俺と祐一と京花の3人は、家が近い幼馴染だった。気がつけば知り合っていて、幼稚園に通っていた頃にはもうすっかり仲が良かった。休みの日には近所の公園で一日中走り回るようなこともしていた。
俺たちは皆同じ小学校に入学した。1年生の時、クラスが3人とも離れ離れになってしまう。3人のクラスが違うことを知った時は京花が大泣きして、それを祐一が慰めていたっけ。
そうは言っても、クラスが別れたくらいで俺たちの仲に変化は起きなかった。休み時間になれば他のクラスに遊びに行くこともできたし、家も変わらず近いため、疎遠になるようなことにはならない。
しかしそんな日々にも少し変化が起きる。
「なあ祐一、京花のクラスにあそびにいこう」
とある日の休み時間、俺はいつもの如く祐一のところに出向いた。
「うん、いいよ。いこういこう!」
2人で教室を飛び出し、先生に注意されないように走らずに廊下を歩きながら京花のいるクラスへと向かう。俺は1組、祐一が2組で、京花が4組だった。
4組の教室の扉を開ける。するとすぐに違和感に気づく。
「ねえねえ亮二、京花がどこにもみあたらないよ?」
「あれ、ほんとだな。がっこうやすんでるのかな?めずらしい」
いつも京花は真ん中の一番後ろの自分の席にいることが多かったのだが、そこには姿が見えなかった。
「うーん、トイレにでもいってるんじゃね?ちょっとまっててみようぜ」
廊下でしばらく時間を潰すがいつまで経っても京花の姿は見えない。
痺れを切らし、近くにいた女子に話しかける。
「なあ、京花ってどこにいる?」
いきなり声をかけたせいか、怪訝そうな目で見られる。隣で祐一が慌ててフォローを入れてくれた。
「えっと、4くみに沢井京花ってひとがいるとおもうんだけど、どこにいるのかわかる?」
「あー、京花ちゃんなら、きょうはとちゅうでかえっていったよ」
どうやら聞いたところによると午前の授業中に京花は具合を悪くしたらしく、早退したようだ。
朝一緒に登校した時はいつも通り元気だった。急に体調を崩してしまったのか。
「おしえてくれてありがとう!」
その日の放課後、京花の家を訪ねると京花が母親と一緒に顔を出し、「ちょっと風邪引いちゃったみたい」と言ってきた。
風邪ならば数日もすればすぐに治るだろうと考えていたのだが…。
「ごめん、きょうもがっこうやすむね」
1週間が経っても京花の体調は良くなることを知らなかった。俺は小学生ながらに違和感を覚えた。
「びょういんには、いったのか?」
「うん、おいしゃさんにみてもらった。えーっと、おくすりのんでれば、いつかなおるんだってさ!」
あの時の俺は京花の言葉を信じていた。祐一だって、京花の風邪はいつか治るものだと信じていたのに。
ある日、俺と祐一は知ってしまった。
京花が心臓の病を持っていて、余命宣告を受けていたことを。
知ってしまったというよりかは、京花の親から伝えられたというのが事実だ。
少し前から京花は心臓発作を起こすようになって、それが最近になって急激に悪化してきたこと。入院生活になるため、しばらくは一緒に学校に行けないこと。余命1ヶ月のこと。色々なことを、聞いた。
最初俺は信じなかった。余命という自分の生活から遠く離れた言葉の意味をよく理解していなかったというのもあるが、俺は現実を受け入れなかった。京花は少し経てば戻ってくるんだと、また3人で一緒に走り回れるのだと、そんな思考の檻に囚われていた。
その檻を壊してくれたのは、祐一だった。
「亮二、京花がびょうきなのは、じじつなんだよ」
ある日、2人で歩く帰り道。祐一が俺に言ってきた。
「な、なんだよ、祐一まで!京花がびょうきなわけないだろ!もしびょうきだったとしても、おいしゃさんがバイキンをやっつけてくれるんだろ!?」
