れた人なのだと知った。
 どうでも良いような話題を振っても祐一はいつも返事をしてくれるし、そして何よりも私の歌を嫌な顔一つせずに何回も聴いてくれた。これほどにまで優しい人に出会ったことがない。そんな彼を、私はーー
「私も、祐一のことが好き」
 確かな言葉でそう答える。刹那、彼の表情が綻んだ。その温かな表情を見て思う。私は確かに彼のことが好きなんだ。彼と一緒に幸せになりたい。
 こうして私たちは正式に付き合い始めた。このことは星原亮二にも伝わっているようで、祐一と2人で挨拶に行くと開口一番「おめでとう!」と言ってくれた。

 幸せな日々が始まった。月に1回ほどのペースでデートをしたり、彼の住むアパートにお邪魔したりと、恋人らしいことをそれとなくこなしていった。彼は恋人を作ったのは初の経験だったらしくーーーかくいう私も初めてなのだがーーーデートプランに営業時間外の店を入れてしまうというような初歩的なミスをすることもしばしばあった。
「私以外の女だったら呆れてるかもよ」
 なんて冗談で口に出してみると、彼は青ざめた表情を浮かべる。
「ごめんごめん、冗談だよ。誰にでも失敗はあるでしょ」
 フォローを入れるとすぐさま彼の表情は元に戻る。良くも悪くも感情の起伏が激しい人だなと思う。見ている分には退屈しないのだが。

 4月5日。桜がちょうど満開を迎えつつあるこの時期。祐一が私の部屋を訪れていた。
私の部屋は祐一のアパートとは少し離れたところにある。
「ねえ友穂、桜、見に行かない?」
 2人でお茶を飲んでいると彼がそう言った。
「ちょうど今咲いてるもんね。私も行きたい。どこか良いスポットあるのかな?」
 すると彼は得意げな表情でスマホの画面で1枚の写真を見せてきた。
「これ、市内の公園にある桜並木らしい。距離的にも近そうだし、屋台とかも出てるらしいんだけど、どうかな…?」
 話しているうちに自信がなくなってくるのか、どんどん声量が小さくなっていくのが彼らしい。だが、かなり魅力的な提案だと思った。
「お、いいね!それじゃ早速行こうよ」
 すんなり承諾されるとは思っていなかったようで、祐一は少し驚いているように見えた。
 私はとてもじゃないが外に出られるような服装ではなかったため彼に一度外に出てもらってから着替えをした。
 身支度を整えて外に出る。ドアを開けた瞬間、春特有の暖かな空気に身を包まれる。暑すぎず寒すぎないこの感覚が私は好きだった。
「準備できた?」
「うん、バッチリ」
 祐一と2人並んで歩く。歩道の所々にも桜が咲いている場所があって、どこに視線を向けても飽きることがない。
 軽く会話を弾ませながら歩いていると突然彼がびくりと体を震わせた。思わずこちらも驚く。
「え、どうしたの?」
「これが降ってきたみたいで…」
 祐一の手には大きな桜の花びらが乗っていた。これが彼の頭の上に降ってきたらしい。
「うーん、それにしても驚きすぎじゃない?」
「いきなり落ちてくると怖いよ…」
 彼は私が思っているよりも極度の怖がりらしい。また彼の新たな一面を知ることができて純粋に嬉しい。
 やがて横断歩道に着いて信号が青に変わるのを待つ。
「ねえ友穂」
 彼が口を開く。
「どうし」
 私の声は、最後まで続かなかった。
 突如耳を貫いた甲高い音に掻き消されたのだ。それがブレーキ音だと気づくのに時間はかからなかった。音のする方向を向くと、巨大な暴走トラックが蛇行している。幸せを破壊するかのようにスリップ音が鳴り響く。
 咄嗟に祐一の手を引いて逃げようとした刹那、そのトラックが容赦なく私の真横を突き抜けた。私の大好きな彼を巻き込んで。
「祐一ッ!!」
 声にならない声で叫んだ。叫ぶことしか、できなかった。
 祐一ッ!!祐一ッ!ゆう…いち…。

