その日、地域の市民ホールでは、小さな「絵本のひろば」が開かれていた。主催は図書館と福祉協議会。紗英が絵本の読み聞かせを行う、初めての公式イベントだった。

会場には、親子連れや保育園児、小学生が集まり、カラフルなマットの上にわくわくした表情で座っていた。スタッフが紹介する。

「みなさん、こんにちは。今日は、絵本作家の紗英さんが来てくれました。拍手でお迎えください」

パチパチパチ……。

舞台脇から、電動車椅子に乗った紗英が静かに登場した。やや緊張した表情だが、口元には笑みを浮かべていた。

「みなさん、こんにちは。私は、"くまくん"の絵本を描いた紗英です。今日は、みんなにくまくんのお話を読みにきました」

絵本の表紙がモニターに映し出され、ページをめくるたび、子どもたちの目がきらきらと輝く。

> 「くまくんは、ある日 大きなけがをしました。もう、自分の足では歩けなくなってしまったのです……」



読み進めるうちに、数人の子どもがそっと目を伏せた。紗英は、その気配に気づき、声のトーンを少し柔らかくする。

> 「でも、くまくんは、森のともだちに支えられて、あたらしい車いすで、ちいさな冒険に出かけます――」



ページの最後、子どもたちから拍手が起こった。

読み聞かせのあと、「質問タイムです」とスタッフが声をかけると、ひとりの女の子が手を挙げた。

「くまくん、ほんとうにいたの?」

紗英は微笑んで答える。

「うん。いるよ。私のなかに、くまくんはずっといるの。ちょっと、私みたいでしょ?」

すると、男の子が前に出てきて、紗英に紙を差し出した。

「ぼく、足が悪い弟がいるんだけど、この絵本、弟に読んであげたい。ありがとう!」

その一言に、紗英の胸がいっぱいになった。

「こちらこそ……ありがとう」

イベントの終わりには、子どもたちが紗英のまわりに集まり、握手を求めたり、絵本にサインをお願いしたりした。小さな車椅子の紗英を、子どもたちは怖がることなく、自然に受け入れていた。

──あぁ、こんな風に、少しでも誰かのなかに「勇気」が生まれるなら、私はまた、描き続けよう。

そう紗英は静かに思った。

イベント後、帰り道。

「君、ほんとうに素敵だったよ」
航平がそっと、紗英の肩に手を置いた。

「ありがとう。でもね……私じゃなくて、くまくんがすごいの」

「ううん、くまくんを描いた、君がすごいんだよ」

月が静かに照らす夜、紗英の胸の奥で、あたらしい物語の芽が、そっと息を吹き返していた。