もう、この時の俺は分かっていたのだと思う。全てが事実であることを。その上で意味もなく抗っていたのだ。
「おやにたのんでさ、京花のびょういんに、いこうよ」
「うぅっ…いやだ、いやだ」
勿論、京花に会えるものなら会いたかった。けれど、病室に寝そべる衰弱した様子の京花を見るのが怖かった。
「亮二!」
普段は温厚な祐一が、珍しく大声を上げた。俺は思わず怯む。
「ぼくだって、つらいものはつらいよ。けれど、いちばんつらいのは、京花なんだよ!?ぼくたちが、京花をささえてあげようよ!」
祐一の説得に、俺は言葉を失う。
そうだ、そうだ、確かにそうだ。俺が悲しんでいる場合じゃない。
「ありがとう祐一。おれも、京花のところにいきたい。おやにたのんでみるよ!」
そして2人で親に頼み込み、京花がいる病院へと連れて行ってもらった。
「げんき、だして!」
「ぼくたちが、ついてるから」
「亮二、祐一…ありがとね」
京花は、目に見えて衰弱していた。一緒に走り回っていた頃が嘘かのように、弱っていた。
京花を元気付けたくて、俺たちは明るい話題を振った。病気のこととか命のこととか、そんなことを考えなくて済むように、日常の何でもない話をたくさんした。
それから2週間後のことだ。
俺と祐一は、また京花の病院へと足を運んだ。
「もう、しんじゃうんだって」
開口一番、京花が呟いた。
「いやだよ、ふたりとはなれたくない」
俺たちも、同じ気持ちだ。こうして離れることもなく平和に暮らせたらどんなに幸せだっただろうか。
かける言葉が見つからず呆然としていると祐一が言った。
「しんでも、うまれかわればいいんだよ」
突然の発言に驚いた。生まれ変わり、だと…?
「ひとはしんでも、うまれかわってべつのにんげんになれるって、ぼくのじいちゃんがいってたよ」
死んだら、何に生まれ変わるんだろう。猫とか鳥とか、もしかしたらもう一度人間になるのかもしれない。
あまりに突拍子のない話だったが、京花は顔を綻ばせて答えた。
「ありがとう、わたし、がんばってうまれかわる!」
京花の訃報を聞いたのは、その翌日だった。夜が明けて空の色が変わり始めた辺りに、両親に見守られて静かに逝ったとのことだった。
俺は声をあげて泣いた。今思えば、京花の側にいながらも何もできなかった自分への怒りとか、どうして京花がこんな目に遭わなきゃならないんだというこの世の不条理への抗いとかの気持ちも込められていたように思う。
でも、前みたいに現実を拒絶するようなことはしなかった。祐一が、あの時俺を説得してくれたおかげでなんとか現実を受け入れようと努力できた。
なんとか最低限の冷静さを保つことができた俺は、祐一の様子がおかしいことに気がつく。
上手くは言い表せないが、俺の何倍も何倍も憔悴していたのだ。
祐一は、今まで悲しみの感情を殆ど表に出さずに俺や京花に接し、京花のことを慰めたり楽しませたりしていた。
それなのに、今になって急激に悲しみに支配されている。
俺は、子供ながらに気づいた。
祐一は、俺が思っている以上に強い人間なのだ。「自分より京花の方が辛いはずだから、自分が悲しみを滲ませてはいけない」という、言葉にしてみれば至極単純な理由で、ずっと自分の中にある悲しみを押し殺してきたのだろう。言わば自己犠牲なのだ。
しかし、肝心な京花はもう他界してしまった。祐一が悲しみを押し殺す理由が、なくなってしまった。
だから祐一の中で、今まで溜め込んできた感情が爆発したんだろう。
祐一は廃人のようになった。俺がどんな気休めの言葉を投げかけても、全てを拒絶された。
そんな状態が続いたある日。いつものように祐一の様子を見に行くと、祐一の記憶が錯乱していることに気がついた。
「ねえ亮二、京花の姿を最近見ないけれど、どこに行ったのかな?」