「…さん!友穂さん!」
 私の名を呼ぶ声でふと我に返った。あれ、私どうしてたんだっけ。
「友穂さん大丈夫だ。祐一はきっと、無事に戻ってきてくれるから」
 必死な形相で私を呼んでいたのは、あの出会いの日に祐一と一緒にいた、星原亮二だった。
 そうだ思い出した。あの事故の後、祐一が救急車で運ばれて今は手術を受けている最中なのだ。そして事故のことを耳にして病院に駆けつけた星原と合流した。
「…私のせいだ」
 星原に懺悔をしたって意味がない。だけれど今は、誰かに話を聞いてもらいたかった。
「どうしてそう思う?」
「あの事故の瞬間、私があと少しだけ早く動けていればこんな惨事にはならなかったんじゃないかって」
 私が迫り来るトラックに気づいてから事故が起こるまで、僅かながら時間はあった。しかし私は恐怖で動くことができなかった。
「別にあなたに非があるとは思わない」
 きっと気休めでしかないのだろう。他者から言葉をかけられても、自責の念はいつまでも私の周りを取り巻いている。
「不確定な罪を被って生きていくってのは何の幸せにもならない。それであなたの心が蝕まれていくことを、あいつは望んでいないんじゃねーかな」
 “幸せ”。つい数時間前までは私たちが感じていたものだが、残酷なまでにそれは消滅した。
 ただただ時間が過ぎていく。視線を上げれば「手術中」のランプが無機質に赤い光を発している。
 一体どれほどの時が過ぎただろうか。数人の医師が私たちの元にやってきた。その姿を捉えるや否や、私は飛びかかるように言葉を放った。
「手術は、どうなりましたか!?」
「落ち着いてください、今から話します」
 私と星原の二人で別の部屋へと案内される。どうやら祐一の実家は遠くにあるようで、彼の両親はすぐには来られないとのことだった。
 宮沢理奈と名乗る医師から話を聞く。
「まず、手術は成功です。一命を取り留めました」
 一命を取り留めた。その一言を脳が理解した瞬間、視界が滲んでいくのが分かった。
「しかし…」
 その言葉を私は逃さなかった。再び緊張が走る。
「脳を一部損傷しています。彼が目を覚ました時、何らかの後遺症が残ってしまうでしょう」
 天を仰いだ。ああ、神様はなんて意地悪なんだろう。手術を乗り越えて自身の命を繋いだ彼に、まだ試練を与えるらしい。
「彼は、祐一は…いつ目を覚ますんですか?」
「明日の昼頃には目覚める可能性が高いです。目覚め次第、面会も可能です」
 微かな希望を求めて医師に問うと、逡巡した後にそう答えた。
「分かりました…ありがとうございます」
 その後のことは殆ど記憶に無い。どうにかして家に帰って、一晩を明かした。眠れたかどうかすらも覚えていない。
 翌日、私は昼時に病院を訪れた。自動ドアを通ると病院特有の消毒の匂いが鼻をくすぐる。受付を済ませると、一つの病室に案内された。
 この先にいるであろう祐一は無事なのだろうか。また彼と一緒に何気ない日常を送ることができれば、もうそれ以上のことは望まない。意を決して扉を開ける。
 見知った顔が二人。昨日に引き続き星原と…祐一だ。
「祐一…眠っているの?」
 中に入り彼の顔を覗き込むと彼は瞼を閉じていた。一瞬最悪の展開が脳裏をよぎったが、微かな寝息が聞こえたためそれは杞憂に終わった。
「俺もさっき来たところ。祐一は…まだ一度も目覚めていない」
 それから私は星原と共にひたすら祐一の目覚めを待ち続けた。時計の針の進み方がやけに遅く感じる。
「すまない、外せない用事があって一旦抜ける」
 そう言い残して星原が一度退出した。
 それから何分ほど経っただろう。ふと窓に目をやると、雨粒が付いている。どうやら雨が降り始めたようだ。
「空が代わりに泣いてくれているみたい」
 冗談混じりでそんな言葉を溢す。
「その表現、なんだかロマンチック」
 …え?
 声が聞こえてきた方を振り向くと、祐一が目を覚ましていた。これまでと変わらない、優しく儚い雰囲気を纏った彼が、目を覚ましていた。
「うわ、何するの」
 思わず私は彼に抱きついた。本当に、彼が目覚めてくれた。涙も出そうになったが、ここで泣くべきなのは私ではないと思い我慢した。
「良かったっ!目覚めてくれて…ありがとう!!」
 わたしの大声を聞いた数人の看護師が恐る恐るといったように部屋に入ってきた。祐一が目覚めていることに気がつくとすぐに担当医の宮沢先生を呼んでくれた。
 あとは検査で異常さえ無ければまた日常に戻れる。そんな私の希望的観測をいとも簡単に打ち砕いたのは、他でもない彼の一言だった。
「ねえ友穂…」
「どうしたの?」
「僕は…どうして病院にいるの?」



