──妊娠三ヶ月。

その事実を知ってから、紗英の日常は音もなく崩れ始めた。

出版社での研修初日、朝から激しい吐き気に襲われ、最寄駅のトイレで嘔吐してしまった。顔を青くして出社した紗英を、先輩社員たちはどこか冷ややかな目で見た。

「え、大丈夫? 体調悪いなら休めばいいのに」

そう言われたが、紗英には休む理由を正直に言うことなどできなかった。まだ正式に社員にもなっていないのに、「妊娠してます」とは言えない。

結局、彼女は黙って仕事を続けた。

だが、体は正直だった。細かい校正作業に集中できず、チェックミスが重なった。昼休みには食欲がなく、休憩室で水だけを飲んで過ごすことが多くなった。

そしてある日、編集長に呼び出された。

「紗英さん、ちょっといいかな」

会議室に入ると、机の上には研修評価シートが置かれていた。

「率直に言わせてもらうけど…、今のままだと正社員登用は難しいかな」

紗英は黙ってうなずくしかなかった。

「何か…事情があるなら、相談に乗るけど」

その言葉に、一瞬だけ“打ち明けようか”と迷った。でも、喉の奥で言葉が止まった。

「…いえ、大丈夫です」

それ以上、何も言えなかった。

会社を出た後、紗英は駅前のベンチに腰を下ろし、ふらつく足を抱えるようにしてうずくまった。

スマホの画面には陽介の名前。もう連絡先は削除したはずなのに、無意識に検索していた。

「…最低だな、私」

ぽつりとつぶやいた声が風に消える。

その日、紗英は帰宅せず、安ホテルに泊まった。持ち金はほとんどなかった。カードで支払った宿泊費は、来月の請求となって自分をさらに苦しめることになる。

実家にはもう何ヶ月も連絡していなかった。あれ以来、家族とは縁を切ったも同然だった。

母の言葉が頭に蘇る。

──「公立なんて、どんな家庭の子がいるかわからないじゃない」

いまの自分こそ、母の言う“どんな家庭の子”以下だと、紗英は思った。




数日後、ついに会社から正式に契約終了の連絡が入った。理由は「本人の体調不良による業務不適応」。

職を失い、行く当てもなく、預金残高はわずか数千円。

産婦人科にも、もう行けない。

ふと、交差点の向こうに見える「日払いバイト募集」の看板が目に入った。

最初はただ、通りすぎようとした。でも、足が勝手に止まった。

数分後、紗英はそのビルの中にいた。面接は形ばかりで、身分証とサインを済ませると、「すぐに働けるよ」と言われた。

紹介されたのは、繁華街の小さなガールズバー。妊娠を告げるつもりもなく、ただ「短期で」とだけ伝えた。



ドレス姿でカウンターに立った夜、紗英はかつてのお嬢様らしい所作を身につけた自分が、別人のように思えた。

「なんか、気品あるよね~、育ち良さそう」

客の言葉に、心の奥がひどく冷えた。

“気品”なんて、もうとうに脱ぎ捨てた。守ってくれる家も、名前も、愛もない。ただ、この夜の対価だけが、唯一の現実。

その夜、紗英は酔った客に腕を掴まれ、軽く口説かれた。無理に笑顔をつくって応じたが、心の中では、激しい嫌悪と羞恥が入り混じっていた。

「…私、どこまで落ちていくんだろう」

帰り道、コンビニの明かりの下で自分の影を見つめながら、紗英はそう呟いた。

お腹の中にいる命だけが、まだ彼女にとって唯一「何者かでいられる」証だった。

しかしその命をどうするか──答えは、まだ出せないままだった。