俺は戦慄する。祐一は、冗談を言っているわけではない。祐一の記憶から、京花が亡くなったという事実が消えていた。悲しみに支配された結果、祐一の本能が京花との死別を記憶から消している。
久々に、悲しみに支配されていない祐一を見た。
この瞬間、俺は全てを決断した。
もう、祐一があれほどにまで憔悴する様子を見たくないから。祐一には、前に進み続けて欲しいから。そんな願いを込めて。
「祐一、覚えていないのか?京花は、親の都合で急に海外に引っ越してしまったじゃんか」
京花が亡くなったという事実を、祐一の世界でだけ無かったことにする。それが俺の考えた作戦だった。
「え、海外に!?どうしてそんな急に…!」
祐一は俺の言葉を信じて疑っていない。このままいけば、嘘をつき通せるかもしれない。
そんな希望を見出した俺は、動き始めた。
祐一と関わりがあって、なおかつ京花の死を知っている人物。そのような人に片っ端から声をかけて、事情を説明した。
あまりにも必死の形相で説得したからなのか、思ったよりも多くの人から了承を得ることができた。勿論、一小学生の意見でしかなかったため、反対されることもあった。
それでも、1人でも多くの人に協力を仰いだ。全ては、祐一の世界を守るためだった。
その結果、奇跡的にも祐一は京花の死を知らないまま成長していき、そして今に至る。
*
星原の口から紡がれる衝撃的な事実を、私は黙って聞いていた。
「つまり…祐一は過去に一度、記憶喪失まがいの状態になったことがあるってこと?」
「ああ。前向性健忘の最中に脳の処理に問題が起きて、錯乱状態の記憶…つまり京花が実は亡くなっているという記憶が蘇ったと考えれば、辻褄があってしまう」
確かに、現状一番有力な説だと思った。仮にそうだとしたら、祐一の心理的苦痛を和らげる方法がある。
「ねえ星原、祐一にそのことを話そう。正直に真実を話して、そうすれば、治る兆しが見えるかもしれない」
予想できてはいたが、やはり星原は良い表情をしなかった。
「む、無理だ」
俯く彼に、私はかける言葉を失う。
「あれから10年、いや、それ以上の時が経ってる。今更真実を伝えたら、もう祐一がどうなってしまうか分からない」
祐一の世界が、壊れてしまうと、彼は震える声で付け足した。
「そんなの…言い訳だよ」
私は小学生時代の当事者じゃないから、そう軽々しく言えるのかもしれない。それでも…。
「京花さんが引っ越したっていう嘘をついたのは、祐一を守りたいっていう気持ちがあったからなんでしょ。確かに、大分思い切った嘘だとは思うけどさ…その気持ちは絶対に間違ってない!」
私は更に畳み掛ける。
「その気持ちが今も一緒なら、きっと祐一にも伝わるはずだよ。だから…お願い、祐一と話をしてほしい」
星原にとって都合が悪いのも、祐一の状態が悪化する可能性を否めないことも、全て分かっている。その上で、私は一つの残された可能性に賭けてみたい。
そこまでして祐一に私のことを思い出して欲しいというのは、私の勝手なのかもしれないけれど。
「…分かった」
星原の呟きに私は顔を上げる。
「…俺、祐一と一緒にいる時にすげえ胸が苦しくなることがある。きっと、祐一の嘘の世界を形成してしまった罪悪感なんだろうけど」
ここまで聞いて気づく。彼の瞳がうっすらと濡れている。
「ここに至るまで、何回も1人で悩んだよ。俺は祐一の隣にいて大丈夫なのかって。どうすることが祐一の幸せなんだろうなって。でもいつまでたっても結論が出なくてさ」
彼の声が震えている。きっと星原は誰にも相談できないまま、このように何回も悩んでいたのだろう。
「…もう、逃げるのはやめる。この後、祐一の定期検査が終わったら、話をしてみる」
星原…!