「検査の結果、前向性健忘症を患っていることが分かりました」
 宮沢先生が、私と、それから用事から帰ってきた星原に告げた。祐一の両親は先程私たちより先に病の概要の説明を受けていた。
「それは…どういった症状なんですか?」
 隣で星原が絞り出すような声で尋ねる。
「脳の損傷により、記憶を1、2日ほどしか維持できなくなる症状です。事故より前の出来事は記憶できますが、事故以降の記憶を保つことができません」
 宮沢先生は無情にもそう言った。
「しばらくは入院して様子を見ることになると思います。指定時間内なら面会も可能です」
「分かり、ました」
 なんとか口に出してそう答えた私はどんな悲痛の表情を浮かべていたのだろう。

「祐一!」
 様々な検査が終わり、彼と面会可能になった。星原と二人で会いに行く。
「友穂…ごめんね」
「謝らないで。あなたは何も悪くない」
 本当に祐一は何も悪くない。背負い込まなくてもいいんだ。
「あなたが記憶を失うことになっても、私がそばにいる。大丈夫だから」
 本当は何も分からなかった。たったの2日しか記憶が持たない、そのような状態の彼を、私は支え続けることができるだろうか。
 それでも、大切な祐一のことを守りたいと思った。
「でも、事故のことすら覚えていないんだ。ここから先記憶を形成することもできない。これ以上、友穂に迷惑をかけたくない」
「迷惑なんかじゃない。私がやりたいからやるの。だって私は…」
 出会ったあの日からずっと抱いている思いを、今改めて口に出す。
「あなたのことが、好きだから」
 刹那、彼が安堵の表情を浮かべる。
「友穂…ありがとう」
「良かったな祐一。素敵な人に出会えて」
 黙々と見守ってくれていた星原が口を開く。星原も友達として祐一と話をしたいだろうに、恋人である私の方を優先してくれていた。
「俺もできる限りのことは協力する。だから…一緒に乗り越えよう」
「2人とも…本当に、ありがとね。僕、頑張ってみる」

 面会時間を過ぎたため病院の外に出る。もう既に日は落ちていて星が淡い光を放っていた。
「なあ友穂さん」
 帰路に着こうとした瞬間、星原に呼び止められる。
「どうしたの?」
「なんていうかその…無理だけはしないで」
 暗くて表情はよく見えない。
「記憶障害を負った祐一のそばに居続けるのは、精神がすり減るような気がするんだ。俺が口出すことではないかもしれないけど…」
 祐一の幸せだけじゃなくて、自分の幸せも大事にしてほしい。彼はそう言った。
「心配してくれてありがとう。でも大丈夫。私は祐一と一緒に、幸せになるから」
 不安を掻き消すように、胸を張って答える。
「悪い、突然こんなこと言って。それじゃ」
 祐一と一緒に幸せになる。じゃあ一体幸せの定義って何なのだろう。考えても答えが出ない問いは、家に帰ってからも解決することは無かった。
 翌日、私は朝から病院に向かった。彼の家族がお見舞いに来るより先に面会することで、本当に祐一が記憶を失うのかを確かめたかった。
 受付を済ませて昨日と同じ病室の前に立ち、一度深呼吸をする。大丈夫。私は現実を受け入れるから。
 ドアを開けると、眠っている祐一が視界に入った。予想通り、彼はまだ起きていなかった。
 祐一が起きるまでじっと待つ。
「うぅーん…あれ?」
 数分しないうちに彼は起きた。寝ぼけているようで、私のことを認識するまでに少し時間がかかっていた。
「祐一、おはよう」
「あ、友穂…おはよう」
 本当に彼が記憶を失っているのか。ずっと疑問だったことが、今明かされる。心臓が嫌な鼓動を立てている。
「あれ…どうして僕は病院にいるの?昨日は特に何も無かったよね?」
 ああそうか。そんなに都合よく世界は回らないよね。正直に言うとかなりのショックを受けた。これから先、彼と思い出を作ることが困難になってしまうのだから。それでも、
私は折れていられない。
「あなたは…交通事故にあったの。その後遺症で、記憶障害になってしまったの」
 きっと私は何十回も何百回もこの台詞を繰り返すことになる。
 待っててね。私があなたを、幸せにするから。