いつも通り就業後に一人、溜まった事務を片付けよう腕まくりをしたところで、清掃業者が入るからと職場を追い出された。
仕方なく、夕日の浮かぶ道を帰る。久しぶりに見る茜空はどこか懐かしくて綺麗だ。せっかくだからどこかに出掛けようかなと考えかけて、ふと、昨夜の廃ビルでの出来事を思い出す。
夢だと思ったが、鞄のポケットにはちゃんとシークレットベースと書かれたカードが入っていた。
「ホストクラブだったりしてね」
独り言ちつつ、スマホで地図を調べて電車に乗る。
家と職場以外の区間に乗車するのは久しぶりだ。見慣れない景色を眺めているうちに、なんだかワクワクしてくる。
このままどこか遠まで行きたい。青臭いことを思い始めた矢先に、目的の駅に着いた。
どちらかといえばうらびれた、良くも悪くもごちゃごちゃとした駅前だった。少し歩くとどぎつい色のネオンサインが輝き、ガラの悪そうな人が闊歩する通りに出た。
内心びくびくしながら、地図を頼りにシークレットベースを目指す。
十分ほどして、ごく普通の三階建てのビルに着いた。ガラス戸を押して入ると、劇場にありそうな観音開きの扉が見えた。
飾り気のないくすんだ金色の取っ手には、CLOSEDの看板がかけられている。そのわきに、地下に続く薄暗い階段があった。
「あなたがソウの言ってた歌姫?」
下りていってもいいものかためらっていると、後ろから声を掛けられた。
透き通った、鈴を転がすような声。振り返ると、色白の美少女がこちらを見つめていた。
淡い金色の長髪に細長い手足、鼻は小さく、形の良い唇はほんのり桜色に染まっている。やや猫目の、湖を湛えたような大きな瞳が印象的だ。
「私、ルナ。お姉さんは?」
「相田、広子」
「ふうん。なんか名前も地味ね」
くすりと笑われて耳まで熱くなる。天使みたいだと思ったが、なんだか失礼な娘だ。高校生くらいだろうか。体にぴったりフィットしたミニのワンピースはちょっとキャバ嬢っぽい。正直苦手なタイプだった。
「じゃあ、さよなら」
「会っていきなり『さよなら』って。変な人」
ぷくくくっと、ルナが笑い出す。
無邪気に笑っているとやっぱり天使のように愛らしいが、発言は相変わらず失礼だ。箸が転げても可笑しい年頃なのだと無視して踵を返す。
「ちょっと待って。ソウに言われて来たんでしょ」
「ソウって誰?」
「お姉さんにここのカード渡した男の子よ。猫背でおっきい子」
言いながら、ルナがぐいぐいと私を引っ張っていく。薄暗く急な階段の両壁は、ポスターやチラシで埋め尽くされていた。その中に『B1F シークレットベース』とそっけない貼り紙を見つける。
私はアリスになった気分で、渋々ルナに続いた。
階段を下りたすぐの受付に、昨夜の青年が座っていた。イヤホンを耳に突っ込み、雑誌を広げたまま俯いている。
「ソウ、連れて来たわよ。ちょっと部屋借りるね」
ルナが声をかけると、青年はちょっとだけ顔を上げて頷いた。それからこちらに目礼すると、後は何事も無かったように雑誌に視線を戻す。
新人類か。
こんな所来るんじゃなかったと内心舌打ちをする。
「ほら、入って」
ルナに背中を押されて、一番奥の個室に入る。
壁にそって黒いソファが並び、正面にはモニターやオーディオなどの機材、左手の壁はガラス張りになっていて、スタンドマイクが設置された隣の部屋が見えた。
「これってレコーディングルーム? すごい、テレビで見たのと同じだ」
思わず部屋の中をきょろきょろと見回す。
黒いスタンドマイクに向かってアーティストが歌い、スタッフがこちら側で出来栄えをチェックし録音している。そんな場面を想像するだけで胸が躍った。