「ありがとう、本当に!!」
こうして私は、星原の昔話を聞いた。なんだかすごく長い時間が経っているように思えるのだが、まだ祐一は検査から帰ってきていないようだ。
星原がどうするのが正解なのか、今でも私には分からない。祐一が今後も真実を知らないまま生きていくのは果たして本当の幸せと言えるのか。
相手にとって何が幸せなのか、ある程度推し量ることはできても、全てを理解することはできないし、定義も曖昧だ。それでも私たち人間は、相手の幸せを願ってしまう。大切な人の幸せを願わない人はいない。なんだか皮肉のように思えた。
考えても考えてもやはり分からないが、それでも1つだけ思う。
星原の願いは、きっと間違ったものではないのだ。
俺たちは皆同じ小学校に入学した。1年生の時、クラスが3人とも離れ離れになってしまう。3人のクラスが違うことを知った時は京花が大泣きして、それを祐一が慰めていたっけ。
そうは言っても、クラスが別れたくらいで俺たちの仲に変化は起きなかった。休み時間になれば他のクラスに遊びに行くこともできたし、家も変わらず近いため、疎遠になるようなことにはならない。
しかしそんな日々にも少し変化が起きる。
「なあ祐一、京花のクラスにあそびにいこう」
とある日の休み時間、俺はいつもの如く祐一のところに出向いた。
「うん、いいよ。いこういこう!」
2人で教室を飛び出し、先生に注意されないように走らずに廊下を歩きながら京花のいるクラスへと向かう。俺は1組、祐一が2組で、京花が4組だった。
4組の教室の扉を開ける。するとすぐに違和感に気づく。
「ねえねえ亮二、京花がどこにもみあたらないよ?」
「あれ、ほんとだな。がっこうやすんでるのかな?めずらしい」
いつも京花は真ん中の一番後ろの自分の席にいることが多かったのだが、そこには姿が見えなかった。
「うーん、トイレにでもいってるんじゃね?ちょっとまっててみようぜ」
廊下でしばらく時間を潰すがいつまで経っても京花の姿は見えない。
痺れを切らし、近くにいた女子に話しかける。
「なあ、京花ってどこにいる?」
いきなり声をかけたせいか、怪訝そうな目で見られる。隣で祐一が慌ててフォローを入れてくれた。
「えっと、4くみに沢井京花ってひとがいるとおもうんだけど、どこにいるのかわかる?」
「あー、京花ちゃんなら、きょうはとちゅうでかえっていったよ」
どうやら聞いたところによると午前の授業中に京花は具合を悪くしたらしく、早退したようだ。
朝一緒に登校した時はいつも通り元気だった。急に体調を崩してしまったのか。
「おしえてくれてありがとう!」
その日の放課後、京花の家を訪ねると京花が母親と一緒に顔を出し、「ちょっと風邪引いちゃったみたい」と言ってきた。
風邪ならば数日もすればすぐに治るだろうと考えていたのだが…。
「ごめん、きょうもがっこうやすむね」
1週間が経っても京花の体調は良くなることを知らなかった。俺は小学生ながらに違和感を覚えた。
「びょういんには、いったのか?」
「うん、おいしゃさんにみてもらった。えーっと、おくすりのんでれば、いつかなおるんだってさ!」
あの時の俺は京花の言葉を信じていた。祐一だって、京花の風邪はいつか治るものだと信じていたのに。
ある日、俺と祐一は知ってしまった。
京花が心臓の病を持っていて、余命宣告を受けていたことを。
知ってしまったというよりかは、京花の親から伝えられたというのが事実だ。
少し前から京花は心臓発作を起こすようになって、それが最近になって急激に悪化してきたこと。入院生活になるため、しばらくは一緒に学校に行けないこと。余命1ヶ月のこと。色々なことを、聞いた。
最初俺は信じなかった。余命という自分の生活から遠く離れた言葉の意味をよく理解していなかったというのもあるが、俺は現実を受け入れなかった。京花は少し経てば戻ってくるんだと、また3人で一緒に走り回れるのだと、そんな思考の檻に囚われていた。
その檻を壊してくれたのは、祐一だった。
「亮二、京花がびょうきなのは、じじつなんだよ」
ある日、2人で歩く帰り道。祐一が俺に言ってきた。
