僕は普段全くと言っていいほど運動をしない。そのせいか、今は近所の裏山を少し登っているだけなのに激しい息切れに見舞われていた。
「お〜い祐一!…ってお前もう疲れてるのか?流石に早すぎるだろ」
一緒に山を登っていた星原亮二が茶化すように声を掛けてくる。
「待て待て亮二。僕が昔から体力テストでずっとクラス最下位を取ってきたの知ってるでしょ?」
僕がいつも使っている自虐ネタを披露すると亮二は腹を抱えて笑った。
「いやぁやっぱり祐一にはキツかったか。しゃーない、ちょっと休憩するか!」
それでも亮二はなんだかんだ面倒見が良い面もあり、昔から何度も世話になった。小さい頃、正確には小学生くらいの時からの付き合いだ。
周りを見渡してみると無造作に生える木々の中にちょうど腰掛けることができそうな切り株があったためそこで休憩することにした。持参していた水筒を開けてお茶に口をつける。
「ふーっ、生き返るわー!」
「よしよし、元気が戻ってきたな!」
ふと空を見上げると雲一つない青空が広がっていた。そして春の暖かい風が木の葉を揺らす音が心地よい。思わず眠ってしまいそうだ。
「てか亮二、本当にこの裏山で実験がはかどるって言うの?」
「ああ、俺が今まで調べてきたデータを見るにこの山に生息している可能性が高い」
そう。僕たちがこの三月にわざわざ裏山に来ているのは、大学での生物に関する実験を進める為なのだ。
「えーっと、確かミヤマセセリ?っていう蝶だよね」
「ああそうだ。そいつを捕まえて生物学の実験に使えたらなーと思ってる。そのためには」
亮二が果てなく続く山道を遠目で見ている。ということは…
「もっと上の方まで登らなきゃならない!」
やはり疲れている僕を見ても諦めたくはないらしい。仕方あるまい、僕も協力しなければ。
「分かったよ。一応休憩できたし、行こっか」
「お、もう大丈夫なのか?じゃあ早速出発だ!」
亮二のエネルギッシュな声が響き渡る。それを皮切りに僕たちは再び歩き始めた。
その後20分ほど歩き、四方が緑に囲まれた、随分と深いところまでやってきた。しかしながら虫が生息していそうな雰囲気は微塵もない。
「うーむ、多分ここらへんのはずなんだが…」
亮二はそう言って辺りを見回す。
「ミヤマセセリどころか、虫全然見当たんないよ」
薄々勘づいたことを正直に口に出すと、亮二は頭を抱えてその場にしゃがみ込んでしまった。亮二には悪いが、見てる分には面白おかしい光景だった。
「くそぅ…せっかくここまで登ってきたっていうのに駄目なのか!?」
「まあせっかく来たんだし、もうちょっとだけ散策してみようよ」
「…良いのか?もう少し足掻いても」
こんなに身を削る思いをして山登りをしたのに収穫なしというのはかなり心に来る。ここまで来たからには何かしらの収穫は得たいと思い、亮二の提案に乗った。
二人で話し合った結果、迷子にならない程度に少しだけ奥に入ってみることにした。
歩を進めるにつれて視界を覆う緑が濃くなっていくのが分かる。あまり行きすぎると本当に迷子になりそうだ。
「こうやって亮二と歩いてるとさ、京花のこと思い出すんだよね」
突然の僕の言葉に彼はぴくりと反応を示した。
「京花か…懐かしいな。昔はよく3人で一緒に遊んでたっけ」
「いつか日本に帰って来れないのかな」
「うーん、どうなんだろう、な」
僕たちには共通の幼馴染の子がいる。その子の名前は沢井京花。いつも3人一緒で仲が良かったのだが、ある時に京花が突然海外に引っ越して行ってしまったのだ。あまりに突然だったため、ろくに別れの挨拶もできなかったのだ。あの時は子供ながらにショックで、その頃の記憶は曖昧だ。それでも京花が海外に引っ越してしまったという事実だけは覚えている。
「なあ、何か聞こえてこないか?」
そんな不確かな過去に思いを馳せていると、亮二が隣で呟いた。
「聞こえるって何が?」
「いや、気のせいかもしれないんだが…女性の歌声みたいなのが聞こえるんだ」
この山の奥地で女性の歌声?そんなはずがない。もしや、僕のことを怖がらせようとしているのだろうか。
「…何かの冗談?」
冷めた口調で亮二に問いかける。
「違えって!本当に聞こえた!耳を澄ましてみろよ!」
渋々、言われた通りに聴覚に集中してみる。春風が葉っぱを揺らす音、自分が呼吸する音…いや、それだけではない。微かに謎の歌声が聞こえてくる。耳を澄ませないと聞こえないレベルだがすごく綺麗な歌声というのは分かった。
「確かに聞こえるわ、すごく綺麗」
