昼間の月を見つけて

 日曜日、寮に戻って一人トレーニングをしていると、ルナが帰ってきた。

「あれ、彼氏はもういいの」

「別に。それよりヒロ、ごめん! 昨日の夜のこと、怒ってるよね?」
 大きな猫目の瞳が下から覗きこむ。

「気にして早く帰ってきたの?」
「当たり前でしょ。ホントごめん」
「こっちこそ、意固地になってごめんなさい」
「もっとヒロが自由に振る舞えたらって思ったの。経験がなくて悩んでるならサクッと解決してさ、そうしたら歌に全力出せるでしょ」
「それで男の人を紹介しようとしたの?」

 単純すぎる発想に思わず笑ってしまう。きっとルナは問題を直線で解決しようとするタイプなのだ。ぐるぐる回るように悩む私とは、考え方がまるで違う。

「でもね、それだけじゃなかったと思う。私は……」

 それ以上、ルナは言わなかった。ただ切ないほど張り詰めた顔をして、苦しそうで、綺麗だった。これが恋なのかもしれない。傷つくのが怖くて逃げ続けてきた臆病者の私にはまだ分からない感情。

「そっか。よしカレー作ろう」

 傷ついても誰かを好きでいる。なんでもいいからその勇気を称えたかった。

「はぁ、ワケわかんない。なんなの急に」
「ルナ好きでしょ、具のゴロゴロ入ったお子様カレー。ウジウジして迷惑かけたお詫び」
「謝ってるのは私なのに、ヘンなの。でも今のヒロ、魅力的だよ」
 ルナがふっと笑う。
「そうやって自然にしてたほうがぜんぜん良いと思う。歌って自由の象徴なんだから」
「そうかもね」

 自分らしさを取り戻そうと息苦しい水槽から抜け出した。なのにまた、失敗を恐れて誰かの作った水槽に飛び込もうとしていた。自由でいるのは案外難しい。だからこそ尊いのだ。

「じゃあ行こうか、ルナ」
 戸惑うルナの背を押し、寮のキッチンに立つ。

「ちょっとルナ、ジャガイモの皮、厚く剥きすぎ」
「だって、料理とか教えてもらったことないもん。あっ、ヒロ。リンゴも入れようよ」
「えー、甘口なのにこれ以上、甘くするの? 私、辛いほうが好きなんだけど」
「今日は私へのお詫びでしょ。てゆーかヒロ、包丁上手。タマネギも任せちゃお」

 二人でそんな風にあれこれ言い合いながら、カレーを作る。学生時代に戻ったみたいで楽しかった。もっとも、高校生の時の自分は物怖じしてルナみたいなタイプとは、こんな風に話せなかっただろう。
 自分に自信が無いなんて、謙遜に見せかけた見栄っ張りだ。そんなつまらない理由で今まで勿体ない生き方をしてきた。これからは二度と後悔しないよう、毎日全力で挑み、全力で楽しもう。そうすればいつかは、自分も恋をする日が来るかもしれない。

「カレーしか作れないんだよね、うちのママ」
 カレーを頬張りながらルナが呟く。
「じゃあ、これがルナのおふくろの味なんだ」

「そ。いつはコンビニ弁当とかカップ麺ばっか。ママの機嫌のいい時だけ作ってくれるの」

 ルナが大きな瞳を潤ませる。今日は随分とセンチメンタルだ。カレーでセンチメンタルってちょっと可笑しい気もしたけど、胸の奥がつんとした。

「私ね、歌が好き。でもそれだけじゃないの。歌手になって注目されたかった。大勢に注目されてママを見返してやる。ううん、本当はただ愛して欲しかった。子供みたいだね」
「ううん。私もね、母親に愛されたかった。だから焦ってたのかも。あのね、私、奏夜くんに迫っちゃったんだ」
「ええっ、うそうそ! やっぱりヒロとソウって」
「ちょっと、動揺しすぎ!」

 猫のように目を見開いて仰け反るルナの背中を、私は慌てて支えた。

「だっ、だって」

 瞳が泉のように揺れる。薄ピンク色の唇が震えて言葉が出てこない。いつもポンポンと物を言うルナが珍しい。

「ルナは奏夜くんのことが好きなんだね」
「えっ、別に、ソウとはそんなんじゃないし」

 ルナが忙しなく瞬きをしながら首を横に振る。これが恋する乙女の表情というやつか。今のルナは抱きしめたくなるくらい可愛らしい。

「よけいなお世話かもしれないけど、好きならよそにどうでもいい彼氏なんて作ってないで、ちゃんと伝えなよ。じゃないと、私みたいになっちゃうから」

「そういう言い方、卑怯だし。でも、ソウとは本当に何でもないの?」

 じっと伺うような目。ルナみたいに美人で魅力的でも、やっぱり不安な時は不安らしい。私は笑って頷いた。

「ないよ。大事な友達、ううん音楽仲間かな。その音楽仲間から預かってきた」

 MP3プレイヤーを取り出して、イヤホンのLを自分の耳に、Rをルナに渡す。

「うそ、もうできたの。早く再生して、ヒロ」
「分かったから、落ち着いて」

 動揺も忘れて興奮するルナに苦笑しつつ、再生ボタンを押す。イヤホンから通り過ぎる風のように美しくて優しい旋律が流れ出す。透明感の中に強さと淋しげな音が複雑に混ざり、切なげで、でも温かい。奏夜が私とルナをイメージしつつ作曲してくれたのが目に浮かぶようだった。
 ルナの細長い指先がリズムを刻み始める。うっとりとした綺麗な横顔。あまりに幸福そうで、いつまでも眺めていたくなる。

「やばい、鳥肌たった。ヒロ! 最終オーディションで絶対にこの歌、歌おう」
「もちろん。その前に絶対ラブソング克服するから」

 曲が終わるなり興奮気味に言うルナに、私は自信を持って告げた。この曲を歌うためなら、何でもできる気がしていた。