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 彼は、柿本(かきもと)信次(しんじ)という名前らしい。
 恐らくこの学校の元生徒で、背中の数字からすると死んでから5年ほど経っている。
 しかし、亡くなった経緯と、四十九日を過ぎても成仏できなかった原因は、ぼんやりとしていてはっきりとは思い出せないらしい。
「確かあの日、俺はどこかへ向かってたんだ。何か大切なことがあって、そのためにどこかに行こうとしていたんだけど……。それがどこだったのか、何をしようとしていたのかは、あんまり思い出せなくて……」
 はあ、と柿本信次は深く溜め息を吐いた。
「記憶喪失、なのかな……」
 気遣わしげに茜は柿本信次を見遣る。私は首を傾げた。
「んー、このタイプの幽霊には初めて逢ったからな、私にもよくわからん」
 死んだ時のショックで記憶が飛んだのか、それとも死んでから時間が経ったことで徐々に忘れていったのか。謎が多すぎる。
「でも、この臙脂色のユニフォーム、うちの学校の男子バレー部の奴だと思うんだよね。てことはさ、今やってる球技大会見れば、何か思い出すんじゃない⁉」
「……ま、それもいいかもね」
 そうと決まれば、ともう少し見易い手前の席に三人で移動する。観覧席の一番前の手摺りに身体を預け、下で繰り広げられている試合を視界に映した。
「あっ、見て見てレイ! レイのクラスの男子勝ってるみたいだよ! 小久保君のおかげかな」
 ちょうどクラスの男子が他のクラスと試合を行っているようだった。得点は18対10でうちのクラスの方が優勢のようだ。
「ふーん……」
 正直私はあまり興味がないが、他にやることもないので試合の行方を見つめた。
「次は小久保君のサーブみたい」
 隣の茜を含め、多くの女子が熱い視線を送る先にいたのは、腐れ縁の男だった。
 小久保一樹は相手のコートを見据え、サーブの構えを取った。切れ長の瞳が真剣な光を宿していた。
 ピッー。
 ホイッスルが鳴ると同時に、奴はフワッとボールを浮かせた。刹那、ボールに合わせて、たたんっと飛び上がり、長い腕の先のゴツゴツした掌がそれを捉える。
 バンッ。
 小気味いい音と共に放たれたそのボールは、綺麗な放物線を描いて敵陣地のコートへと吸い込まれていく。
 ピッ。
 短くホイッスルが鳴らされ、点が入ったのだと気付いた。
「……ふーん」
 あいつ、なかなかやるじゃん。
 そう思ったのは私だけではなかったようで、一瞬で周りがわっと沸いた。
「凄い、凄いよ! 小久保君、めっちゃ格好いい!」
 キラキラと目を輝かせて興奮する茜に呆れる──と、その時だった。
「──?」
 何だか強い悪寒がした。嫌な予感というか、凄く、不快な感情をぶつけられているような、そんな背筋の凍る気配。はっとしてその気配の出所を探ると、それはすぐ隣から出されているものだと気付いた。
 すぐさま横を向いた。
「──っ⁉」
 その瞬間、私は目を見開いた。隣に立つ柿本信次から、禍々しい黒い靄のようなものが立ち上っていた。
「……なん、で、俺はあそこにいない? どうして、俺、は、死んでる? なんで、どうして」
 壊れたように呟く柿本信次に、予感は確信に変わる。
 ──これは、悪霊化の兆候だ。
 気付いたその時に私はすぐさまコートに目を戻した。そして、不自然に動き出したボールに目が止まった。
 ──向かう先には、アタックを打とうと飛び上がった小久保一樹の姿があった。
 瞬間、私は叫んでいた。
「カズっ、避けろ!」
 その大声に、周りから一斉に視線が集まるが、そんなことはどうでもよかった。
 飛び上がった小久保一樹は、私の声に気付いたのか、器用に少しだけ着地点をずらした。
 奴が降り立ったのは、転がってきたボールの、ほんの少し右側だった。
 ピピっと主審のホイッスルが鳴らされ、試合が中断される。
「ちょっと、あんた何やって──」
 それを見た後、振り返って柿本信次に怒鳴ろうとしたその言葉は、途中で途切れた。
 ──柿本信次が、そこから消えていた。