「やっぱりそうだよな!?なんか奥の方から聞こえてくるし、ちょっと見に行ってみねーか?」
亮二の言葉にギョッとする。これ以上山の奥に行くのは危険な気がする。でも謎の歌声の正体を知りたい好奇心もある。
悩んだ末に僕は笑みを浮かべて頷く。結局僕の中に根づいていた怯懦は芽生えたての好奇心に飲み込まれた。
「じゃあ声の聞こえる方に行ってみるか!」
亮二のかけ声を皮切りに僕らは更に奥へと進んでいった。
1分ほど歩いただろうか。歌声はよりはっきりと聞こえるようになってきた。
「この奥から聞こえるな」
亮二の言う通り、山道の脇の小さな茂みの奥から声が聞こえる。
「行ってみるか?」
首筋が嫌な冷や汗をかいている。だがここまで来たからにはもう引こうにも引けない。
「行こう」
意を決して深呼吸をし、二人で茂みを掻き分けて進んでいく。
突如、視界が開けた。今までの暗い山の中が嘘であるかのように、目の前には広大な草原が広がっていて、少し目線を上げれば一切の淀みも無い青空。その真ん中に大きな一本の木がある。山奥でこんな光景を見られるなんて夢にも思っていなかった。
「ええ!こんなところがあったのか!?」
それは亮二も一緒だったようだ。
「っていうかあそこに誰かいるぞ?」
そう言って亮二は大木の根元辺りを指差した。本当だ、誰かいる。
「もしかして歌声の正体はあの女の人?」
「ああ、きっとそうだな」
「でもなんでこんな山奥で?幽霊だったりしないかな」
「おいおい祐一、まだ幽霊なんて信じてるのか?」
「いやそんなことはないけど…」
二人で押し問答をしているとその女性はこちらに気づいてしまったようで、じっとこちらを見ていた。
「ちょっと気づかれちゃった!」
「え、まじで?」
気づいた時にはもう遅かった。その女性は小走りでこちらへとやってくる。やがて彼女の顔が見えるくらいの距離まで近づいてきた。
おそらく同年代だろう。思わず吸い込まれてしまいそうなぐらい青みがかった綺麗な瞳が印象的な人だと思った。正直に言うとすごく可愛い。
「…どうしてここが分かったんですか?」
彼女は言葉を放った。鈴の音が鳴るかのような、美しく儚い素敵な声だと思った。
「あ、えっと…」
どう答えたら良いのだろうか。答え方次第では不審者やストーカーと間違われても不思議ではない。
「俺たち、用があって山を散策してて。そうしたら女性の歌声が聞こえてきて…その正体を探ろうっていう好奇心でここまで来たんです」
亮二が正直に答えた。こういう時に物怖じしないのはすごいと思う。
「…私の歌声、そんなに響いてたんですか?」
「まあ最初は耳を澄ませないと聞こえないくらいだったけど」
彼女の顔がみるみる赤くなる。
「私、歌うことが大好きなんです。大学で音楽サークルに入っていて…それで誰にも声を聞かれないこの秘密の場所でずっと練習してたんです」
なるほどそういうことか。確かにこんな山奥の茂みの先にあるような場所には滅多に人が来ないのだろう。…僕たちのような例外を除けば。
「中々自分の歌に自信が持てなくて、人前ではあまり歌ったことがないんです…ってこんな話されても困りますよね」
「そんなことないです!」
考えるより先に言葉が出た。
「あまり音楽とかは詳しくないですけど、すごく心にグッと来ました!だからその…もっと自信持って良いと思います…」
なんだか恥ずかしくて最後の方は声量が小さくなってしまった。二人はいきなり饒舌になった僕に驚きの視線を向けている。
「あ、ありがとうございます…えっと、もしよかったら名前を聞いてもよろしいですか?」
「名前…ですか?」
彼女が取り乱している僕に声を掛けてくれた。なぜだか必要以上に緊張してしまう。
「坂根祐一って言います。呼びやすい方で呼んでもらって構わないです」
「じゃあ祐一って呼ばせてもらうね。私の名前は夏井友穂。名前で呼んでもらって大丈夫だよ。あ、ついタメ口になっちゃったけども大丈夫?」
「うん大丈夫。…えと、こっちは僕の友達の星原亮二」
「そんなオマケみたいに扱うなし」
無性に恥ずかしくなって亮二に話をパスした。というか、僕だけが名乗って亮二が名乗らないのも妙だし。
亮二はそんな僕を見てニヤニヤしている。これは後で色々問い詰められるのだろう。
さてと、これは果たして一目惚れというやつなのだろうか。最初に彼女、友穂さんの歌声を聴いた時今までに感じたことの無いような胸の高鳴りに遭った。できればずっとそばで聴いていたいような。
考えれば考えるほど一目惚れのような気がしてくる。正確には一耳惚れ?