「な、なんだよ、祐一まで!京花がびょうきなわけないだろ!もしびょうきだったとしても、おいしゃさんがバイキンをやっつけてくれるんだろ!?」
もう、この時の俺は分かっていたのだと思う。全てが事実であることを。その上で意味もなく抗っていたのだ。
「おやにたのんでさ、京花のびょういんに、いこうよ」
「うぅっ…いやだ、いやだ」
勿論、京花に会えるものなら会いたかった。けれど、病室に寝そべる衰弱した様子の京花を見るのが怖かった。
「亮二!」
普段は温厚な祐一が、珍しく大声を上げた。俺は思わず怯む。
「ぼくだって、つらいものはつらいよ。けれど、いちばんつらいのは、京花なんだよ!?ぼくたちが、京花をささえてあげようよ!」
祐一の説得に、俺は言葉を失う。
そうだ、そうだ、確かにそうだ。俺が悲しんでいる場合じゃない。
「ありがとう祐一。おれも、京花のところにいきたい。おやにたのんでみるよ!」
そして2人で親に頼み込み、京花がいる病院へと連れて行ってもらった。
「げんき、だして!」
「ぼくたちが、ついてるから」
「亮二、祐一…ありがとね」
京花は、目に見えて衰弱していた。一緒に走り回っていた頃が嘘かのように、弱っていた。
京花を元気付けたくて、俺たちは明るい話題を振った。病気のこととか命のこととか、そんなことを考えなくて済むように、日常の何でもない話をたくさんした。
それから2週間後のことだ。
俺と祐一は、また京花の病院へと足を運んだ。
「もう、しんじゃうんだって」
開口一番、京花が呟いた。
「いやだよ、ふたりとはなれたくない」
俺たちも、同じ気持ちだ。こうして離れることもなく平和に暮らせたらどんなに幸せだっただろうか。
かける言葉が見つからず呆然としていると祐一が言った。
「しんでも、うまれかわればいいんだよ」
突然の発言に驚いた。生まれ変わり、だと…?
「ひとはしんでも、うまれかわってべつのにんげんになれるって、ぼくのじいちゃんがいってたよ」
死んだら、何に生まれ変わるんだろう。猫とか鳥とか、もしかしたらもう一度人間になるのかもしれない。
あまりに突拍子のない話だったが、京花は顔を綻ばせて答えた。
「ありがとう、わたし、がんばってうまれかわる!」
京花の訃報を聞いたのは、その翌日だった。夜が明けて空の色が変わり始めた辺りに、両親に見守られて静かに逝ったとのことだった。
俺は声をあげて泣いた。今思えば、京花の側にいながらも何もできなかった自分への怒りとか、どうして京花がこんな目に遭わなきゃならないんだというこの世の不条理への抗いとかの気持ちも込められていたように思う。
でも、前みたいに現実を拒絶するようなことはしなかった。祐一が、あの時俺を説得してくれたおかげでなんとか現実を受け入れようと努力できた。
なんとか最低限の冷静さを保つことができた俺は、祐一の様子がおかしいことに気がつく。
上手くは言い表せないが、俺の何倍も何倍も憔悴していたのだ。
祐一は、今まで悲しみの感情を殆ど表に出さずに俺や京花に接し、京花のことを慰めたり楽しませたりしていた。
それなのに、今になって急激に悲しみに支配されている。
俺は、子供ながらに気づいた。
祐一は、俺が思っている以上に強い人間なのだ。「自分より京花の方が辛いはずだから、自分が悲しみを滲ませてはいけない」という、言葉にしてみれば至極単純な理由で、ずっと自分の中にある悲しみを押し殺してきたのだろう。言わば自己犠牲なのだ。
しかし、肝心な京花はもう他界してしまった。祐一が悲しみを押し殺す理由が、なくなってしまった。
だから祐一の中で、今まで溜め込んできた感情が爆発したんだろう。
祐一は廃人のようになった。俺がどんな気休めの言葉を投げかけても、全てを拒絶された。
そんな状態が続いたある日。いつものように祐一の様子を見に行くと、祐一の記憶が錯乱していることに気がついた。
「ねえ亮二、京花の姿を最近見ないけれど、どこに行ったのかな?」
俺は戦慄する。祐一は、冗談を言っているわけではない。祐一の記憶から、京花が亡くなったという事実が消えていた。悲しみに支配された結果、祐一の本能が京花との死別を記憶から消している。
久々に、悲しみに支配されていない祐一を見た。