「お姉さん、意外にミーハーなんだね」
またルナが笑う。
「ソウのことだからろくに説明してないと思うけど、私はルナ。高校二年生。ちなみに受付にいた奏夜(そうや)は私の同級生で幼馴染。お姉さんには私と一緒にこれに出てもらうから」
ルナがミニスカートのポケットから小さく折り畳んだ紙を取り出して、突きつける。
『目指せデュエットデビュー! オーディション開催』
紙にはポップな文字が躍っていた。一次審査の締め切りは一週間後、二次審査のオーディションはさらに二週間後だ。
「なんの冗談?」
「お姉さん天然? 冗談言うためにわざわざ、見知らずの他人をこんな所に呼び出すわけないじゃん」
「初めましての人といきなりデュエットデビューしようなんて、どう考えても冗談としか思えないけど」
無邪気にクスクス笑うルナに、天然はどっちだと呆れてしまう。
「私はお姉さんのこと知ってる。歌ってみたの動画の人でしょ」
「動画から居場所を突き止めたの? どうやって」
感心を通り越して少し怖くなる。
動画はいつもあの廃ビルの屋上で撮っていた。でも身バレしないように顔は映さず、風景だって最小限になるようにしたのに。
「そんなのどうでもいいじゃない。それより、お姉さんの歌声すごく素敵よ。ソウのお眼鏡に叶う人なんてめったにいないんだから。それに『私を見つけて』って、叫んでるみたいだった」
澄んだ湖のような瞳で見つめられて、私はドキリとした。心の奥底を見透かされたような気分だ。
「歌手になりたいんでしょ」
「歌手……」
これは夢だろうか。
思わず頬を抓ってみる。普通に痛い。
「なにしてるの、ヘンな人」
そんな私をルナはちょっと気味悪そうに見た。
「ルナさんだっけ。つまりあなたは歌手になりたくて、デュエットデビューのオーディションに私と出ようとしてるってことでOK?」
私は震える声で尋ねた。
「さっきからそう言ってるじゃん。もういい? 練習始めようよ」
「待って! 私やるなんて言ってない。もう二十五歳だよ。今さらありえないでしょ」
「えっ二十五歳? やだ、もっと若いと思ってた。オバサンじゃん」
大きな目を瞬くルナに、私はこっそり傷ついた。神様は残酷だ。手遅れになった今になって夢をチラつかせるなんて。せめてあと五歳若ければと思う。
「まぁ、可愛い顔してるし、童顔だし、自称高校生でもしばらくは大丈夫なんじゃない」
黙り込む私に、ルナが恐る恐る言う。
「詐称は犯罪だよ。じゃあ、そういうことで」
「待って待って! とにかく、やってみなきゃ分からないでしょ。プロフィールには二十歳って書いとけばOKじゃん」
「だから、駄目だって。それに、こんなオバサンと組んだら絶対不利になるわよ」
「死にたいって顔してた」
「え?」
私は驚いてルナを見つめ返す。硝子玉の瞳が貫くようにこちらを見ている。
「どうせつまらない人生送ってるんでしょ。やる前からムリって諦めて。それって何が楽しくて生きてるの?」
「他人にそこまで言われる筋合いない」
私はルナの手を振り払った。図星だから余計に痛かった。
「待って! 断るならこの動画、流すから」
ルナが怖い顔でピンク色のスマホをかざす。そこには昨日屋上で叫んだり歌ったりしていた私が、顔丸出しで写っていた。
「ちょっと、なにそれ! いつの間に」
「だーめ」
慌ててスマホを奪おうとした私を、ルナが素早くかわす。
「ソウが撮ってたの。屋上で悪口叫ぶなんて子供みたい。こんなの晒されたらお姉さん、ぜったい恥掻くわよ。嫌なら協力して」
「それって脅迫じゃん。訴えるわよ」
「いいわよ。でもお姉さんの動画は流すから」