「というか祐一、さっきからめっちゃ顔赤くないか?」
いきなり僕に話が戻ってきて驚く。幼馴染の勘というやつだろうか。心の中が見透かされていそうで怖い。
「確かにうちの学部、女性との関わりがほとんど無いもんな〜、もしかして恋に落ち…」
その言葉は途中で途切れた。僕が彼の腕を強く引っ張ったからだ。
「失礼しました!!」
そう言って亮二の手を引き足早に元来た道を引き返す。
「おいおいどうした!せっかく一目惚れした女性と仲良くなるチャンスだったのに」
僕は大きく溜息をつく。
「やっぱりお見通しだったんだ。亮二はちょっと気が早すぎるって!」
「なんだよ、つれないなー」
亮二が仏頂面で答える。
「…もう今日は帰ろーよ」
そうして今日は解散することにした。結局本来の狙いだった実験用の虫の採取は全く進捗が無かったものの、思わぬ体験をすることができたから結果オーライである。
亮二と別れて、一人暮らしのアパートへと戻る。ドアを開けて中に入ると、やけに閑散としているように感じられた。きっと先程までの3人のやりとりが賑やかだったからそう感じてしまうのだろう。昔から友達が多い方では無かったため、あれぐらいの賑やかさでもかなり新鮮だった。
ピーンポーン…
考え事をしていると不意にインターホンが鳴った。うちに訪れる人なんて亮二か出前の宅配屋くらいしかいない。出前は頼んでいないのでおそらく亮二だろう。
そう思い躊躇なくドアを開け、息を呑む。
そこに立っていたのは、予想していた誰でもなく夏井友穂さんだった。
「ごめんね突然」
驚きで声が出なかった。なぜここを知っているのか、何の用があるのか。頭の中に様々な疑問が浮かんだ。
「さっき帰って行く時にこれ、落としたでしょ?」
「あ、僕のペンだ」
それはいつも胸ポケットに入れているボールペンだった。あの時は取り乱していたせいで落としたことに気づけなかった。
「それで君のことを探していたら、星原?に偶然会って、家の場所を教えてもらったの。ほんと急にごめんね…」
ボールペン一本のためだけにわざわざ山を降りて来てくれたというのだ。それはもう感謝という言葉では言い表せない。
「いやこちらこそ、わざわざありがとね。あと、さっきは取り乱してごめん」
半分くらいは亮二のせいだが、僕が取り乱してしまったのも事実である。多少の気まずさはあるが、とりあえず謝っておきたいと思った。
「…嬉しかったの」
「え?」
消え入りそうな声で友穂さんは呟いた。
「大学で音楽サークルに入ってるって言ったけど、実際私以外ほとんどの人が活動してない、いわゆる飲みサーってやつなの」
「だから山奥で練習してるの?」
そうなんだよね、と悲しげに話す彼女。
「だから胸を張って自分の歌を聞かせたことが無くてね。そんな時に祐一は、私の歌のこと褒めてくれた。大袈裟に聞こえるかもしれないけど、本当に嬉しかった。自分がやって来たことは間違いじゃ無かったんだ!って思ったの」
友穂さんのあの美しい歌声の裏にはそんな背景があったのだという。あの歌声が誰からも認められないなんて、あって良いものか。
「どうか、自信持ってください。歌が、大好きなんですよね?好きだから続けられるのって才能だと思います。これからも歌い続けてください!」
先程とは違い、今度はすんなりと言葉にすることができた。亮二がいない、2人きりの空間だからだろうか。
「ありがとう」
そう言って彼女は笑った。雨に打たれ続けた蕾が折れずに咲かせた花のように綺麗な笑顔だった。
本当に僕は、あの瞬間恋に落ちていたのかもしれない。
「もし良かったら、連絡先交換しても良い?」
春のとある日の夕暮れ時。甘くて苦い、果てしない2人の物語が始まろうとしていた。
「お〜い祐一!…ってお前もう疲れてるのか?流石に早すぎるだろ」
一緒に山を登っていた星原亮二が茶化すように声を掛けてくる。
「待て待て亮二。僕が昔から体力テストでずっとクラス最下位を取ってきたの知ってるでしょ?」
僕がいつも使っている自虐ネタを披露すると亮二は腹を抱えて笑った。
「いやぁやっぱり祐一にはキツかったか。しゃーない、ちょっと休憩するか!」
