翌朝、いつもより更に早く出勤した。ルナとの約束があるので夜は長く残業できない。始業前から溜まった仕事を大急ぎで片付け、息を吐く間もなく始業時間がやってきた。

 そろそろ宮田に頼まれた資料に取り掛かろうとしたところで、太り肉のおばさんがフロアに現れた。手にはエコバッグを提げていて明らかに場違いだが、表情からして迷い込んだ感じではない。

 もしかして松谷さんかな。
 塩分濃度計を取りに来たのだとピンときた。

 誰か出てくれないだろうか。
 さっきまでお喋りしていた葉月と百合奈にチラリと視線を送る。二人はいち早く察知して、忙しそうにパソコンのキーを叩き始める。私はしぶしぶ立ち上がった。

「商品を取りにきたんだけど」

「塩分濃度計をご注文いだいた松谷さまですね。こちらになります」

 用意してあった濃度計をカウンターに置くと、呆気にとられる私の前で松谷がガサガサと封を開けた。そのまま、エコバッグから取り出したスーパーの総菜に濃度計を突き刺す。

 ぴぴっ。濃度計は当然、エラーを表示した。途端に、松谷の顔が険しくなる。

「いったいどういうことよ! 不良品よ、これ!」
 皺に囲まれた目を、松谷がひん剝く。

「先日、電話でご説明した通り、こちらの商品は汁物にしか使えないんです」

 思わずのけぞりながら、やっぱり面倒なことになったと頭痛がしてくる。
 何を言っても松谷にはミスした社員の言い訳にしか聞こえないだろう。案の定「とにかく返品よ!」の一点張りだ。

「申し訳ございませんが返品は致しかねます。商品の開封もされておりますし」

 だからあれほど説明したのに。
 そう怒鳴りたい気分だった。相手が客というだけで、こんな非常識なオバサンに頭を下げなければいけないなんて、理不尽だ。

「いらないってば! 人を騙して金払えなんてよく言えるわね。図々しい」

 松谷が濃度計をカウンターに叩きつける。私は助けを求めてフロアに視線を送った。
 百合奈と葉月がさっと俯く。係長は明後日の方向を見ていて助けてくれそうもない。

「相田広子! 覚えたからね」

吐き捨てると松谷は止める間もなくノシノシと去って行った。

 いっそ清々しいまでにありえない。
 こっちこそ覚えたぞ、松谷千恵子。そう怒鳴りたいのを堪えて、煮物の欠片がついた濃度計をティッシュで拭いて箱に戻す。

 すべて投げ出して帰りたい気分だが、社会人としてきちんと後始末はしなければならない。箱を手に係長の席に行く。

「何やってるの相田くん。新人じゃないんだからさ」
 
 係長が渋い顔で舌打ちする。結局、私のミスということになって商品代は給料から天引きされることになった。あまりに理不尽だったが反論したって無駄だ。「勉強代だ」と自分に言い聞かせる。
 ストレスで眩暈がした。いい年した大人が人前で泣くなんてあり得ない。表情だけは平静を保ち、席に戻る。

「災難だったねぇ。でも広子も対応固くない?」
「じゃあ、どうすればよかったの」

 同情の下に浮かぶ嘲笑が隠せていない百合奈にカチンときて、思わず尋ねる。

「適当にご機嫌とって、売りつけちゃえばよかったんだよ。お味噌汁とかスープには使えますよとか言ってさ」

「まぁ、いい勉強になったんじゃない? ああいう面倒なお客さんは引き受けないのも手よ、相田さん」

 葉月が上司然として言い放つ。
 どの口が言っているのだと思ったが、もう反論する気も起きなかった。
 この会社は卑怯者ばかりだ。
 堪えきれなかった溜息が、節電で薄暗いロアに虚しく溶けていく。
 
 パソコンの画面も同僚たちの顔も見たくなくて窓の外に目を向けると、清々しいくらい晴れていた。
 今頃、ルナたちは高校だろうか。奏夜はともかく、ルナは屋上で昼寝でもしているかもしれない。想像すると少しだけ頬が緩んだ。
 なんだか急に、夕方の練習が待ち遠しくなってきた。