今まで見えていた世界が、壊れる音がした。
 病院での定期検査が終わった後家に帰るとすぐに亮二が僕の家を訪れた。「話があるんだ」とのことだ。
 そして僕は全てを聞いた。
 今の僕はどんな表情をしている?なんでずっと嘘を吐き続けたんだ、と怒っているのか?京花が死んでしまったんだ、と悲しみに暮れているのか?
 きっとどれでもない。そんな喜怒哀楽では表せないような、複雑な表情をしているのだろう。
「…祐一」
 亮二が呟く。
「言いたいこと、全部言ってくれ。どんな罵倒でも雑言でも俺は受け入れるから。今更許されようなんて思ってないけど、こうでもしないと俺の気が晴れないんだ!」
 亮二は必死な面持ちでそう言った。
 考えてみる。僕は何をしたいのだろう。少なくとも、この場で亮二を罵倒するようなことはしたくないと思った。
 僕が本当に怒るべき相手は…何にも気づかず生きていた過去の自分のような気がする。
「やだよ。亮二が僕の為を思って行動してくれたのは知ってるから。亮二を罵ったって何にもならない。ただ…何一つ真実に気づけなかった過去の自分には嫌気が刺してるけどね」
「そんなこと、言わないでくれ…!俺は一度京花の死を踏み躙ったんだ。言いたいことの1つや2つあるだろ…?」
 確かに言いたいことの1つくらい出てきてもいいような気がするのだけれど、面白いくらいに何も浮かばない。どうしてだろうと思案していると、何かが腑に落ちたような気がした。
「僕も一緒だから」
「…一緒?」
「今京花が亡くなったことを聞いてさ、ほとんど感情が動かなかった。幼馴染の死だよ?動揺しない訳ないじゃん。それなのに、僕は何も感じなかった。もう京花のことがとっくに過去になっちゃってる。一度は京花のことで錯乱状態になったくせに、その後はもう京花を過去の人にしてしまった。一番京花に謝らなきゃいけないのは、僕だ」
「そんなことない…!悪いのは、俺なんだ…!」
 2人で本音を言い合った。後悔、懺悔、葛藤、自責…色々な感情を、僕らは曝け出した。

 落ち着いた頃合いを見て、亮二に尋ねる。
「もしまだ自責の念があるのなら、僕の頼みを1つ聞いてほしい。聞いてくれたら、もう全てを許すから」
「ああ、勿論だ。何でも聞く」
 これは僕の中で1つのけじめをつけるためであり、これから先、過去に囚われずに生きていきたいという願いのためでもある。
「京花の墓に、連れて行ってほしい」

 亮二と2人で電車の窓から外を眺める。梅雨の時期だが、幸いにも今日は雲がぽつりと存在しているだけの晴天だ。
 20分ほど電車に揺られてから目的の駅で降り、しばらく歩く。
「…ここだ」
 亮二に案内されて到着したのはとある霊園だった。
「ここに、京花が眠っているのか…」
「ああ…」
 亮二も色々と思うところがあるのだろう。無言で再び歩き始めた。
 亮二が立ち止まる。そこにあったのは黒い墓石。その中央に刻まれた文字は…。

 沢井京花ノ墓

 じっと墓石を見つめる。未だに、ここに京花が眠っているとは信じられない。
「こんにちは、京花…10年以上振りかな?」
 勿論、墓石から返事が返ってくることはなかった。
「今日までに色んなことがあったよ。中学、高校、大学って無事に成長して。それができたのはね、亮二のおかげだと思う」
 隣で亮二が僕の方を向く。構わずに、続けた。
「亮二が僕に嘘を吐いてくれたから、僕の世界を守ってくれたから、こうして今の自分があるんだ。都合の良い考えなのかもしれないけど」
 亮二の行動が正解かは分からないけれど、亮二が僕の世界を守ってくれた、それだけは信じ続けたいと思った。
「色々なことがあったけど…その全てで、京花のことが過去になっていた。ごめん、本当に…ごめん!」
 雫が足元を濡らす。自分が泣いていることに気づく。すると、背中に温かいものを感じた。亮二が背中をさすってくれている。
 僕の背中に手を当てながら、亮二が話し始める。
「俺なりに考えて、祐一に嘘を吐いちゃった。京花の死を軽んじるようなことをしてしまって…俺からも謝りたい。本当にすまない…!」
 青空の下、僕たちは10年以上振りに京花に本音を伝えた。
 僕らの間を、初夏を感じさせる暖かな風が吹き抜けた。この風が僕たちの言葉を乗せて、遠い遠い京花のところまで届いてほしいと願う。

「そろそろ、帰るか」
 亮二の一言で帰路に着こうとしたその瞬間だった。

 私が、祐一のことを守るから。

 脳の裏で、見知らぬ女性の声がリフレインした。
 いや。
 これは本当に、見知らぬ人なのか?
「どうした?祐一」
 思わず立ち止まっていたので亮二に声をかけられる。正直に今感じたことをそのまま伝える。
 すると亮二が興奮気味な声で言った。
「解離性健忘で抜け落ちた記憶に関係してるんじゃないか?」
 そうだ。僕は大切な何かを忘れているらしいのだ。
 ふと思う。この大切な何かを思い出そうとしても良いのだろうか。
「時間があれば、思い出せそうな気がするんだ。亮二、思い出すのに協力してもらってもいいかな」
 亮二は希望に満ちた声で、「勿論だ」と答えてくれた。



 それから数週間…。
 霊園で京花に本音を伝えてから、僕は未来に向けて歩き出そうと決めた。事故のせいもあって通えていなかった大学にも近々復帰したいと思っている。そんな日々の中でも亮二の力を借りながら、僕の中から抜け落ちてしまった大切な記憶を取り戻そうと努力を重ねた。
「ここが…僕とその人の、出会いの場所?」
 ある日、僕は亮二に連れられてとある草原に来ていた。山奥の茂みを掻き分けた先にあり、何とも不思議な場所だと感じた。彼曰く、偶然にもここで“その人”と出会ったらしい。ちなみに、僕が自力で思い出せるまで“その人”の名前は教えてもらえないことになっている。
「大学の研究がてら、2人でこの山に来たんだ。そしたら歌声が聞こえてきてな。歌声に導かれるようにして、ここに来たんだ」
 広い草原の片隅で、亮二がその時の状況を事細かに説明してくれる。
 山奥、草原、歌声…何かが思い出せそうな気がする。もう少し、もう少しなのに、大事な部分が手からするりと抜け落ちる。
 それでも、少しずつ何かを掴めているような感覚がする。この少しずつをいくつも重ねれば、いつかきっと全てを思い出せる。
 “その人”はもうとっくに僕のことなんて忘れて新しい人生を歩んでいるのかもしれないし、思い出せる確証もないけれど。
「絶対に思い出すから。僕が知らない、あなたのことを」
 大空に向かって、そう誓いを立てた。