それでも亮二はなんだかんだ面倒見が良い面もあり、昔から何度も世話になった。小さい頃、正確には小学生くらいの時からの付き合いだ。
周りを見渡してみると無造作に生える木々の中にちょうど腰掛けることができそうな切り株があったためそこで休憩することにした。持参していた水筒を開けてお茶に口をつける。
「ふーっ、生き返るわー!」
「よしよし、元気が戻ってきたな!」
ふと空を見上げると雲一つない青空が広がっていた。そして春の暖かい風が木の葉を揺らす音が心地よい。思わず眠ってしまいそうだ。
「てか亮二、本当にこの裏山で実験がはかどるって言うの?」
「ああ、俺が今まで調べてきたデータを見るにこの山に生息している可能性が高い」
そう。僕たちがこの三月にわざわざ裏山に来ているのは、大学での生物に関する実験を進める為なのだ。
「えーっと、確かミヤマセセリ?っていう蝶だよね」
「ああそうだ。そいつを捕まえて生物学の実験に使えたらなーと思ってる。そのためには」
亮二が果てなく続く山道を遠目で見ている。ということは…
「もっと上の方まで登らなきゃならない!」
やはり疲れている僕を見ても諦めたくはないらしい。仕方あるまい、僕も協力しなければ。
「分かったよ。一応休憩できたし、行こっか」
「お、もう大丈夫なのか?じゃあ早速出発だ!」
亮二のエネルギッシュな声が響き渡る。それを皮切りに僕たちは再び歩き始めた。
その後20分ほど歩き、四方が緑に囲まれた、随分と深いところまでやってきた。しかしながら虫が生息していそうな雰囲気は微塵もない。
「うーむ、多分ここらへんのはずなんだが…」
亮二はそう言って辺りを見回す。
「ミヤマセセリどころか、虫全然見当たんないよ」
薄々勘づいたことを正直に口に出すと、亮二は頭を抱えてその場にしゃがみ込んでしまった。亮二には悪いが、見てる分には面白おかしい光景だった。
「くそぅ…せっかくここまで登ってきたっていうのに駄目なのか!?」
「まあせっかく来たんだし、もうちょっとだけ散策してみようよ」
「…良いのか?もう少し足掻いても」
こんなに身を削る思いをして山登りをしたのに収穫なしというのはかなり心に来る。ここまで来たからには何かしらの収穫は得たいと思い、亮二の提案に乗った。
二人で話し合った結果、迷子にならない程度に少しだけ奥に入ってみることにした。
歩を進めるにつれて視界を覆う緑が濃くなっていくのが分かる。あまり行きすぎると本当に迷子になりそうだ。
「こうやって亮二と歩いてるとさ、京花のこと思い出すんだよね」
突然の僕の言葉に彼はぴくりと反応を示した。
「京花か…懐かしいな。昔はよく3人で一緒に遊んでたっけ」
「いつか日本に帰って来れないのかな」
「うーん、どうなんだろう、な」
僕たちには共通の幼馴染の子がいる。その子の名前は沢井京花。いつも3人一緒で仲が良かったのだが、ある時に京花が突然海外に引っ越して行ってしまったのだ。あまりに突然だったため、ろくに別れの挨拶もできなかったのだ。あの時は子供ながらにショックで、その頃の記憶は曖昧だ。それでも京花が海外に引っ越してしまったという事実だけは覚えている。
「なあ、何か聞こえてこないか?」
そんな不確かな過去に思いを馳せていると、亮二が隣で呟いた。
「聞こえるって何が?」
「いや、気のせいかもしれないんだが…女性の歌声みたいなのが聞こえるんだ」
この山の奥地で女性の歌声?そんなはずがない。もしや、僕のことを怖がらせようとしているのだろうか。
「…何かの冗談?」
冷めた口調で亮二に問いかける。
「違えって!本当に聞こえた!耳を澄ましてみろよ!」
渋々、言われた通りに聴覚に集中してみる。春風が葉っぱを揺らす音、自分が呼吸する音…いや、それだけではない。微かに謎の歌声が聞こえてくる。耳を澄ませないと聞こえないレベルだがすごく綺麗な歌声というのは分かった。
「確かに聞こえるわ、すごく綺麗」
「やっぱりそうだよな!?なんか奥の方から聞こえてくるし、ちょっと見に行ってみねーか?」
亮二の言葉にギョッとする。これ以上山の奥に行くのは危険な気がする。でも謎の歌声の正体を知りたい好奇心もある。
悩んだ末に僕は笑みを浮かべて頷く。結局僕の中に根づいていた怯懦は芽生えたての好奇心に飲み込まれた。