ルナがべっとチェリーみたいな色の舌を出す。まるで悪魔だ。とんだ子たちに目をつけられてしまった。
仕方なく、夕日の浮かぶ道を帰る。久しぶりに見る茜空はどこか懐かしくて綺麗だ。せっかくだからどこかに出掛けようかなと考えかけて、ふと、昨夜の廃ビルでの出来事を思い出す。
夢だと思ったが、鞄のポケットにはちゃんとシークレットベースと書かれたカードが入っていた。
「ホストクラブだったりしてね」
独り言ちつつ、スマホで地図を調べて電車に乗る。
家と職場以外の区間に乗車するのは久しぶりだ。見慣れない景色を眺めているうちに、なんだかワクワクしてくる。
このままどこか遠まで行きたい。青臭いことを思い始めた矢先に、目的の駅に着いた。
どちらかといえばうらびれた、良くも悪くもごちゃごちゃとした駅前だった。少し歩くとどぎつい色のネオンサインが輝き、ガラの悪そうな人が闊歩する通りに出た。
内心びくびくしながら、地図を頼りにシークレットベースを目指す。
十分ほどして、ごく普通の三階建てのビルに着いた。ガラス戸を押して入ると、劇場にありそうな観音開きの扉が見えた。
飾り気のないくすんだ金色の取っ手には、CLOSEDの看板がかけられている。そのわきに、地下に続く薄暗い階段があった。
「あなたがソウの言ってた歌姫?」
下りていってもいいものかためらっていると、後ろから声を掛けられた。
透き通った、鈴を転がすような声。振り返ると、色白の美少女がこちらを見つめていた。
淡い金色の長髪に細長い手足、鼻は小さく、形の良い唇はほんのり桜色に染まっている。やや猫目の、湖を湛えたような大きな瞳が印象的だ。
「私、ルナ。お姉さんは?」
「相田、広子」
「ふうん。なんか名前も地味ね」
くすりと笑われて耳まで熱くなる。天使みたいだと思ったが、なんだか失礼な娘だ。高校生くらいだろうか。体にぴったりフィットしたミニのワンピースはちょっとキャバ嬢っぽい。正直苦手なタイプだった。
「じゃあ、さよなら」
「会っていきなり『さよなら』って。変な人」
ぷくくくっと、ルナが笑い出す。
無邪気に笑っているとやっぱり天使のように愛らしいが、発言は相変わらず失礼だ。箸が転げても可笑しい年頃なのだと無視して踵を返す。
「ちょっと待って。ソウに言われて来たんでしょ」
「ソウって誰?」
「お姉さんにここのカード渡した男の子よ。猫背でおっきい子」
言いながら、ルナがぐいぐいと私を引っ張っていく。薄暗く急な階段の両壁は、ポスターやチラシで埋め尽くされていた。その中に『B1F シークレットベース』とそっけない貼り紙を見つける。
私はアリスになった気分で、渋々ルナに続いた。
階段を下りたすぐの受付に、昨夜の青年が座っていた。イヤホンを耳に突っ込み、雑誌を広げたまま俯いている。
「ソウ、連れて来たわよ。ちょっと部屋借りるね」
ルナが声をかけると、青年はちょっとだけ顔を上げて頷いた。それからこちらに目礼すると、後は何事も無かったように雑誌に視線を戻す。
新人類か。
こんな所来るんじゃなかったと内心舌打ちをする。
「ほら、入って」
ルナに背中を押されて、一番奥の個室に入る。
壁にそって黒いソファが並び、正面にはモニターやオーディオなどの機材、左手の壁はガラス張りになっていて、スタンドマイクが設置された隣の部屋が見えた。
「これってレコーディングルーム? すごい、テレビで見たのと同じだ」
思わず部屋の中をきょろきょろと見回す。
黒いスタンドマイクに向かってアーティストが歌い、スタッフがこちら側で出来栄えをチェックし録音している。そんな場面を想像するだけで胸が躍った。
「お姉さん、意外にミーハーなんだね」
またルナが笑う。