この瞬間、俺は全てを決断した。
もう、祐一があれほどにまで憔悴する様子を見たくないから。祐一には、前に進み続けて欲しいから。そんな願いを込めて。
「祐一、覚えていないのか?京花は、親の都合で急に海外に引っ越してしまったじゃんか」
京花が亡くなったという事実を、祐一の世界でだけ無かったことにする。それが俺の考えた作戦だった。
「え、海外に!?どうしてそんな急に…!」
祐一は俺の言葉を信じて疑っていない。このままいけば、嘘をつき通せるかもしれない。
そんな希望を見出した俺は、動き始めた。
祐一と関わりがあって、なおかつ京花の死を知っている人物。そのような人に片っ端から声をかけて、事情を説明した。
あまりにも必死の形相で説得したからなのか、思ったよりも多くの人から了承を得ることができた。勿論、一小学生の意見でしかなかったため、反対されることもあった。
それでも、1人でも多くの人に協力を仰いだ。全ては、祐一の世界を守るためだった。
その結果、奇跡的にも祐一は京花の死を知らないまま成長していき、そして今に至る。
*
星原の口から紡がれる衝撃的な事実を、私は黙って聞いていた。
「つまり…祐一は過去に一度、記憶喪失まがいの状態になったことがあるってこと?」
「ああ。前向性健忘の最中に脳の処理に問題が起きて、錯乱状態の記憶…つまり京花が実は亡くなっているという記憶が蘇ったと考えれば、辻褄があってしまう」
確かに、現状一番有力な説だと思った。仮にそうだとしたら、祐一の心理的苦痛を和らげる方法がある。
「ねえ星原、祐一にそのことを話そう。正直に真実を話して、そうすれば、治る兆しが見えるかもしれない」
予想できてはいたが、やはり星原は良い表情をしなかった。
「む、無理だ」
俯く彼に、私はかける言葉を失う。
「あれから10年、いや、それ以上の時が経ってる。今更真実を伝えたら、もう祐一がどうなってしまうか分からない」
祐一の世界が、壊れてしまうと、彼は震える声で付け足した。
「そんなの…言い訳だよ」
私は小学生時代の当事者じゃないから、そう軽々しく言えるのかもしれない。それでも…。
「京花さんが引っ越したっていう嘘をついたのは、祐一を守りたいっていう気持ちがあったからなんでしょ。確かに、大分思い切った嘘だとは思うけどさ…その気持ちは絶対に間違ってない!」
私は更に畳み掛ける。
「その気持ちが今も一緒なら、きっと祐一にも伝わるはずだよ。だから…お願い、祐一と話をしてほしい」
星原にとって都合が悪いのも、祐一の状態が悪化する可能性を否めないことも、全て分かっている。その上で、私は一つの残された可能性に賭けてみたい。
そこまでして祐一に私のことを思い出して欲しいというのは、私の勝手なのかもしれないけれど。
「…分かった」
星原の呟きに私は顔を上げる。
「…俺、祐一と一緒にいる時にすげえ胸が苦しくなることがある。きっと、祐一の嘘の世界を形成してしまった罪悪感なんだろうけど」
ここまで聞いて気づく。彼の瞳がうっすらと濡れている。
「ここに至るまで、何回も1人で悩んだよ。俺は祐一の隣にいて大丈夫なのかって。どうすることが祐一の幸せなんだろうなって。でもいつまでたっても結論が出なくてさ」
彼の声が震えている。きっと星原は誰にも相談できないまま、このように何回も悩んでいたのだろう。
「…もう、逃げるのはやめる。この後、祐一の定期検査が終わったら、話をしてみる」
星原…!
「ありがとう、本当に!!」
こうして私は、星原の昔話を聞いた。なんだかすごく長い時間が経っているように思えるのだが、まだ祐一は検査から帰ってきていないようだ。
星原がどうするのが正解なのか、今でも私には分からない。祐一が今後も真実を知らないまま生きていくのは果たして本当の幸せと言えるのか。
相手にとって何が幸せなのか、ある程度推し量ることはできても、全てを理解することはできないし、定義も曖昧だ。それでも私たち人間は、相手の幸せを願ってしまう。大切な人の幸せを願わない人はいない。なんだか皮肉のように思えた。
考えても考えてもやはり分からないが、それでも1つだけ思う。
星原の願いは、きっと間違ったものではないのだ。