「じゃあ声の聞こえる方に行ってみるか!」
亮二のかけ声を皮切りに僕らは更に奥へと進んでいった。
1分ほど歩いただろうか。歌声はよりはっきりと聞こえるようになってきた。
「この奥から聞こえるな」
亮二の言う通り、山道の脇の小さな茂みの奥から声が聞こえる。
「行ってみるか?」
首筋が嫌な冷や汗をかいている。だがここまで来たからにはもう引こうにも引けない。
「行こう」
意を決して深呼吸をし、二人で茂みを掻き分けて進んでいく。
突如、視界が開けた。今までの暗い山の中が嘘であるかのように、目の前には広大な草原が広がっていて、少し目線を上げれば一切の淀みも無い青空。その真ん中に大きな一本の木がある。山奥でこんな光景を見られるなんて夢にも思っていなかった。
「ええ!こんなところがあったのか!?」
それは亮二も一緒だったようだ。
「っていうかあそこに誰かいるぞ?」
そう言って亮二は大木の根元辺りを指差した。本当だ、誰かいる。
「もしかして歌声の正体はあの女の人?」
「ああ、きっとそうだな」
「でもなんでこんな山奥で?幽霊だったりしないかな」
「おいおい祐一、まだ幽霊なんて信じてるのか?」
「いやそんなことはないけど…」
二人で押し問答をしているとその女性はこちらに気づいてしまったようで、じっとこちらを見ていた。
「ちょっと気づかれちゃった!」
「え、まじで?」
気づいた時にはもう遅かった。その女性は小走りでこちらへとやってくる。やがて彼女の顔が見えるくらいの距離まで近づいてきた。
おそらく同年代だろう。思わず吸い込まれてしまいそうなぐらい青みがかった綺麗な瞳が印象的な人だと思った。正直に言うとすごく可愛い。
「…どうしてここが分かったんですか?」
彼女は言葉を放った。鈴の音が鳴るかのような、美しく儚い素敵な声だと思った。
「あ、えっと…」
どう答えたら良いのだろうか。答え方次第では不審者やストーカーと間違われても不思議ではない。
「俺たち、用があって山を散策してて。そうしたら女性の歌声が聞こえてきて…その正体を探ろうっていう好奇心でここまで来たんです」
亮二が正直に答えた。こういう時に物怖じしないのはすごいと思う。
「…私の歌声、そんなに響いてたんですか?」
「まあ最初は耳を澄ませないと聞こえないくらいだったけど」
彼女の顔がみるみる赤くなる。
「私、歌うことが大好きなんです。大学で音楽サークルに入っていて…それで誰にも声を聞かれないこの秘密の場所でずっと練習してたんです」
なるほどそういうことか。確かにこんな山奥の茂みの先にあるような場所には滅多に人が来ないのだろう。…僕たちのような例外を除けば。
「中々自分の歌に自信が持てなくて、人前ではあまり歌ったことがないんです…ってこんな話されても困りますよね」
「そんなことないです!」
考えるより先に言葉が出た。
「あまり音楽とかは詳しくないですけど、すごく心にグッと来ました!だからその…もっと自信持って良いと思います…」
なんだか恥ずかしくて最後の方は声量が小さくなってしまった。二人はいきなり饒舌になった僕に驚きの視線を向けている。
「あ、ありがとうございます…えっと、もしよかったら名前を聞いてもよろしいですか?」
「名前…ですか?」
彼女が取り乱している僕に声を掛けてくれた。なぜだか必要以上に緊張してしまう。
「坂根祐一って言います。呼びやすい方で呼んでもらって構わないです」
「じゃあ祐一って呼ばせてもらうね。私の名前は夏井友穂。名前で呼んでもらって大丈夫だよ。あ、ついタメ口になっちゃったけども大丈夫?」
「うん大丈夫。…えと、こっちは僕の友達の星原亮二」
「そんなオマケみたいに扱うなし」
無性に恥ずかしくなって亮二に話をパスした。というか、僕だけが名乗って亮二が名乗らないのも妙だし。
亮二はそんな僕を見てニヤニヤしている。これは後で色々問い詰められるのだろう。
さてと、これは果たして一目惚れというやつなのだろうか。最初に彼女、友穂さんの歌声を聴いた時今までに感じたことの無いような胸の高鳴りに遭った。できればずっとそばで聴いていたいような。
考えれば考えるほど一目惚れのような気がしてくる。正確には一耳惚れ?