「ソウのことだからろくに説明してないと思うけど、私はルナ。高校二年生。ちなみに受付にいた奏夜(そうや)は私の同級生で幼馴染。お姉さんには私と一緒にこれに出てもらうから」
ルナがミニスカートのポケットから小さく折り畳んだ紙を取り出して、突きつける。
『目指せデュエットデビュー! オーディション開催』
紙にはポップな文字が躍っていた。一次審査の締め切りは一週間後、二次審査のオーディションはさらに二週間後だ。
「なんの冗談?」
「お姉さん天然? 冗談言うためにわざわざ、見知らずの他人をこんな所に呼び出すわけないじゃん」
「初めましての人といきなりデュエットデビューしようなんて、どう考えても冗談としか思えないけど」
無邪気にクスクス笑うルナに、天然はどっちだと呆れてしまう。
「私はお姉さんのこと知ってる。歌ってみたの動画の人でしょ」
「動画から居場所を突き止めたの? どうやって」
感心を通り越して少し怖くなる。
動画はいつもあの廃ビルの屋上で撮っていた。でも身バレしないように顔は映さず、風景だって最小限になるようにしたのに。
「そんなのどうでもいいじゃない。それより、お姉さんの歌声すごく素敵よ。ソウのお眼鏡に叶う人なんてめったにいないんだから。それに『私を見つけて』って、叫んでるみたいだった」
澄んだ湖のような瞳で見つめられて、私はドキリとした。心の奥底を見透かされたような気分だ。
「歌手になりたいんでしょ」
「歌手……」
これは夢だろうか。
思わず頬を抓ってみる。普通に痛い。
「なにしてるの、ヘンな人」
そんな私をルナはちょっと気味悪そうに見た。
「ルナさんだっけ。つまりあなたは歌手になりたくて、デュエットデビューのオーディションに私と出ようとしてるってことでOK?」
私は震える声で尋ねた。
「さっきからそう言ってるじゃん。もういい? 練習始めようよ」
「待って! 私やるなんて言ってない。もう二十五歳だよ。今さらありえないでしょ」
「えっ二十五歳? やだ、もっと若いと思ってた。オバサンじゃん」
大きな目を瞬くルナに、私はこっそり傷ついた。神様は残酷だ。手遅れになった今になって夢をチラつかせるなんて。せめてあと五歳若ければと思う。
「まぁ、可愛い顔してるし、童顔だし、自称高校生でもしばらくは大丈夫なんじゃない」
黙り込む私に、ルナが恐る恐る言う。
「詐称は犯罪だよ。じゃあ、そういうことで」
「待って待って! とにかく、やってみなきゃ分からないでしょ。プロフィールには二十歳って書いとけばOKじゃん」
「だから、駄目だって。それに、こんなオバサンと組んだら絶対不利になるわよ」
「死にたいって顔してた」
「え?」
私は驚いてルナを見つめ返す。硝子玉の瞳が貫くようにこちらを見ている。
「どうせつまらない人生送ってるんでしょ。やる前からムリって諦めて。それって何が楽しくて生きてるの?」
「他人にそこまで言われる筋合いない」
私はルナの手を振り払った。図星だから余計に痛かった。
「待って! 断るならこの動画、流すから」
ルナが怖い顔でピンク色のスマホをかざす。そこには昨日屋上で叫んだり歌ったりしていた私が、顔丸出しで写っていた。
「ちょっと、なにそれ! いつの間に」
「だーめ」
慌ててスマホを奪おうとした私を、ルナが素早くかわす。
「ソウが撮ってたの。屋上で悪口叫ぶなんて子供みたい。こんなの晒されたらお姉さん、ぜったい恥掻くわよ。嫌なら協力して」
「それって脅迫じゃん。訴えるわよ」
「いいわよ。でもお姉さんの動画は流すから」
ルナがべっとチェリーみたいな色の舌を出す。まるで悪魔だ。とんだ子たちに目をつけられてしまった。