「というか祐一、さっきからめっちゃ顔赤くないか?」
いきなり僕に話が戻ってきて驚く。幼馴染の勘というやつだろうか。心の中が見透かされていそうで怖い。
「確かにうちの学部、女性との関わりがほとんど無いもんな〜、もしかして恋に落ち…」
その言葉は途中で途切れた。僕が彼の腕を強く引っ張ったからだ。
「失礼しました!!」
そう言って亮二の手を引き足早に元来た道を引き返す。
「おいおいどうした!せっかく一目惚れした女性と仲良くなるチャンスだったのに」
僕は大きく溜息をつく。
「やっぱりお見通しだったんだ。亮二はちょっと気が早すぎるって!」
「なんだよ、つれないなー」
亮二が仏頂面で答える。
「…もう今日は帰ろーよ」
そうして今日は解散することにした。結局本来の狙いだった実験用の虫の採取は全く進捗が無かったものの、思わぬ体験をすることができたから結果オーライである。
亮二と別れて、一人暮らしのアパートへと戻る。ドアを開けて中に入ると、やけに閑散としているように感じられた。きっと先程までの3人のやりとりが賑やかだったからそう感じてしまうのだろう。昔から友達が多い方では無かったため、あれぐらいの賑やかさでもかなり新鮮だった。
ピーンポーン…
考え事をしていると不意にインターホンが鳴った。うちに訪れる人なんて亮二か出前の宅配屋くらいしかいない。出前は頼んでいないのでおそらく亮二だろう。
そう思い躊躇なくドアを開け、息を呑む。
そこに立っていたのは、予想していた誰でもなく夏井友穂さんだった。
「ごめんね突然」
驚きで声が出なかった。なぜここを知っているのか、何の用があるのか。頭の中に様々な疑問が浮かんだ。
「さっき帰って行く時にこれ、落としたでしょ?」
「あ、僕のペンだ」
それはいつも胸ポケットに入れているボールペンだった。あの時は取り乱していたせいで落としたことに気づけなかった。
「それで君のことを探していたら、星原?に偶然会って、家の場所を教えてもらったの。ほんと急にごめんね…」
ボールペン一本のためだけにわざわざ山を降りて来てくれたというのだ。それはもう感謝という言葉では言い表せない。
「いやこちらこそ、わざわざありがとね。あと、さっきは取り乱してごめん」
半分くらいは亮二のせいだが、僕が取り乱してしまったのも事実である。多少の気まずさはあるが、とりあえず謝っておきたいと思った。
「…嬉しかったの」
「え?」
消え入りそうな声で友穂さんは呟いた。
「大学で音楽サークルに入ってるって言ったけど、実際私以外ほとんどの人が活動してない、いわゆる飲みサーってやつなの」
「だから山奥で練習してるの?」
そうなんだよね、と悲しげに話す彼女。
「だから胸を張って自分の歌を聞かせたことが無くてね。そんな時に祐一は、私の歌のこと褒めてくれた。大袈裟に聞こえるかもしれないけど、本当に嬉しかった。自分がやって来たことは間違いじゃ無かったんだ!って思ったの」
友穂さんのあの美しい歌声の裏にはそんな背景があったのだという。あの歌声が誰からも認められないなんて、あって良いものか。
「どうか、自信持ってください。歌が、大好きなんですよね?好きだから続けられるのって才能だと思います。これからも歌い続けてください!」
先程とは違い、今度はすんなりと言葉にすることができた。亮二がいない、2人きりの空間だからだろうか。
「ありがとう」
そう言って彼女は笑った。雨に打たれ続けた蕾が折れずに咲かせた花のように綺麗な笑顔だった。
本当に僕は、あの瞬間恋に落ちていたのかもしれない。
「もし良かったら、連絡先交換しても良い?」
春のとある日の夕暮れ時。甘くて苦い、果てしない2人の物語が始まろうとしていた。


